第二十四話「好きな人とハンマーヘッドシャークを見に行く」⑤
目が覚めた瞬間、涙が出た。
水族館の暗がりが、そんな哀れな私を小さく包み込んでいた。
「タグ、ごめんなさい。私、あなたを失望させた……」
私はそのまま前かがみに崩れ落ちる。
前に差し出されたタグの右腕に掴まって体を起こすと、彼が私に言葉を返した。
「失望……なるほどね、君はそう表現するのか」
「失望でなくてなんなの。アンタに相応しい人間へ私はなることができなかった」
「それを決めるのはキミではなく俺だ。だから、その謝罪は受け取らない」
そんな言葉を聞いて、私はまたタグをがっかりさせるようなことを言ったと思った。
「ははっ、肩を落とすなよ。そうじゃない。そうじゃないんだ」
タグは続ける。
「今の君は自分を許さないために謝っているように見える。謝罪とはたしかにそうあるべきものかもしれないけど、俺はそのことを望まない」
彼は水槽を眺めながら、怒るでもなく、やるせなさを向けるでもなく、やっぱりただ笑っていた。
「なあ、三船、俺はキミとここに来れてよかったって思うよ」
「私は……」
私は、どうだろうか。
こうして〝好きな人〟と一緒に同じ水槽を見上げて、私のことを話す。
それは、すごく惨めで、情けなくて――それでも一つだけ思う。
ここにいるのはこの人でなくてはならなかった。
「人は、結局前に進むしかないんだ。だから、そうするために必要なものだけを選ぶ。そして、それは、そうではないものを選ばないという選択でもあったのかもしれない」
その言葉は私がある人たちから聞いた言葉だった。
目の前にいた母親と、自分の中にいた『父親』と呼んだ人。
「……じゃあ、その選択をしなかったせいで大切な人を傷つけてしまったら?」
「俺はそのことを正しいとは思えない。でも、間違ってるわけでもなかったって今じゃ思う。たぶん、そういう二元論なんかじゃなかったんだ。大事なことは」
シュモクザメが目の前を通り過ぎた。
その後ろをもう一匹が追いかけるように付いていった。
「人生は戦うことを前提としている。同じ頂を目指す相手、価値観を異にする相手、そして、時には自分自身とさえ、この世界では戦うことを余儀なくされる。そうとしかなりえない場所に嫌気が差したことだってもちろんあるさ。それをキミにぶつけてしまった情けなさももちろん覚えてるしね。でも、ただひたすら歩いた。キミが俺を失望させたという言葉を使うなら、俺だってキミを失望させているのかもしれない。俺がこうしてずっとヘラヘラ笑ってばかりいるような人間になっちまったのだって、俺がずっと戦い続けてきたその結果だったんだから」
「…………」
「『正しさ』はどれだけ正しくとも正しさそれ自体の正しさを説明してくれない。それは俺たちが戦い続けるための理由としては不十分で、だから、キミは折れてしまったし、俺はこんな不真面目な人間になった。でもさ、なんなんだろう――それでもよかったって思えるんだ。キミと出会えて、こうして同じ水槽を見ながら二人で笑って、そんなことが俺は自分の幸福なんだと思える。だから、もし俺がもう一度〝俺〟をやり直す機会があったんだとしても、俺はたぶんまた同じ道を歩くよ」
私は流れた涙を拭わないまま、水槽に泳いでいるたくさんの魚たちを見ていた。
「――なあ、俺たち、どうしてこんなに仲良くなったんだっけか」
「……アンタが実は裏でごりごりのFPSプレーヤーだったからよ。たまたま私が興味を持った時に、やたらレベルの育ち切ったアカウント引っ提げながら『一緒に遊ぼう』って誘ってきて、それ以降話す機会がたくさん増えた」
私は〝過去〟を懐かしみながら言う。
「私が言えたことでもないけど、正直、第一印象は悪かった。面白い人だとは思ってたけど、絡みづらいやつだなーってさ。でも、そうやって一緒にゲームを遊んだ時、私がどれだけ下手でもタグは文句の一つも言わずに、むしろ楽しそうにしてた。それから、『ああコイツ結構いいやつだな』って思うようになった」
「そういやパンチ事件ってあったよな」
「ふふ、あったあった。弾薬がまだ残ってたのに、私がとっさに銃取り出すボタン押せなかったもんだから、ずっと近接攻撃になっちゃって」
「あれは笑ったなあ」
「そうね。それで、通話の向こう側で息ができなくなるくらい笑ってるのを聞いて、私はいよいよアンタに興味を持たされた」
〝過去〟とはいったい何者なんだろう。
あんなに恨んでいたのに、その全てを否定してやろうという気になれないのはどうしてなのだろう。
「こうして考えると、ちょろい女だわ、私。『こんな面を知ってるのは私だけなのかも』って思った途端、その人のいろんな顔を見てみたいって思っちゃうなんて」
私はいつの間にか笑っていた。
「思えば、あれが始まりだったんだ。私の人生に『嫌われたくないやつ』が家族以外に初めてできた。その視線が、その眼差しに反射する私自身の姿が、いつしか私の中心になっていって、だから私は弱くなった。『こうなりたい』と思う自分自身の純粋な気持ちよりも、正しさをばかり、私は追い求めるようになった」
私は笑いながら泣いていた。
「でも、思うよ。私はここに来れてよかった。私は結局馬鹿なまんまで、アンタに相応しい人間じゃない。でも……それでも――」
嗚咽と一緒に、こんな言葉が流れ出した。
それは、ずっと私自身が願っていて、だけど言葉にはできなかった、本当の〝心〟だった。
「――それでも、私のそばにいて」
「ああ、もちろんだとも。キミがそう望んでくれるんならね」




