第十八話「ママと〝あの曲〟を一緒に歌う」④
「――この子に……死んでほしかったんです」
私は〝夢〟の続きに戻った。
母の声が、悲劇の始まりを告げる鐘の音のように響く。
だけど、幕が開いた舞台を前に、私は力なく肩を落としてその場にうなだれるのみだった。
「主人が亡くなった直後、悲しむ暇もなく、私は様々な対応に追われました。被害者の方へのお詫び、保険関係の手続き、それから主人の葬儀……必死で駆けずり回って、ようやく落ち着いたあと、押し寄せるような悲しみが胸をさらいました。その時、私は自分の足で立ち上がることもできなくなっていて、ご飯も喉を通らなくなっていて、それなのに、その間にもお腹はどんどん大きくなっていく」
母のすすり泣く音が聞こえ続けている。
「自分の魂が吸われていくように感じました。この子に捧げるべき愛情は、いつの間にか憎しみに変わっていきました」
「……憎し……み」
少しずつ何かが崩れていくような音がしていた。
当然のようにそこにあると思っていた、母からの祝福。
どんな苦難があっても、私をこの世界に縛りつけていたもの、あるいは繋ぎ止めていたもの。
反響する言葉が、私の心に空いた穴へと吸い込まれていく。
「誰も、助けてくれる方はいなかったのですか」
「……いいえ、気遣ってくれる方はいました。私は……実の両親と折り合いが悪かったものですから、あの人のご両親があれこれと手を尽くしてくれて、でも、それが本当に申し訳なくて……」
「申し訳ないなんて、そんなこと……」
「だからこそ、駄目だったんです。だって、その優しさに対して、返せるものを私はもう何も持っていなかったから。……ずっと誰かに責められているような気持ちでした。そんな中で、私は浅ましく愚かな想像ばかりをしていました。『事故を起こしたのが相手のほうだったら、どんなによかったか』って。それならせめて、誰かにこの憎しみを、悲しみと一緒にぶつけることができたのに」
誰かに責められているようだという母の言葉は――きっと的を射ていた。
私もまた、この人を責めるような気持ちでいっぱいになっていたから。
「なぜ、夫は事故を起こしたのでしょう。この子のためにこの子のためにと、生真面目なあの人は普段以上に仕事を詰め込んでいました。そして、その疲労からあんな事故を起こした。なんて馬鹿な人……本当に……こんなことになるなら、少しくらい私は苦しい思いをしたってよかった。この子のことなんか、私の頭にはなくて、ただ私のために夫に生きていてほしかったと、そんなことをずっと考えていました」
「………………」
「やり場を失った暗い感情は――いつの間にかこの子に向いていました。偏屈な私を許し、愛してくれた人はもうそこにはいなくて、少しずつ、私は私を失っていった。あの人が残してくれた大切な存在を愛することよりも、あの人を先立たせていつまでもこの腹に居座り続ける厚かましい存在を疎むことにばかり心を支配されていった」
母は泣いている。
私は、泣けば許されるとでも考えているのだろうかと思った。
「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい」
そして、母は繰り返し謝罪する。
「――ごめんなさい。私吸ってしまったんです、煙草を」
その言葉を聞いて、私の中に起こったのは、酷く冷たい感情だけだった。
「私にはこの子の母親になる資格なんてない」
「……資格なんか、誰にだってないですよ。ある人が言っていました。親というものはある日突然なるものだって。だから、そこに子供の存在があって、きっと人間は少しずつ親になっていくんです」
私は滔々と語った。
「その人は今でも自分が親だという実感が薄いなんてことを言っていました。たぶんあなたと境遇の似ている方だったのでしょうね。彼女は恐らくずっと直視できなかったのでしょう。自分の娘がそこに生きているという事実を」
共感など、そこにはない。
空っぽな言葉を、機械的に吐き出す。
「私から言えることは、〝ただ生きる〟ということです。人は誰もがそのことを許されている」
「……はい、そうなのでしょう」
苦く噛みしめるように母は言った。
「でも――」
少しだけ、それを言うのを迷った。
でも、迷う必要性に私は思い至らなかった。
「――私はあなたを許さない」
薄い壁の向こうに、母のはっとした顔を想像した。
言葉が返されるのを待つこともせず、私は立ち上がって【秘密基地】を出る。
「――――――」
目の前に景色が広がった。
今まで探し続けていた〝その場所〟の光景を目にしても、私の心にはただ失望だけがあった。
窓の外には樫の木が生えている。
数年後の〝私〟は何も知らないままでこの場所を訪れることになるのだろう。
私は、少し輝いているようだった私の過去が黒く塗りつぶされていくのをただ感じていた。




