第十六話「ママと〝あの曲〟を一緒に歌う」②
「おーい、起きなさい。またそんなトコで腹出して寝て。風邪引くわよ」
定位置の窓際。畳に直接置いたPCの前で眠りこけていた私は仕事から帰宅した母の声で目を覚ました。
「何? 調べ事? 精が出るわね」
「……うん、この辺りの公園一通り調べてんの。樫の木が生えてて、敷地内に白い建物があるような」
「アンタ……まだそれ探してたの。それより先に探すもんがあるんじゃない? 労働とか仕事とか社会人活動とか」
「それ全部仕事じゃんか……。てか、母さんが教えてくれれば、これだってすぐ終わんのよ。なんだってそんなに隠したがるワケ?」
先日の車内での会話の続き。
自分は再婚などしていないと語る母に、私はあれやこれやと幼少期の記憶について話した。
しばらくして、どうにも思い当たるフシがあったようで、母は『ああ、あの人のことね』なんて思わせぶりなことを言ったあと――あろうことかその件について口を閉ざしたしてしまったのである。
私は恐る恐る『もしかして、愛人……?』なんて聞いたりもしてみたが、結局この意固地な女の口を割らせることは出来ず、いよいよこうなったら自分で探し当ててやろうという気になって、ここ数日の私は義父(だと思っていたあの男性)の身元を調べるのが習慣になっていた。
「母さんさ」
「言っとくけど、答えないわよ」
「いや、お義父さんの件じゃなくて」
私は少し苦笑しながら言う。
「なんか私との間で思い出深い曲ってあったりする?」
――『ママと〝あの曲〟を一緒に歌う』。
今となっては半分『まだ〝夢〟を見るのか』を確認する意味合いも含むが、私は〝紙片〟の内容についての思い出し作業も怠っていなかった。
何分、幼少期のことだ。あれやこれやと有名な童謡やら当時流行っていそうだった曲を漁ってはみたものの、いまいちピンと来るものがなく、この事柄もまた私に気を揉ませていた。
「思い出深い曲?」
「そうね、例えば子供の頃一緒に歌った、とか。ほら、昔住んでた家ってピアノ置いてたでしょ。たしかよく弾いてくれてたじゃん」
「そう言われても、アンタ結構いろんな曲好きだったしね。これって言うのは特にないな」
「そんなことないでしょ。ほら、例えば一番歌ったのは?」
「うーん……」
「頑張れ!」
寝転がった姿勢のまま右腕で上半身だけ起こして、私は唸る母に声援を送る。
「あっ」
「どう!?」
「あれは? ――おだんごの三兄弟のやつ」
つっかえ棒にした肘が滑って、畳に肩をぶつけた。
「……たぶん、その……それは違うと思う」
「違うって何よ。ワケ分かんないわね」
私はそのまま寝転がって天井を見上げた。
古ぼけた木の板にはかつて水漏れでもしただろう跡がシミのように広がっている。
「ねえ、私って昔どんな子供だった」
「変人」
「自分の娘だよね?」
半身で振り返りながら突っ込む。
母はそそくさと夕飯の支度に取りかかっていた。
「ええ、少なくとも血縁上は」
「なんだそりゃ……」
「親なんて、何か資格を取ったりや研修を受けてなるようなもんでもないしね。今でも実感が薄いくらいなんだもの、私は」
それは……我が家の環境があってのことでもあるのだろうか。
私が同世代の子供たちに比べて自立するのが比較的早かったように、母子家庭というのは母親にも当然何か特別な心境を抱かせるものなのかもしれない。
昔友達の家へ遊びに行った時、初めて『他の家庭の親』という存在を目にして、私は親子本来の距離間というものを認識した。
そこにいたのはいわゆる『威厳のある親』というやつだった。ウチの母親みたいに『怖い』のとはまた違う――子供に苦労をさせたくないという親心と、親の苦労を知らない子心とが形作った、本質的に〝遠さ〟を内包したような関係性。それに比べて三船家には友達や戦友にも似た〝距離の近さ〟というものがあった。
「アンタはなんていうのかね……比較的大人しくて利口だと思えば、突発的に奇行に走るみたいな、そんな感じの子供だったわ。よくも悪くも目が離せないというか」
「うわあ……」
うっすらと自覚はあったものの、改めて自分の親からそう聞かされると込み上げてくる恥ずかしさがある。
先日のスーパーでの一件も、ともすれば、この母親からはそんな性質の延長に見えていたのかもしれない。
――『何を考えているか分からない』。
それは先日久々に連絡を取ったばかりの親友が過去の私へ述べた言葉だったけれど、案外、家族からしてもその評価に異論はなかったんじゃないだろうか。
「まあ、私は面白かったし、個人的にはだいぶ楽しませてもらったけど、ただ……さすがにあの時は困ったわね」
「え、な、何? 聞きたいような、聞きたくないような」
「アンタ、泥棒したことあんのよ」
「泥棒!?」
少しくらっときた。
「うん、まあまずそもそもからして、あの日はアンタの失踪事件から始まって、ご近所さん含めててんやわんやだったんだけど、何食わぬ顔でふらっと帰ってきたと思ったら、何かをね、手に持ってたのよ」
「うわあ……」
私自身のことで、私は引いていた。
さっきの言葉は少し訂正する。
親どころか――私とて私が何を考えていたか分からなかった。
「昔近所に本屋さんがあったでしょ? あのおじいちゃんおばあちゃんが個人でやってたお店。どうにもアンタ、幼稚園から脱走してそこに一人で遊びに行ったあと、勝手に気に入った本を持って帰ってきちゃったみたいなのよね」
「ちゃんと泥棒じゃん」
「まあ、元々よくお店に通ってて顔見知りではあったから、あのご夫婦も謝りに行った時『プレゼントしてあげる』なんて言ってくれたんだけどね。ただ、さすがにその時ばっかりは無理やり代金押し付けて平謝りしたわ。ああ懐かしい……」
「す、すみませんでした」
「いいのよ。それより人の寛大さに感謝することね」
私は頭を抱えた。恥ずかしさのせいか、思考がぐるぐるしている。
「……いったいどれだけ気に入った本だったのよ」
「まあ、たしかに大人気な絵本だったからね。ちなみにそん時のまだ残してるわよ。見るたびにだいぶ笑えるから」
なんて趣味の悪い人だろう。
母は濡れた手を拭いながらこちらにやってきて、押し入れの上の棚を開くと、古茶けた本を取り出した。
そのままそれを寝そべっている私の腹の上へぞんざいに放る。
見てみれば、それはあまりにも有名なあの――顔がアンパンで出来たヒーローのお話だった。
はひふへほ、って叫びながらどこかに吹っ飛ばされてしまう敵キャラが初めて出て来る回の。
「――これ……は……?」
そして、私はとあることに思い至る。
「ねえ、母さん、これの曲とかって私歌ってた――?!」
「ああ、歌ってたかもね。たしか私に歌詞の意味訊きに来て不満げにしてたっけな。『「愛と勇気だけが友達」って、動物の子たちやパン作るおじさんは友達じゃないのかー!』って。でもあれ、結構面白い歌詞なのよ。私も一回エッセイで取り上げたことあったし」
ちなみに母の職業というのはライター兼編集者である。
たしか人文系の比較的おカタい雑誌を発行している出版社のはずだったが、あまり真面目すぎる内容に偏ると読者に飽きられるということで、たまにそういう変化球みたいな記事も出したりすることがあるとかなんとか。
実家に帰ってきてからというものの、在宅ワークの日に部屋でうんうんと唸りながらPCと睨めっこする母親の姿を見るのも私の日常の一部となった。
元が厳格で気難しいところのある性格だ。きっとあれは、そういう記事を任されて苦戦していた場面だったのだろう。
ただまあ、今重要なのはそこではない。
「そ、それだ……絶対その曲じゃん!」
私は飛び起きるように上半身を上げた。
私はここに来て〝紙片〟に記載された内容の共通点に気付きつつあった。
それは『必ずしも私にとって思い入れがあったり、印象深かったりする行動ではない』ということ。
絵本自体はたしかに気に入って読んでいた記憶があるが、そのテーマソングを歌った記憶があまりないということは、いかにもこの仮説に合致しそうなところである。
たぶん……すぐ飽きてしまったのだ。母の言うように、歌に込められた意味を私は理解できなかったから。
勢いよく体を起こしたせいか、また頭のふらつくような感覚がする。
「――うわ、ちょっとアンタ大丈夫!? 興奮しすぎよ、今一瞬焦点が合ってなかったわ。あのあとちゃんと病院行ったんでしょうね」
「今日行ってきたから、大丈夫だよ……。そ、それより、歌詞覚えてる?」
「え? えーとなんだっけ、たしか有名な部分は最後のほうの歌詞なんだっけ? そうすると、最初は『そうだ、嬉しいんだ』」
「『生きるよろこ』――」
――ごめんなさい、私吸ってしまったんです、煙草を。
何かが脳裏を過ぎった。
気付けば、私は畳に倒れこんでぐったりしていた。
「ちょっと、どうしたの!? それに……今何か言った?」
再度体を起こしながら、私は床にぶつけてしまった頬を撫ぜる。
「だ、だから、大丈夫――」
――この子に……死んでほしかったんです。
また何かが過ぎった。
また畳に頬をぶつけてしまった。
また痣が痛んでいた。
「何これ、まだ痣には触ってないのに……」
「ねえ、マヤどうしたの!? マヤ!!」
気付けば母の腕に抱かれていた。
「怖い。こんなの――」
――私にはこの子の母親になる資格なんてない。
「か、母さん、助けて――」
そして、私は。
突如として精神を支配した恐怖心とともに――〝夢〟の世界へと旅立つことになった。




