第二十七話「いつかここへ戻ってくる」③
五本の樫の木が生えた真っ白な世界。
私はまたここに帰ってきた。
目の前には相変わらず四人の〝私〟がいる。
幼少期の私。
彼女は哀れで無垢な赤子だった。
彼女はその目に光り輝く世界のみを映し出し、信念の根拠も愛情の所以も知らないからこそ、そこに屈託のない思いがあった。
彼女の目に自分自身は映らない。彼女は何も知り得ない。
そんな彼女のことをたった一人の母親が呪った。
だから、彼女には一生残る〝傷跡〟が付けられた。
「ママはね、やさしくてカッコよくて、ずっとわたしのそばにいてくれた。だから、ママは最高のお母さんなの」
「そうだね、本当はただそれだけでよかった。なのに、どうして私はその人を呪うようなことをしてしまったんだろう」
「しかたないよ。だれだってケンカはするもの。ママはそのあとに仲直りできることがいちばんだいじなんだって言ってた」
「あなたはこれでよかったって思う?」
「うーん、分からない。あなたは?」
「……人間が生まれる時に泣くのはさ、快よりも不快の感情を強く持って生まれてくるからなんだって。私が泣かないままでこの世界に生を受けたのは、所詮病気のせいでしかなかったけれど、もしかすると生まれてきたことを嫌がる様子を母さんに見せたくなかったからなのかもって思う」
「〝びょうき〟でよかったってこと?」
「違うわ。でも、違くてもいい。だって、あなたは見ているだけで誰かを幸せにしてくれる存在だったんもの。いなくなっちゃったら私寂しいわ」
高校生の私。
彼女は孤独で誇り高い獅子だった。
彼女はその胸に可能性だけを宿し、その実現以外の何も求めず、だからこそ、決して折れることのない気概を持っていた。
彼女の目に他者は映らない。彼女は何一つとして譲らない。
そんな彼女のことをたった一人の理解者が否定した。
だから、彼女には〝恥〟という感情が生まれた。
「私はね、自分が何かを成し得る人間なんだって考えて、疑うことをしなかった。どんな苦境がこの先待ち構えていたとしても、最後には自分の軌跡を誇れるような人間になりたかった」
「いいことじゃん。でも、身の程知らずでいられたのはほんの短い期間だったわ。だって、見渡してみれば世の中すごい人だらけだったんだもん」
「そんなの承知の上じゃない。最初から『自分がなんでもできる』なんて私は思ってなかったわ」
「あなたは私を弱い人間だと思う?」
「強いか弱いかなんて気にしたことないわ。そういうアンタは?」
「どうなんだろうね。決して強くはなかったと思うけど、でもさ、よく言うじゃんか。『弱さを糧に』みたいな話。あれはあれで、あんまりしっくり来ないのよね。私の心を動かすのは、結局『この先の景色を見てみたい』っていうだけの単純な気持ちでしかなかったわ」
「ははっ、でも、その景色ってのが大したものじゃなかったら?」
「まあ、わざわざどこかに飾っておくほどの価値はないかもね。でも、あとで見返したら今とちょっと違う見え方がしてくるかもしれない。だから、額縁くらいには入れといてあげるわ」
大学生の私。
彼女は重荷を運ぶ物言わぬ駱駝だった。
彼女はその足に責を引きずって、共感も協調も最初からそこにないものとしたから、結局最後まで叫ぶことをしなかった。
彼女の目に隣人は映らない。彼女はどんな声にも振り返らない。
そんな彼女のことをたった一人の親友が見切った。
だから、彼女は〝信念〟を失った。
「私は自分が価値ある人間だと思っていた。それを証明するために、誰かに求められることがあれば断らず、誰よりも大きな責任を負うことができる自分でありたかった」
「それは誰にでもできることじゃない。すごいことだと思う。でも、私、他人を見下していた。人に試すような視線を向けておきながら、差し出された手を取る気さえなく、壊れた自分の体を愛でるようでさえあった」
「あれだけ頑張ったんだから、ちょっとぶすくれるくらいよかったじゃない。責任ってのはさ、結果を約束するってことだよ。それ自体は果たせたんだから、誰かに文句を言われる筋合いはなかったと思う」
「でも、もうちょっと上手な不満の表し方ってもんがあったんじゃない?」
「だって、そんなことするの初めてだったんだもん。それを上手になるってのも変な気がするし」
「うん。それはそうだ。私は自分の我儘のせいで誰かに嫌われるってことを一番恐れてた。でもさ、案外近くにいる人っていうのは、私が泣かなくたって、私が泣きたがってるってことに気付いてくれてるもんだよ。それだけ誰かに見てもらえていたっていうなら、きっと私だって捨てたものじゃなかった」
社会人の私。
彼女は切り倒される運命を持つ一本の樫の木だった。
彼女はその手をどこかに届くようにと必死で伸ばして、あまりにも綺麗に育ってしまったものだから、一番真っ先に伐採されてしまった。
彼女の目に世界は映らない。彼女はどこにも居場所などない。
そんな彼女のことをどこにでもいた誰かが見捨てた。
だから、彼女は〝愛情〟さえ失った。
「私、誰かに必要とされたかった。だから、がむしゃらにできることをたくさん増やした。自分がこの世界にとって必要不可欠な一部分なんだって信じたかった」
「あれは大変だったね。ただ、ちょっと人との距離感を計り損ねてしまっていたみたい。私はいつの間にか、誰かにとっての都合のいい存在にされてしまっていた。それはきっと私自身が他人に自分にとって都合のいい存在であることを求めたから」
「そんなでも居場所としては十分だったわ。だって、誰にも気付かれずに枯れ果てて死んでしまうよりはよっぽどマシじゃない」
「私、多くを求めすぎてたのかな?」
「もう少し私に余裕があれば欲を張ってみたってよかったけどね。今のあなたは我儘なんて言える立場になったの?」
「いいや、むしろもっと肩身が狭くなったよ。いろんな人に支えられて、世話になりっぱなし。ただその代わり、私が誰かによくしてもらえる理由を知った。だから、私が自分で立ち上がれるようになるまで、もう少しその〝下心〟ってやつに漬け込んでやろーかなって思ってる」
一人一人と話し終えて、真っ白な空を見上げる。
そこが赤くなるようなことはもうなかった。
私は〝私たち〟訊ねた。
「どうしたの、みんな。今回は掴みかかっては来ないわけ?」
無垢な〝私〟が答えた。
「許してあげる。あなたがもうママのことをキラいにならないなら」
カッコいい〝私〟が答えた。
「許してあげる。あなたがもうタグのことを諦めないなら」
ひたむきな〝私〟が答えた。
「許してあげる。あなたがもう守屋のことを見下さないなら」
優しい〝私〟が答えた。
「許してあげる。あなたがもう誰のことも恨まないなら」
私もそんな〝私たち〟に応えた。
「……ありがとう。私も許すわ。あなたたちのこと」
そして、私は振り返って、背後の樫の木にそっと触れる。
間もなくそれは一つの扉に形を変えた。
この巡礼の旅は――まだ終わりじゃない。
――私は〝彼〟の待つ〝夢〟の世界へと足を踏み入れた。




