第二十話「好きな人とハンマーヘッドシャークを見に行く」①
「マヤ、もう薬は飲んだの」
昼を少し過ぎた時間の自宅。
洗濯物を取り込みながら、母が話しかけてくる。
「……うん、飲んだよ」
私は台所の換気扇の前で煙草を吸いながら、やや気怠げな返事をした。
「……煙草、体に障るんじゃないの」
「いいじゃん。吸わないほうがストレスだわ。それに今日はちゃんと寝たし」
「そう……」
会話は広がらず、沈黙ばかりが流れていく。
「………………」
あれから私と母さんの間には明確な〝距離〟ができた。
現在の私たちをどうにか繋ぎ止めているものは所詮ただの『負い目』に過ぎない。
家に住まわせてもらっているから。
病気に関して面倒を見てもらっているから。
そんな状況がなければ、私はいつだってどこかへ行ってしまいたいような気持ちにばかり支配されていた。
『我儘を言える立場ではない、だから、せめて慎ましくあろう』
それが今の私が持てる唯一の社会性だった。
そして、母は母で、私に気を遣っているのか、あまり踏み込んだようなことを訊いてこない。
もどかしいと思っているかもしれない。でも、私にはそれをどうすることもできないし、しようとも思わなかった。
「……ふう」
何かを考えようにも集中力が続かず、行動を起こすたびにため息の出るような日々が続いている。
気を抜くとすぐに頭がぼやけてしまって、同じところを見続けたまま数時間経っているようなこともあった。
まるで会社を辞めたばかりの頃のようだ。
ただ、当時と違うのは私が躁鬱に加えて睡眠障害なんてものにも罹っているという部分である。
その病気は『ナルコレプシー』というのだそうだ。
症状としては日中に繰り返される強い眠気や、感情が高揚した直後の一時的な脱力が代表的で、その他、浅い眠りの中で起こる明晰夢や、入眠、覚醒時の幻覚なんてのも起こるらしい。
医者によれば、先日、この家で私が苛まれた断続的な失神は、おそらくそれらが複合的に発生したものとのことで、例の曲のことへ思い至った興奮に伴う脱力と、入眠時の幻覚が合わさったのではないかという推測を聞かされた。
発生のメカニズムとしては、どうにも脳内物質の分泌が過度のストレスなどによって正常に行われなくなることで起こるものなのだそうで、私は検査入院後、服薬によって症状を抑えながら生活している。
「……ちょっと出かけてくるわ」
財布を拾い上げて、ジャケットを着る。
喫煙してもいまいち晴れない気持ちを、外出でもして紛らわせたいという腹積もりだった。
母と一緒にいると、今の私はどうしても息が詰まる。
「ちょっと! アンタ一人で行くつもりなの?」
「大丈夫だよ。ただ近所を散歩してくるだけ」
「待ってなさい、これ終わったら私も付いてくから」
玄関を開けたタイミングで母が制止してくる。
鬱陶しいと私は思った。
「いいよ、別に」
「『いいよ』って何よ! それでもし事故にでもあったら……」
「だから、大丈夫だってば!」
そう叫んだ瞬間、足元から力が抜けた。
母が慌てたように駆け寄ってくる。
「危な……!」
「――うおっ!?」
しかし。
その場に崩れ落ちる私を抱き止めたのは、母ではなく――玄関の外から伸びてきた長い両腕だった。
「……おおう、三船、大丈夫か」
数秒の金縛りのあと、ビニール袋を提げた腕に支えられて私は自分の足で立つ。
「――あ、あなた、田口君?」
「ああ、これはどうも、お邪魔します」
突然私の背後に現れた人影――タグはいつもの人の好い笑顔をたたえながら、母に繰り返し会釈をした。
「タグ……? 急にどうしたの。来るなら来るって言っといてくれればよかったのに」
「ああ、ほらキミ、昨日SNSでコーヒーが恋しいなんて言ってたろ? 今日暇だったから、土産でも持ってってやろうと思ってさ。これカフェインレスのやつ」
受け取ってビニール袋の中身を見ると、私に持ってきてくれたらしいカフェラテが二つそこに並んでいた。
「これだけ渡すのに、わざわざ連絡入れるのも気遣わせるだろ。一応着いたタイミングでチャットだけ入れといたんだけど」
スマホを開くと、たしかにそれらしい通知が一件入っている。
ちょうど家を出る準備をしていた瞬間と重なって見逃してしまっていたようだ。
「えっと……それで、外に言い合ってるような声が聞こえてましたけど、何かあったんです?」
「聞いてよ、その子ったら体調がよくないのに一人で外に出かけようって言うのよ」
「出かけるって……そうなのか?」
「……気にしすぎなのよ。そのくらい平気」
「平気ったってな、まさに今危ない状態だったじゃないか」
「…………」
返す言葉もなくて、私は顔を伏せる。
「……うーん、強情なやつだなあ」
意固地な私を見て、タグは嘆息した。
それから、少し逡巡するような間が空く。
やがて彼は状況を見かねてか、『あ!』なんてわざとらしく何かを思いついたような声を上げた。
「じゃあ、お母さん、差し出がましいかもですが、こういうのはどうでしょう。僕、今日車で来てるので、娘さんのことドライブにでも連れて行きますよ。助手席なら、ホラ、多少病気の症状が出たって危険はないでしょう?」
「それは……」
母は私とタグを交互に見やる。
どんなことを考えていたのだろう。
「大丈夫です。彼女のことは僕が責任持って預かりますから」
「……まあ、そういうことなら」
どこかため息交じりに言うその様子は譲歩とはまた違った〝諦観〟に見えた。
母は『心を開いている相手にしか話せないこともあるだろう』とか、そんなことを思っていたのかもしれない。何せここ数日、私と母の関係はずっと平行線のままだったから。
「ありがとうございます。あ、これ、よければ飲んでください。大したものじゃないですが」
「ああ、すみません。その……娘をお願いします」
コーヒーを一つだけ取り出して、ビニール袋を台所に置くと、タグは私を先導するようにして家を出た。
玄関が閉まるのを確認して、私は言う。
「タグ……そのありがとう」
「気にすんな、今日は元々時間持て余してたところだったから」
そして、私はタグに寄り添ってもらいながら、彼の車に向かって行った。




