第十三話「隣町のスーパーで具材を買って味噌汁を作る」⑤
母の車に揺られながら、私は窓の外を眺めていた。
「連絡が来て驚いたわよ。アンタ、スーパーでいきなり倒れたんだって? それもなんだってこんな隣町のお店で……」
そう声をかけられて視線を合わせられないのは、当然気恥ずかしさもあるが、奇行をしたっていう自覚があったからだ。
あの〝夢〟のあと、私は冷たいタイルの床に頬をぴったりと付けた状態で横たわっていた。
幸いなことに怪我もなく、周囲の買い物客と店員さんに介抱されながら、救護室へと運ばれた私は、しばらくして駆け付けた母親に預けられた。
そして、現在こうして助手席で買い物袋を抱えながら自宅へと連行されている。
「こんなに人に迷惑かけたのなんて久しぶりかも」
「そう? つい三か月前に迷惑かけられたばっかりだと記憶してるけど」
「……そうでしたね。その節はどーもでした」
「いえいえ」
母は肩を竦めた。
「――結構優しいもんだよね、人って」
「まあ、そりゃあね。困っている人がいたら助ける。そういう〝常識〟の中で生きてんのよ」
「でも、困っていて助けてもらえない人もいるじゃない」
「それは、きっと〝常識〟から逸脱するからよ」
分かったような、分からないようなことを母は言う。
「考えてもみなさいよ、マヤは電車の中で妊婦さんがいたら席を譲れる?」
「譲れるよ。そういうもんでしょ」
「ううん、イメージ不足だわ」
言っていることの意味が分からなかった。
「……何? 『声をかけるのが恥ずかしくて出来ないでしょ』みたいなそんな話? 言っとくけど、私その辺面の皮は厚いよ」
「ははっ、そんなことが言いたいんじゃないわよ」
「じゃあ――」
「そうして席を譲った相手がもしただのふくよかなだけの女性だったら?」
「……ああ」
「そういうことよ」
私は上手く言い負かされたという気分になる。
「『他人に手を差し伸べる』という行為を、その道徳的な姿勢だけで評価するというのは案外難しいわ。そこには成功や失敗を分ける能力的要素があり、人の数だけ解釈も存在する。例えば、崖から落ちそうになっている人を助けようとしたとして、伸ばした指が触れたことで、その人がむしろ手を滑らせてしまったら、あなたには『殺人者』という汚名が着せられることだってあるかもしれない。『余計なことをしなければ、彼は自力で上がってこれた』なんてことも言われるかもね」
母は嘆息しながら言う。
「人間なんてね、みんな自信がないものなのよ。相手は助けを本当に求めているのか、自分に助けられるだけの能力があるのか――それを正しく判断できる人間なんてごく少数だわ。だからこそ、人は手助けってものにまで『常識』を求めるの。『この場面では助けないほうが変だ』っていう大義名分を得て、初めて動けるようになる。『失敗しても仕方なかった』。『お前はよくやった』。そういう保険が欲しいのよ」
私はその言葉に不思議と納得する思いだった。
だけど、すべてを飲み込むことが出来なかったのは『例外』を知っていたからか。
誰もが腫れ物として扱った〝あの時の私〟に、手を差し伸べようとしてくれた人がたしかにいた。
「じゃあ、例えばさ、助けられないと分かっていたとしても、手を差し伸べる人がいたとしたら?」
「そいつはただの弱い人間よ」
私の思ったことに、しかし、母はきっぱりと強い言葉を返した。
「……随分はっきり言うじゃんか」
「『ハックルベリー・フィンの冒険』って知らない? トム・ソーヤの人が書いた……。ズタボロの老婆を助けようとするのは、助けなかった際の良心の呵責に耐えられないからだー、ってね。人の痛みを知るってことは、それだけ人よりもたくさんの傷を背負うってことよ。これが弱さでなくてなんなの」
「……それでも、私は嬉しかったわ」
私の脳裏にはタグの姿がぼんやりと浮かんでいた。
母の視線がバックミラー越しに私へと注がれるのを感じる。
「それはきっとアンタが孤独だからよ。脛に同じ傷を持った人間を見つけて、『私だけじゃなかった』って喜ぶなんて、おぞましい光景だわ。まあ、だからこそ、その人とは似たもの同士であるとも言えるのかもしれないけれど、でも、そんなのはね、ただの奇跡に過ぎないのよ」
「…………」
「マヤが昔っから孤独でばっかりいるのはね、実際そこにある流れを読もうともせずに、自分の考えたいことばかり考えているからだわ。そうじゃないのよ。〝たしかにそこにあったもの〟にこそ、傾けられる耳を持ちなさい」
言われて、私は思い出す。
――『もう少し、ちゃんと相手が言葉にしてくれたことそれ自体に向き合ってみてはどうだい?』。
それは今回の〝夢〟で義父が口にした言葉。
――『真矢、ごめんね』。
――『私たち、友達だよね』。
――『自分一人で生きていけるみたいな顔なんかすんなよ』
「……でも、あんなこと言われたって、どうしろって言うのよ」
力なく嘯く私に、改めて母から皮肉でも飛んでくるのだろうと覚悟していた。
しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。
「――いや、だからそれを言えばいいのよ」
「……はい?」
「だから、どうして『分からない』ってことを言っちゃいけないなんてマヤは思ってるわけ?」
「いや、でも、それは……」
「自分は他人の〝弱み〟を見て喜ぶ人間のクセに、それを共有する相手としない相手がいるわけだ。『人を選ぶ』なんて、ははあ、ウチの娘も随分偉くなったもんだね」
「うっ……」
「考えなさいよ。アンタの周りにいるのは〝人間〟で、アンタもその〝人間〟の一人なのよ」
「たっ、ただ、それでもし相手や自分が傷つくことになったら……とかは……?」
「そんなことより、やるかやらないかを先に考えなさい。出る結論がどんなでも、『何かをする』ってこと自体が結局変わらないのなら、悩むことに意味なんかないわ」
それから、母は赤信号で車の止まったタイミングを見計らって、私に――胸の空いたようなしたり顔を向けた。
「いい加減認めなさい。この議論はマヤの負けよ」
「…………」
最後の悪あがきと私は頭をフル回転させる。
しかし、反論どころか、負け惜しみする言葉の一つも思い付かず、私はただ乱暴に助手席の背もたれに体重を預けた。
「だーっ、もう! 分かった! ウダウダ言ってすみませんでした!」
そして、それから自分でも情けなくなるようなしおらしくなった声で付け加える。
「……ごめんケド、銀行に寄ってもらえますか。ピン札出せるとこ」
「はいよ。まあ、どんな事情かまでは訊かないで置いてやるわ」
そう請け合って、母は車を方向転換させた。
娘を言い負かした爽快感もあってか、どこか楽しそうに。
案外に私もそこまで悪い気分ではなかった。
「――全く、子供相手にムキになって恥ずかしくないの、母さんは? お義父さんのこと少しは見習ってほしいわ」
「『おとうさん』? アンタが物心付いたころにはもう独り身だったわよ、私は」
「実のお父さんじゃなくて、義理のお父さんのほうよ。少しの期間で別れちゃったみたいだけど、いたでしょ。再婚相手」
「……は?」
「……え?」
母は本当に意味が分からなそうな顔をしていた。
いや、意味が分からないのはこちらなのだが……。
しかし、そんな私の心中を知ってか知らずか、母ははっきりと〝そのこと〟を告げた。
「私――再婚なんて一度もしてないわよ?」
それは、なんというか。
ここに来てあらゆる前提のひっくり返るような――あまりに衝撃的な一言だった。




