第二十二話「好きな人とハンマーヘッドシャークを見に行く」③
車窓から海岸が見えて少し経つと、目的の水族館に着いた。
受付を済ませて入り口前で待っていると、タグが何やら転がしながら戻ってくる。
「……何それ」
「車椅子、貸出ししてた」
「いや、それは分かるんだけど……」
長身の彼が押すとかなり前かがみ気味になっていて、その姿がなんだかおかしかった。
「力が抜けちまうことあるんだろ? こういう用心に越したことはないさ」
「大袈裟だなあ」
言いながらも私はありがたく座らせてもらうことにする。
「お、悪くない気分」
「いいな、俺もあとで座らせてもらおう」
「いいけど自分で漕いでね」
「はは、冷たいなあ」
入り口をくぐると、魚の匂いがした。
タグに車椅子を押されながら進んでいると、周囲から気を遣って向けられる視線が少しだけくすぐったかった。
久々の外出だったこともあって、気分が少し浮わついていたのもあったかもしれない。
座ったままで回る水族館は、まるで遊園地のアトラクションのようでもあって、自分の境遇さえ忘れて童心に返った。
ほぼ付き添いのような形で一緒に来てくれたタグだったけれど、彼は彼でこの状況を楽しんでいるようで、進むごとに目を丸くしながら水槽を覗き込んでいるのが眺めていて面白かった。
「ふむ、やっぱ水族館って回る順番とか想定してたりするんかな。しょっぱなはこう……小さくて色とりどりの魚を見せて気分を盛り上げつつ、みたいな」
「料理でいう前菜みたいな?」
「おい、あんまり魚見ながら料理の話するなよ……」
「あ、ほらノドグロいるよノドグロ」
「こら、美味しそうなのを探すんじゃない」
しばらく進んでいくと大きな水槽の前に着いた。
「――ほら、ここじゃないか。シュモクザメの水槽」
「……うん」
「怖いか?」
「まあ、そりゃね」
見上げると、タグが水槽を眺めながら柔らかく微笑んでいる。
それは義父の笑顔に似ているようでもあって、しかし、あの人が持っていた冷たさのようなものなど、どこにも感じさせない表情だった。
それは……あるいは歩調の違いだったのかもしれない。
義父は私にとって先導者だった。だけど、タグはいつだって、私を追い越さなかった。
「子供の頃ね、母さんに連れられて水族館に来たの。こんなふうに大きな水槽を見てたら、急に目の前にアイツが来てね。それ自体はなんともなかったんだけど、間もなく目が合った」
少し高い水位にハンマーヘッドシャークが二匹泳いでいた。
昔の自分を懐かしみながら、私は言う。
「あのサメさ、こう、横に突き出た部分の先に目が付いているでしょ? それが……なんていうかショッキングでね。そこにあった黒い点が目だと認識した時、私はその異形が不気味で仕方なかった。その日は私があまりにも泣くものだから、結局、さっさと水族館を出ちゃったのを覚えてる。母さんは口でこそ文句を言ってたけど、なんだかそんな私を面白がっていそうにも見えた」
「まあでも、少し気持ちは分かるよ。こうして見ると宇宙人みたいだもんな」
「宇宙人――そうね。でも、それから、何年も経ったあとのことよ。私は、他の人たちにとって、私こそがその〝宇宙人〟ってやつだったのかなって思うようになってたわ」
「それはそうかもだ。火星……いや、木星人かな、キミは」
「あははっ、なんの違いよそれ」
屈託なく笑うと体の力が抜けた。
その数秒間をタグは何も言わずに待っていた。
「……私は人と違っていた。それ自体は何も怖くなかった。違いからくる疎外感――〝孤独〟なんてものよりも、私はもっと単純な『理解ができない』ということが怖かった。〝自分〟という土台が根底から覆されることが」
今までいろんなことがあった。
だけど、この人はずっと横に並んで、どんなことが起ころうと、私の感情ごと受け入れてそこにいてくれた。
だからこそ、怖かったのだ。
彼の心を知ってしまうことが。
彼のことを、もしかすると私が理解できないのだという事実を突きつけられることが。
「さっきの車での言葉、嘘なんかじゃないけど、取り消させて」
あれは告白なんかじゃなかった。きっと束縛だった。
それだけ、私は彼にどこへも離れてほしくないと思っていた。
「ああ、そのほうが俺もありがたい」
私は、私の理解者だと思う人を連れて、いつかこの場所に来たかった。
今度こそ、あの大きな魚の前で堂々としていてやろうと思ったから。
それを義父に話したあの時、『それなら君一人で行くべきだ』なんて言った。
それでも私はタグと一緒にここへ来た。
その行動を選択したことが意味するところを、これから私は知ることになる。
――俺はあなたとは違います。
そんな台詞が脳裏にちらついて、やはりと思った。
もしこのまま私が〝夢〟に入るのだとしたら、私はタグになるのだろう。
心に浮かび上がってくるのは、必ずしも肯定的とは言えない感情の数々。
それはきっと、彼――田口公平が三船真矢という人間に抱くイメージの根っこにあるものだ。
胸が――詰まった。
「次は〝俺〟になるのか?」
「たぶんね」
「ふうん、そうか」
「ねえ、今のうちに言い訳でもしてよ。そのほうがダメージも少ないかもだし」
「いや、やめとくよ。そっちのが面白そうだから」
――俺はあなたが嫌いです。その生き方を俺は肯定しません。
「タグ、あのさ、どうしてこの〝夢〟のこと、続けようなんて言ったの? 私のこと、もしかして嫌い?」
「どうだかな。でも、キミが思い悩む姿は見ていて飽きない。昔っからな」
「私、ずっと馬鹿なまんまだね」
「ああ、キミはずっとキミらしいよ」
――でも、あなたはいい文章を書く。俺よりも。それだけです。
「アンタ、昔はそんなふうに笑わなかったじゃない。いつの間にそんなヘラヘラした人になっちゃったわけ?」
「昔憧れた人間がいつだって不敵に笑ってるようなやつだったんだよ。どんなものが相手でも、自分が勝てると信じて疑わなかった。だから、俺は逆のことをやってやろうと思った」
「逆のこと?」
「そう。〝自分が負けても笑う〟――そんな人間になってみたかった」
――俺は……あなたにはできなかったことをやる。作れなかったものを作る。あなたと対等になりたいから。
「私……どうすれば立ち上がれるんだろ」
「はは、なるほどな。そういうことか」
「何よ、一人だけ納得したような顔して」
「キミはあれだ、いつの間にかそんなことへ拘る人間になっていたんだな」
「そんなことって……」
――よければこれからも追い続けさせてください。あなたのことを。
「――昔のキミは這いつくばっても前に進むことだけを考えるような人間だったよ」
首元が熱くなった。
久しぶりの感覚だった。
「もしこれで壊れちまうんなら、俺でよけりゃ引きずってってやるさ。だから、知ってこい。キミが壊れるべきだった理由を」
そして私は――震える手で痣に触れた。




