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消えて、残って、揺れて。

作者: 月乃もみじ
掲載日:2025/12/21

 一

 生きるために食べよ、食べるために生きるな。

 とソクラテスは言った。

 なら私は生きない。生きる意味がどこにも見当たらないからだ。

 

 旅館の明かりはきれいだ。けれどその光は私の胸の穴を埋めてはくれない。

 都会での研修を終え、田舎の旅館に配属されて遮二無二働く日々が続いていた。

 最初はやる気に満ち溢れ、将来に不安を持つことなんて微塵もなかった。

 私はいつからこうなったのか。

 私はいつからソクラテスの言葉に牙をむくようになったのか。

 生きるために働いているのか、働くために生きているのか。

 そんなソクラテスの名言を揶揄やゆするような問いを胸に抱きながら、私は今日も笑顔を張り付けてお客様の対応を丁寧にやりすごす。

 「はぁ」

 「どうした?ほのか、最近疲れてるんじゃない?」

 無意識に出てしまったため息に、同期のしずが心配そうに声をかけてくれる。

 「ううん。へーきへーき!」

 しずは、私よりも仕事の飲み込みが早く機転もきく、できる女として評されている。

 「ちゃんと、休憩とりなよ?」

 「うん、ありがとう」

 私は、張り付けた笑顔をしずにみせて、畳んだタオルを持って、逃げるようにスタッフルームを後にした。

 閉まったドアの前でもう一度、ため息を吐いて、私は仕事に集中するため気を取り直す。

 生きるために働き、働くために生きる。

 そんな循環の意味に気づきたくもないのに、気づいてしまった。

 毎朝、同じ時間に目を覚まし、昨日と区別のつかない制服を着て、旅館の廊下を歩く。

 仕事を覚えたはずなのに、心は日に日にすり減っていく気がした。

 支配人の「なれたでしょ?」という言葉がまるで「これからもっと頑張れ」という命令のように聞こえてくる。

 できるようになればなるほど、できることが当然になっていく。

 それがなんとも、居心地悪い。

 私は、何を目指しているんだろう。

 二十二歳なのに、もう人生の地図を見失っているような気がした。

 「いらっしゃいませ~」

 いつもの声が旅館に響く。ラの音だ。学校で何度もそう言われてきた。

 接客はラの音を出せと。

 「はい、それではお部屋の方にご案内させていただきますね」

 新婚であろう男女二人が楽しそうに目を細め合いながら私の後ろをついてくる。

 「お部屋はこちらになります。窓からは山がよく見えますよ」

 口が自然に動く。

 何百回も繰り返した仕事用の声。

 でも、胸の内側は、湿った布みたいに重く沈んでいる。

 きっと、これから何億回と同じ接客用語を繰り返すのだろう。

 そんなことを繰り返して、私は一体何になれるのだろう。

 毎日、人の笑顔に触れておきながら、私の人生はどこに向かってる?

 働く意味ってなんだっけ?

 お金のため?

 生きる意味ってなんだっけ?

 迷惑をかけないため?

 社会人三年目になって、給料にも慣れて、怒られることにも慣れて、だけど生きている実感だけは、どうしても湧いてこない。

 「失礼いたしまーす。それではお茶の方だけ淹れさせていただきますね」

 客室の座卓に湯のみを並べて、お湯を落とす。

 急須から立ちのぼる湯気は、白く細く揺れていて、それだけ見ていると、私の心の中まで曇りを拭ってくれそうに感じる。

 もちろん、感じるだけ。

 実際のところ、胸の奥の重さはなんにも変わらない。

 「いい香り~」女性客が柔らかく言った。

 隣の彼と視線を交わしながら、その仕草にまた小さく笑いがこぼれる。

 「さっき、三峰神社に行ってきたんです」

 今度は男性客が思い出したように言った。

 「あ、そうでしたか」私は微笑む。

 「どうでした?自然は感じられましたか?」

 「ええ。すごかったです!空気がぜんぜん違っていて・・・。なんか、浄化されるっていうのかな?とにかく、ね。すごかったよね」

 ふたりは見合わせて頷き合う。

 「あっ、それに、お願い事もしてきたんです!やっぱり三峰神社って願いが叶うことで有名なんですか?」

 彼女の方が、すこし興奮気味に尋ねてきた。

 「はい。とっても有名でございますよ。どんなことをお願いされたんですか?」

 「お腹の子が、元気で生まれてきますようにって」

 自分のお腹をさすりながら、愛おしそうな目をして言った。

 「あら、そうでしたか。それは、とても素敵なお願いですね」

 彼女が頬を緩めた。

 「三峰神社は昔から願いが叶うって言われてますから」

 地元じゃないのに、我が物顔で言う。

 癖みたいなもの。

 噓八百を並べるのが接客だ。

 「だから、お二人の願いも届きますよ」私は落ち着いた声でつづけた。

 「だったらいいんですけど・・・」 

 彼女は再度お腹をさすりながら、心配そうに笑う。

 「大切な時期ですね。どうか、お身体お大事にされてください」

 お茶の湯気の向こう側で、二人微笑む。

 その湯気には、確かな距離があるようにみえた。

 近そうに見えるのに、実際に歩いていけば果てしなく遠いどこかの滝のような。


   ニ

 その日はなんとなく、遠回りして帰ることにした。

 いつもより、長く歩きたい気分だった。

 旅館の明かりが背後で小さくなっていくにつれて、胸の奥に沈んでいた重さが、ようやく呼吸できる場所へ浮かび上がってくるような気がした。

 角をひとつ曲がった先で、見慣れない提灯がゆらゆら揺れていた。

 「ラーメン」と手書きで書かれた白い提灯。

 こんなところに屋台のラーメン屋さんなんかあったんだ。

 まるで、今日だけぽつりと現れたみたいに、そこだけ時間が取り残されている。

 「今日は、ラーメンでいっか」

 白い息とともに呟く。

 仕事のあとに、自分のためだけに料理をするのは、思っているより骨が折れる。

 今日は簡単に済ませることにする。

 近づくと、湯気の奥から「いらっしゃい」と、低くて、優しい声がした。

 私は忌憚なく、五席あるうちの真ん中に座って、醤油ラーメンを注文した。

 亭主さんは無駄のない手つきで寸胴に向かい、湯気の向こうで黙々と鍋を扱っている。

 その動きを見て、懐かしい気持ちになった。

 おじいちゃんに、似ている。

 私が小学生のころ、九州の実家で、おじいちゃんは屋台でドーナツを売っていた。

 ふつふつと沸騰しはじめたお湯みたいに遠い記憶が呼び起された。

 学校終わりや、休みの日は、おじいちゃんの屋台をよく手伝ったものだ。

 懐かしい。

 後方で、油のはねる音を聞きながら、揚げたてのドーナツに砂糖を付けるのが私の仕事だった。

 おじいちゃんは主に、お会計とドーナツを揚げる係。

 思い出そうとしても、輪郭がぼやけて中々思い出せない。

 でも、匂いだけは今でもはっきりと残っている。

 「もう少しで、できるからねぇ」

 柔和な亭主さんの声で現実に戻される。

 私は、はっとして、慌てて笑顔を作って、「はい」とだけ言った。

 湯気が目の前でゆっくり揺れる。

 その揺れ方がドーナツ屋台の油の湯気と同じだった。

 思わず胸の奥がくすぐったくなり、そして少しだけ痛んだ。

 おじいちゃんは、私が小学五年生の冬に亡くなった。

 最後に編んだニット帽を渡そうと準備していたのに、間に合わなかった。

 その悔しさと、言えなかった「ありがとう」と「大好き」が、ずっと心のどこかで行き場を失っていた。

 「はい、おまちどう。熱いからね。気をつけてね」

 亭主さんが差しだしたラーメンは、手に取ると驚くほどあたたかった。

 熱くない。あたたかかったのだ。

 スープをひと口飲むと、胸の奥にしまい込んでいたものが、少しだけほどけたような気がした。

 とても優しい味がした。

 ラーメンを食べ終えて、私はそのまま家に帰った。

 部屋の灯りをつけて、何とはなしに箪笥を開ける。

 奥のほうから、くしゃりとした手触りが指に触れた。

 それは渡せなかったニット帽だった。

 地元を出るとき、なぜか一緒に持ってきたのだ。

 もう何年も広げることもなかった。

 懐かしさが、静かに胸に広がった。

 箪笥に戻すのは、なんだか気が引けて、私はそれを枕元に置いた。

 

 その夜から私はおじいちゃんの夢を見るようになった。


   三

 夢の中の私は、少し背が低かった。

 足元の冷たい地面と、油の匂いだけがやけにはっきりしている。

 落ち込んだ日や、うまくいかなかった日は、いつもおじいちゃんの屋台にいた。

 ドーナツを並べる時間は、嫌なことを全て忘れさせてくれる。

最初の夢は、体育の授業で私だけ逆上がりができなくて落ち込んだ日だった。

 同じことをさせられて、できないと寂しくなる。

 大したことでもないのに、重大事件みたいに心がざわつく。

 おじいちゃんは、油の様子をみながら、ちらりとこちらを見る。

 目を細めた、その笑い方がやさしい。

 「できんでも、よかたい。そう落ち込むな。誰かよりできるとか、できんとか、そげんことは人生の大ごとじゃなか」

 すこし間を置いて、もう一度。

 「焦らんでよか。ほのかは、ほのかができることを、一つでもええから見つけて一生懸命やればよかよ。それで十分たい」

 おじいちゃんは、そう笑いながら言うと、再び下を向いてドーナツを引き上げた。

 「ほれ、砂糖を頼む」

 そういって、揚げたてのドーナツを私に差し出した。

次の夢は、運動会だった。

 徒競走で、私はビリになってしまった。

 私が走り切る時には、ゴールテープは足元で風に吹かれていた。

 悔しさよりも先に、空っぽになる。

 その日の夕方も、おじいちゃんの屋台にいた。

 「どうしたんや?元気ないな?」

 砂糖をまぶす視界が揺れ始める。

 おじいちゃんはいつだって優しい。

 その声を聞くと、涙腺のネジが緩んでくるんだ。

 張りつめていたものが、音もなくほどけていく。

 私は、優しくされると泣きたくなる性分だった。

 ずっと力を入れて踏ん張っていたんだと、あとから分かる。

 私は小さな腕で目をこすって、ひくひくするのを全力で抑える。

 それでも、涙はあふれ出てきて処理できなくなった。

 「ほれほれ」

 突然泣きはじめた私を、おじいちゃんは目を細めながら、困ったように見つめていた。

 「どうしたんや、ほのか」

 「運動会のかけっこでビリになった」私はしゃっくりをあげながら、それだけ口にした。

 「そうか、そうか」

 おじいちゃんは、しばらく私を見てから、口を開いた。

 「一番とか、そげんことは気にせんでええんよ。ただ生きとる。それでええんよ。わかるかい?」

 「わからん!わからん、わからん、わからん、わからん!」

 私は駄々をこねるように何度も同じ言葉を繰り返した。

 「はっはっは。そりゃ困った。・・・そうじゃな、わからんでもよか。泣きたいときは、泣けばよか。涙も人生の味っちゃけん」

 それからも、回想に近い夢はつづいた。

 まるでおじいちゃんが置き忘れた言葉たちを拾い集めて、大人になった私にそっと手渡してくれているみたいだった。

 次の夢は、宿題をやってこなかった男の子が、教壇の前に立たされて先生に怒られた日だった。

 「宿題をやってこない子はいらない」

 「先生の言うことが聞けない子はいらない」

 先生はいつだって正しいと思っているのに、空から降ってきた疑問符に私は頭を傾けた。

 家に帰ると、私はランドセルを放り出して、おじいちゃんの屋台に走った。

 紙袋から砂糖をすくい、白い粒を容器に移している、おじいちゃんの前に立った。

 「先生って、えらいと?」

 「どうしたんや、そんな、はぁはぁして」

 おじいちゃんは紙袋の口を丸めながら、いつものように笑った。

 「今日、先生の言うことが聞けん人はいらんって、先生言っとたんや。なぁ、じいじ、先生って正かと?えらかと?」

 「えらか人も、おるばい。でもな、えらいふりをしとるだけの人もおる」

 私は少し呼吸を整えた。

 「先生の言うことは、聞かんといかん?」

 おじいちゃんは首を横に振った。

 「考えんで聞くのは、楽なんや。でも、考えながら聞くのが大事なんや」

 さらにつづけた。

 「今日の先生は間違いやな。いらん人なんて、この世にはおらんからな」

 その言葉を、当時の私は、半分も分かっていなかった。

 でも夢の中で、大人になった私は、はっきりと頷いていた。

 別の日の夢では、私は教室の掃除をしていた。

 男子がさぼっていたので、注意したら、うるせーやいい子ちゃんかよ、と笑ってあしらい、「おでこ、ひろっ!」と言って、颯爽と私の前を通りすぎていった。

 その頃の私は、お気に入りのケロッピーのピン留めを毎日つけていた。

 初めて、自分の見た目が恥ずかしいと感じた日だった。

 男子側からしたら何気ない言葉だったのかもしれない。でも、私の胸には大きな鉛が落ちていくようで、ひどく落ちこんだ。

 「顔はな、使い道ば選べん。広かろうが、狭かろうが、生きとるのに何の支障もなか」

 それから、私の顔をみて、優しく付け足した。

 「そんなことより、笑う時の顔の方がずっと大事たい。安心しんしゃい。ほのかの笑顔は世界一やけん」

 

 私は、それから何度もその屋台に通うようになった。

 小学生の頃、誰にも教えなかった秘密基地みたいに。

 おじいちゃんの屋台と重ねて、用事がなくても、理由がなくても、そこに寄りたくなった。

 その日も、私はいつものようにラーメンをすすっていた。

 すると、ふと亭主さんが鍋を洗いながら言った。

 「そろそろ、ピリオドを打つ時期かもしれないなぁ」

 私は箸を止めて、亭主さんを見た。

 「どういう意味ですか?やめちゃうってことですか?」

 「うーん。そうねぇ。ちょっと癌になっちゃってね。まぁ随分前のことなんだけどね。無理言って続けてたんだけど、もう時期かな~」

 そう言って亭主さんは小さく笑った。

 「いつも来てくれてありがとうね」

 その笑顔はどこか遠かった。

 私は何も言えず、ただ少し冷めたスープを見ていた。

 おつりを渡すときも、亭主さんは終始笑顔で「はい、四百円のおかえしね。ほんとにどうもありがとう。寒いからね、気をつけて帰ってねぇ」

 私は喉に何かがつっかえて上手く言葉が出てこなかった。

 ただ、亭主さんの優しさに涙しそうになった。

 優しくされると泣きたくなる。

 性分はきっと成長しても変わらない。

 帰り道、冷えた夜気の中で、ふと三峰神社のことを思い出した。

 願い事が叶うという眉唾話。

 いつも笑って流すのに、その夜は胸の奥に残った。

 次の休日、気づけば三峰行きの電車に乗っていた。

 久しぶりの電車だ。

 山は、冬の顔を見せていて、境内は思ったより静かだった。

 私は藁をも縋る思いで、願いごとをした。

 おじいちゃんに会いたいです。

 目を開けて、冬の光が木々の間をすり抜けていた。

 せっかく来たのだから、と私は境内をゆっくり歩きはじめる。

 冷たい空気が頬に触れるたび、胸の奥まで澄んでいくようだった。

 踏みしめる砂利の音も、風のざわめきも、まるでこの場所だけの時間のように、ゆったりと流れていた。

 ふと見上げると、枝に残る雪がきらりと光り、小さな水の音がどこからか聞こえた。

 神社の空気に触れるたび、心の奥に静かな神秘が広がる。

 そのとき、不思議な気持ちが胸に生まれた。ここに来たこと、歩いたこと、それ自体が、何か大切なことの始まりのように思えた。

 そして、夜が訪れると、私は夢を見た。


 夢の中で目を開けると、屋台の灯りがぼんやり揺れていた。

 いつもの小学生の私ではなく、今の私の姿で立っている。

 そして、目の前にはおじいちゃん。

 編み目の少し歪んだ、あのニット帽をかぶっていた。

 亡くなったあの日、渡せなかった帽子を、今なぜか被っている。

 「ほのか。久しぶりやな」

 おじいちゃんは、私の名前を呼んで、いつもの穏やかな声で笑った。

 その笑顔は、子どもの頃の記憶と重なり、でもどこか現実感があった。

 帽子の編み目や湯気の匂いが、私の胸に不思議な確かさを残す。

 夢なのに、夢じゃない。

 あの日の空白が、今ここで、ほんの少し埋まるようだった。

 「ほのか、元気でやっとるか?」 

 おじいちゃんは、そう言って私を見た。

 責めるわけでもなく、確かめるでもない声だった。

 私は、うまく頷けなかった。

 喉の奥が詰まって、言葉が出てこない。

 気がつくと涙が落ちていた。

 理由ははっきりしない。

 ただ、その声があまりにも優しかった。

 「わからんくなった・・・」やっとそれだけ言えた。

 「生きる意味が、わからん」

 おじいちゃんはすぐには答えなかった。

 油の中のドーナツを覗くみたいに、少しだけ間を置いた。

 「意味がわからん日もある。それでも朝は来るけん、それだけで生きる価値はあるばい。例えばな。うまかもん食べて、空ば見上げて、それで十分生きる意味のひとつやけん」

 私は、袖で涙を拭いたけど、拭うほどに、また溢れてきた。

 「焦らんでええよ。人生は自分のしたいことのためにあるんや。他人のためやない。ほのかは少し優しすぎや。そんな悩まんでいいんよ。自分に生きたいように生きればええ」

 おじいちゃんは、そう言って笑った。

 ニット帽の影で、その目は優しく細まっていた。

 「もう・・・会えんの?」

 声が震えた。涙でぼやける視界の向こうに、おじいちゃんは静かに立っていた。

 「人は別れても、心の中では一緒におるけん。安心しんしゃい。別れは風と一緒たい。姿は消えても、匂いや温もりは残るけん」

 なおも下を向いたままの私に、おじいちゃんはつづけていった。

 「さようならは悲しいことやなか。次の物語を始める合図たい。さぁ、下ばっかり向いてないで、顔を上げ!」

 おじいちゃんの影がだんだん薄くなっていく。

 消えてしまうと思った。

 「おじいちゃん!待って!これだけは言わせて!おじいちゃん、いつも、どんな時でも、私の味方でいてくれてありがとう。優しく笑ってくれてありがとう。いっぱい、いっぱいありがとう。大好きだよ!」

 「ほのか、ありがとなぁ。おじいちゃんもほのかのことが大好きじゃい。ほのかから貰ったニット帽。めちゃくちゃ温かいけん。ありがとうな」

 待って!

 そう言って、手を伸ばしたけれど、届かなかった。

 おじいちゃんはいつもの優しい顔で笑って、何かを言おうとしたけれど、その声は、もう聞こえなかった。

 やがて、煙のように消えてしまった。

 気がつくと、私はベッドの上で泣いていた。

 目を開けて、反射的に枕元を見る。

 そこに置いたはずのニット帽は、もうなかった。

 胸の奥に、ジーンとおじいちゃんの温もりが残っていた。

 

   四

 退職届を握りしめ、私は旅館の受付に立った。

 指先が少し震えているのを感じながらも、深呼吸して書類を差し出す。

 これでいいんだよね・・・おじいちゃん。

 ああ、それでよか。スマイルじゃぞ!

 柔らかくて、力が抜けた声が聞こえた気がした。

 背中を押してくれるような、温かいエールだった。

 その声を聞いた瞬間、私は小さな屋台の灯りを思い出した。

 湯気の向こうで笑うおじいちゃんの顔も、はっきり浮かんだ。

 そして、私は静かに息をついた。

 屋台を継ぐ決意が、胸の奥で、しっかりと芽生えた。

 うん!おじいちゃん、あたし頑張るよ!

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