第十五話「ママと〝あの曲〟を一緒に歌う」①
白色を基調とした三階建ての病院。
自動ドアをくぐると穏やかな音楽が流れていて、受付前には平日にも拘わらず、それなりに診察客がいる。
ここへ来るのは一か月に一回のこと。就業中だった頃に多少連続して通院をしていたため、今回でちょうど五回目の受診となる。
流れで受付やら保険情報の確認やらを終わらせると、私は問診票とボードを受け取って、そのまま二階の待合室に向かった。
通り過ぎた壁には銀色のプレートがかかっていて、そこに丸っぽい字体で『精神科』と記載されている。
椅子に座って、受付でもらった問診票を記載しながら自分の受付番号が呼ばれるのを待機していると、誰かが自分の携帯でイヤホンもつけずに動画サイトでも見始めたらしく、少し耳障りに感じた。
こうして見ると、この場所にはいろんな人間がいる。
心の病気を癒す場所と言われて、私はてっきり、そこに俯きがちで身なりの乱れたような人ばかりがいるものだと想像をしていた。
しかし、実際は、そんな陰気な人間の姿というのはほとんどなく、清潔感のある格好をした青年や、仕事の制服のまま来たらしいせっかちそうな職人さん、ひそひそ声で会話している穏やかそうな老夫婦なんかがいて、特に多く見受けられるのは派手な髪色と厳めしい格好をした若者だったりする。
番号を呼ばれて診療室に入ると、そこは普段風邪を引いた時に通う病院とそう変わらないような、奥側が通路状となった部屋だった。
最初に来た時は『必ずしも個室ってわけじゃないんだな、こういうトコって』だなんて思ったものである。
ただ、医師がいて稼働している部屋の両サイドは基本的にいつも空き室となっているので、それで最大限患者のプライバシーには配慮しているということなのだろう。
「――三船真矢さん?」
「ああ、はい。よろしくお願いします」
荷物入れに置くのも面倒で、私はショルダーバッグを肩に提げたまま席へ座る。
坊主頭の壮年医師に問診票を渡すと、彼は中身をしげしげと眺めたあと、一枚の封筒を私に手渡した。
中にはホッチキスで留められた数枚のA4用紙が入っており、そこにはずらっと文章やら表やらが記載されている。
「先日の〝検査〟の結果です。知能検査の各内容で有意差が認められるのと、あとは心理検査の結果も踏まえて、恐らくそうであると考えていいかもしれません」
「こういうのって何か証明でも出たりするものなんです?」
「診断書という意味であれば、あまりお出しすることはないですね。仮に〝手帳〟なんかを申請する場合でも、三船さんの場合は抑うつ症状のほうを主として、いわゆる『従たる精神障害』として記載する程度になるかと思います」
「なるほど」
その結果を見て、意外にも私の心境に大きな変化というものはなかった。
感想らしい感想も『ああ、やっぱりそうだったんだな』とそんな程度のものである。
「一応、服薬治療をされる方もいますが、もし日常生活にそこまで支障がないというのであれば、副作用もあるものですから、そこまでおススメはしません」
「そうですね、私も今のところその意志はないです。どちらかというと今後のために知っておきたかった程度なので」
「分かりました。……それで、どうですか、ここのところご体調は」
それは通院五度目にして、すでに聞き飽きていた機械的な質問だった。
「まあ、仕事を辞めてから気楽になりましたから……。食欲なんかも比較的戻ってきてるってカンジです。ただ……」
「ただ?」
「うつ病って、それかこっちの病気って、日中に失神とかしたりするものですか? あんまりそんなイメージがなかったもので」
「いえ、症例としてはあり得ますよ。結局は自律神経の乱れって面も多少はありますから……ただ、今回の場合は鬱のほうで以前処方した薬の副作用ってこともあるかもですね。ちなみに頻度は?」
「ええっと、そんなに頻度は高くないんですが」
「どのくらい?」
「その、一、二週間に一度……とかですかね? どれも外出中です」
「出かける前に薬は?」
「一応と思って飲みました」
「ふむ……」
医師は少し考えてから言った。
「それでは今後は――もちろん出かけること自体はいいことなんですが――なるべく服薬時の外出は控えるようにしてください。人によっては不整脈を起こす場合もあるので、もしかすると今回はそのケースにあたるかもしれません」
「そう……なんですね」
「あとは……症状自体も寛解に向かってきているようですし、服薬自体減らしてみてはいかがでしょう。気分が優れないときだけ飲むとか、そういった方向で」
「はあ、分かりました。ちょっとそうしてみます」
こう言われてしまうと、どうにも呆気なかった。
今までに二度、突如として私の意識を奪った〝あれらの出来事〟は、医学的に説明できる事柄の範疇に過ぎなかったようだ。
どこか肩透かしを食ったような思いが湧くのと同時に、得心の行った気になったこともたしかだった。
あの〝夢〟を見る時に感じる、痣の脈打つような感覚。
思えば、あれは痣ではなく、首の血管そのものの脈動だったのではないだろうか。
もし、あの一連の現象が、私の体が起こした正常な反応の結果だったのだとすれば、私はもう今後あの〝夢〟を見ることもなくなっていくのかもしれない。
「…………」
いいことなのだ。きっと。
第一、何が悲しくて過去のトラウマなど掘り起こされなければならないのか。
私はもう、前を向いたっていいという、そんな気持ちになっているのに。
昨日見た悪夢だって、正直言ってクソくらえだ。
何もかも……私自身に原因があった。
あの会社でのことだって、大学の頃のことだって、もし次があれば、私はきっと上手くやれる。
「それ以外には何か?」
「……ありません。何も」
そして、次回分の予約を済ませて、私は診療室を出た。
この時のことを、私は少しあとになって後悔することになる。
例えばの話、担当医師にあの〝夢〟のことまでちゃんと話せていたら、その後の展開は少しだけ違ったものになっていたかもしれない。
(いいんだ。決別しよう〝過去〟の自分と――)
私という人間はどうにもやはり衝動的すぎる部分があるようだ。
手に持った封筒はちょうどそのことを知るために受けた検査の結果であったりするのだが、しかし、私はその意味を真に理解など出来ていなかったのだろう。
これまで何度も失敗をしてきたクセに。
私はまた致命的な間違いを犯した。




