第二十六話「いつかここへ戻ってくる」②
建物の入口へと続く通路で、私はふと歩みを止めて、庭に植えられた樫の木を眺めた。
冬の時期の樫は少し葉が茶色がかっていて、心なしか痩せているようにも見える。
「――樫の木というのはね、私どもにとって『強さ』の象徴なんですよ」
不意に背後から声をかけられた。
それはとても温かい声色で、『昔よりも少ししゃがれたかな』なんてことを私は思った。
「ここで言う『強さ』というのは、必ずしも屈強で堂々としているというような意味ではありません。根元から切り倒されるようなことがあっても、またそこから新芽を出すような、そういうひたむきな『強さ』さを指しているんです。時期も時期ですから剪定をされたばかりですが、夏にはきっとまた豊かに枝を伸ばしてくれるでしょう」
「今年もどんぐりはたくさん生りましたか?」
「ええ、それはもう」
振り返ると、そこに懐かしい顔があった。
〝夢〟で見たよりも白髪交じりで、だけど、その柔らかい微笑みはちっとも変わっていなかった。
「ご礼拝のかたでしたら、ご案内します」
「ああ、はい。すみません」
彼に連れられて、私は教会の中に入っていった。
扉をくぐって、息を飲む。
正面には人と同じくらいの大きさの十字架がかかっていて、その上手側のステンドグラスの窓からは柔らかい色とりどりの光が差し込んでいた。
それがとても綺麗で、ノスタルジックで、私の心に慈しむような気持ちが溢れる。
「そうだ、こんなだった――」
床板を軋ませながら歩くと、私は左側に並べられた椅子の向こうに〝それ〟を見つけた。
ところどころに西洋の意匠をあしらった大きな木箱のような設備。
思えば、あの場所を【秘密基地】なんて呼んだ幼少期の私はあまりにも不謹慎であったように思う。
それから、〝夢〟の一場面にあそこを選んだ私自身の心理というやつも、かなり意地の悪い根性をしていたようだ。
「――本日は『告解』でいらしたのでしょうか」
「ああ、いえ。そのような、そうじゃないような」
その場所に見入っていた私に、前を歩いていた彼がその足を止めて問いかけてきた。
私はしどろもどろになりながら、言葉を返す。
「あの、私のこと覚えてますか?」
「……?」
「その、これ……!」
私は懐からあの紙片を取り出して彼に渡した。
中身を読んだあと、彼は驚いたような顔をして私のつま先から頭の先までを懐かしむようにしげしげと眺めた。
「ああ、あなたは益田さんの……今じゃ苗字が変わったんでしたっけね。随分と大きくなって」
「三船真矢と言います。お久しぶりです――おとうさん」
「はは、そうだったそうだった。懐かしい呼ばれ方だな」
――『おとうさん』。
子供の頃の私が――彼を新しい父親なのだと勘違いしてしまった理由はとても単純だ。
よりにもよって、当時父親という存在を欲していた私に対して、母は娘の内心を知ってか知らずか『みんなにとってのお父さんみたいな人よ』なんて、この人の職業のことを説明してしまった。
だから、人の話をロクに聞かない子供だった私は喜び勇んで、彼のことを戸籍上の意味での父親なのだと思い込んでしまっていたのだ。
誰もそのことを咎めるようなことはしなかった。童心の純粋さゆえの取り違えを、まさか大人になってまで引きずる人間がいるなんて想像もしなかっただろうから。
「どうだい、元気にしていたか」
「どうでしょう。多少体調を崩したり大変なこともあったりはしましたけど、まあそれなりにって感じでしょうか」
「そうかい。それなら何よりだ」
今目の前にいる彼には――〝夢〟の中の彼が持っていた冷たさなど微塵もなかった。
それは『彼が父親である』というフィルターをようやく取り除けた今だからこそ、そう思えたことなのだろうか。
「その……不躾で変なお願いかもですが、しばらくあそこに入っていてもいいですか」
「【秘密基地】観光ってとこかい?」
「……あはは。その節はホントにすみません」
行ってよいと右手で促す彼に会釈をしながら、私は『告解室』の前に移動した。
それからまじまじと室内を覗き込んで、子供の頃の自分がその中の椅子に人形やらスケッチブックを広げてお絵描きなんかをしていたのを思い出す。
その時、〝私〟はどんなことを考えていたのだろう。
母が自身の罪を告白したその場所で、いったいどんな気持ちで、無邪気に遊んでいたのだろう。
「……お邪魔します」
中に入って、扉を閉めた。
そこは〝夢〟の中で入った時よりも、少し窮屈なように感じて、しかし、決して不快などではなかった。
やがて、首元が熱を帯びてくる。
「さ、清算の時だ、三船真矢。戦うのよ、〝私自身〟と――」
一つ息を吐いて、私は、私を裏切った人や親友、母親、それから好きな人の顔を順番に思い浮かべる。
そのことは私に前へと進み続ける勇気をくれた。
私はそこで母が意味を教えてくれた〝あの曲〟の歌詞を思い出す。
その詞に込められた思いが、今の私にとってこそ大事な意味を持つものであったのなら、そう――。
私に必要なものはあと一つだけだ――。
「〝愛〟してやるか。私って人間を」
そして、私は――私の〝過去〟の象徴であったその痣に触れた。




