第十二話「隣町のスーパーで具材を買って味噌汁を作る」④
部屋を飛び出て間もなく、意外な人物と遭遇した。
部室前の廊下を真っ直ぐ行って角を曲がると、大きな影が目の前を覆う。
そこにいたのは、エスカレーター前の自販機で買ったらしいブラックコーヒーとカフェラテを両手に持った、長身でスポーツ刈りの青年。
〝どこかの誰か〟の地味さに勝るとも劣らない着古したポロシャツ姿の彼は――大学時代の田口公平その人だった。
いまいち表情からその内心が分かりづらいという点では、タグも私も似たもの同士だ。
ただ、違うのは、タグのそれが決して共感性の低さからくるものではなく、シンプルな人間性――不器用さによるものだということである。
「あ、守屋。……って、どうしたんだ? なんで泣いて――」「優しくしないで!」
この食い気味なリアクションはきっとと言うか――明らかに守屋ではなく私自身の感情である。
……我ながら嫉妬深いものだ。今は私が『守屋鈴花』の存在に相乗りしている状態だったとしても、どこか譲れない気持ちのようなものが自分自身にあるらしかった。
「そ、そうかすまん」
タグは困った様子で、視線を彷徨わせる。
「――えっと……ぶ、部室に三船いた? なんかアイツ最近大変そうだし、差し入れでもしてやろうかなと思って」
どうやら、二本も飲み物を抱えていたのはそんな理由からだったらしい。
守屋の涙腺を借りて、目頭がさらに熱くなるのを私は感じる。
「タグ……田口くんはさ、一応、文芸部とも掛け持ちで来てくれてる立場でしょ? そっちはそっちで忙しいでしょうに、なんでそんなに真矢によくしてくれてるの」
「え、なんでって……」
彼は、わざわざ片方の缶をもう一方の手で持った缶の上に重ねて立てるような形に持ち替えて、頬のあたりを軽く搔いた。
「うーん、なんでだろうな。尊敬してるってのもあるけど、なんかこう、俺が暇だからってのもあるんだろうな」
「いや、忙しいでしょ。ウチのサークルから頼んでる脚本もあるけど、たしか、文芸部の学祭の展示の準備の他に、公募に出す用の作品まで書いてるんじゃなかった?」
「え、なんで知ってるんだ? そんなこと守屋に話したっけ?」
「真矢に聞いたの!」
「そ、そうか……ええっと、まあ『暇』っていうのは、その、俺の心持ちのような話で、なんて言うか一人くらいアイツに振り返るやつがいたっていいんじゃないかって思うんだよ」
「……どういうこと?」
「ほらさ、みんな忙しいだろ。『自分の人生』ってやつにさ。だから、省みられるものと省みられないものがある。それが仕事にせよ、もっと些細な頼みごとのようなものにせよ、何もかもにかまっている暇なんかきっとないはずなんだ。それがもしかすると『生きる』ってやつなんだ」
どこかの文章から引っ張り出してきたみたいな言葉を、タグはしょっちゅう口にする。恥ずかしがるような素振りも見せずに。
「俺は、どうにもそういう『生きる』って感覚が希薄なんだよ。だから、せめて、他の誰かがやらないような、自分にしか出来ないことをしてみたい。そういう気持ちなのかもな、俺がアイツのところについ足を運んでしまうのは」
「そんなの、ただのエゴじゃん」
「はは、そうかもな」
照れたように彼は笑った。
それから、ついたまらなくなって私はちょっとだけ〝ズル〟をする。
「好きなの? 真矢のこと」
「ああ、好きだよ」
タグは迷いもなくそう答えた。
これが〝夢〟じゃなかったらよかったのに、なんて私は思った。
「……私ね、〝真矢〟を傷つけたの。どうすればいいのか分からなかった。大変そうだったから、少しだけでも仕事を引き受けようかってそんな提案をした。でも、あの子、自分の気持ちをちっとも話してくれなくて、それで――」
「なるほどな。うん。それは三船が悪い」
はっきりとそう言い切られて私はむっとする。
「『悪い』って何……?」
ぎらりと睨むと、タグは混乱したような反応をして声を裏返させる。
「す、すまん! そうだよな、友達のことをそんなふうに言われたら気が悪いよな。まあでも、人格否定をしたいとかそんなんじゃないんだよ」
そして、それから憎たらしいことにこの男は、きっぱりと私の思っていたことを言い当てた。
「……アイツ自身が、きっと自分のことをよく分かってないんだ。そんなの、周りが理解するなんて無理ってもんだ」
「………………」
「だから、多分だけど、仕事を引き取ってほしいとか、同情してほしいとか、そういうんじゃなかったんだと思う」
横に座って頭でも撫でてやればよかったんじゃないか、なんて肩を竦めながらタグは付け加えた。
――『私たち、友達だよね』。
あれは学園祭が終わったあと、守屋が私に放った言葉だ。
追い出しコンパに参加しない旨を伝えると、悲しみとも焦燥感とも取れない切実な表情で、彼女は私の手を取りながらそう言った。
どんな気持ちだったのだろう。
あの瞬間の〝私〟にはその姿が『自分の非を認められなくて失敗ごと帳消しにしようと乞う人間』に見えていた。
そして、私の視界が暗くなっていく。
φ
真っ暗な狭い部屋の中で私は呟いた。
「私は……間違っていた」
激しく痛む痣を押してでも、そう言わずにはいられなかった。
「そうかい? とてもそんなふうには思えないが」
どこかあっけらかんとしたような義父の言葉が【秘密基地】に響いた。
「君はひどい境遇に置かれていた。あんなふうにして居場所を突如去るだけの権利も、親友に愛想を尽かせるだけの道理も、君は持ち合わせていたように思うが」
「でも、私後悔してるわ!」
「じゃあ、今からでも守屋鈴花さんのところへ謝りに行くかい?」
「それ、は……」
私は黙り込んでしまう。
「ほらね。だから、嘘なんだ、君のその気持ちは」
体中から力が抜けていくのを私は感じた。
それと同時に痣の痛みも和らいでいった。
「――私……私が分からない」
「自分のことを分かっている人間なんて、元々そうはいないものだよ」
「分かりたい。じゃないと、私は――」
「真面目なのは君のいいところだ」
義父は温かく、冷たく、笑った。
「だが、真面目過ぎるばっかりに、的外れな要素にこだわりすぎるところがあるみたいだ」
「それは……どういう意味?」
「もう少し、ちゃんと相手が言葉にしてくれたことそれ自体に向き合ってみてはどうだい?」
眩しさが目を刺して、私は顔を上げる。
今度は【秘密基地】の扉が勝手に開いていた。私は戸惑いながらも――立ち上がってその場所をあとにした。




