7 犬も歩けば棒に当たる
建国記念のパーティーは、学園のホールで開かれる。
会場に足を踏み入れたその瞬間から、ロナルド様はたくさんの令嬢たちの目を釘付けにしていた。確かに、わかる。みなさんのお気持ちはもう、わかりすぎるほどわかりますよ。ロナルド様の麗しさは、もはや人外レベルですからね。本当に、とても同じ人間とは思えない。
私もそこそこがんばったけど、釣り合いなんか取れるはずもない。気後れしながらロナルド様の後ろを歩いていたら、振り返ったロナルド様にぐい、と引き寄せられる。
「もっと自信持てよ」
「え?」
「お前は俺の婚約者なんだから、もっと堂々としてろ」
「……はあ」
そんなこと言ったって、無理ですよ。と心の中で毒づいた私の耳元に、すっと顔を近づけるロナルド様。
「カレンが一番きれいだから」
……色気だだ漏れの声でささやくの、ほんとやめてほしい……!
私だって、普通の一般女子なんですよ。そんなこと言われたら、舞い上がっちゃうじゃない。なんて罪作りな人なのよ……!
ばくばくと暴れ出す心臓を押さえつつ、とにかく平常心、平常心、と頭の中で唱えながらロナルド様の隣を歩く。
会場の中程まで進むと、よく知る二人の姿が見えてホッとした。
「カレン!」
目の覚めるようなサファイアブルーのドレスを纏ったミュリエル様と、エスコートするエルランド殿下が私たちに気づいて手を振ってくれる。
「カレン、すごく似合ってるわ! ほんとにきれい!」
「ありがとうございます。ロナルド様がいろいろと準備してくれたんですよ」
「もう、ロナルド様も隅に置けないんだから。カレンのために、ここまで完璧な用意をしていたなんて」
おお、ミュリエル様も思いのほか絶賛されている。さすがはロナルド様。及第点どころか、恐らく彼史上最高得点を叩き出している。
「まあ、ちょっとしたサプライズだよ」
自慢げに胸を張るロナルド様を見て、エルランド殿下が妙にニヤニヤしているのはなぜだろう。
「さすがは王国一のモテ男よね。ロナルド様って、こういうセンスにはほんとに長けてるんだから」
「これくらい、俺にとっては朝飯前だけどな」
感心して褒めまくるミュリエル様と得意満面なロナルド様とのやり取りに、ふわふわと舞い上がっていた気持ちが突然その浮力を失って、地に落ちた。
どこか夢見心地で浮かれていた気分が、否応なく現実に引き戻される。
これまで何人もの女性たちと浮き名を流し、派手な異性関係が噂されてきたロナルド様のことだもの。女性にドレスを贈るなんて、きっと珍しいことでも特別なことでもない。彼にとっては日常茶飯事、当たり前のよくあることなのだ。
そんなの、とっくにわかりきっていたことなのに。華やかなパーティーの雰囲気に舞い上がってロナルド様に特別扱いされている気になって、また勘違いしそうになっていた自分が馬鹿みたいに恥ずかしい。
そう思ったら、なんだか急に、胸の奥が痛い。
「疲れたか?」
パーティーも終盤に差しかかった頃、不意にロナルド様が私の顔を覗き込む。
「え? あ、いえ……」
「無理すんなよ。休むか?」
しどろもどろになったのは、顔が近すぎたからである。なんか今日のロナルド様、距離感がおかしい。というより、これが彼の通常運転なのかしら。そう思うとやけに気が滅入ってしまって、今までになく乱高下する感情の波に自分自身が疲弊している。
ロナルド様は優しく私の手を取って、壁際のソファまで連れて行く。
「少し座ってろ。飲み物を持ってくるから」
「……はい」
ロナルド様の背中をぼんやりと見送ってから、ふと視線を落とす。
心の中に広がる薄っすらとしたもやが、どんどんその存在感を増していく。知らぬ間に手を取られ足を取られ、身動きできないほど息苦しい。
……疲れた。
小さく息を吐いたそのとき、私の前に暗い影ができる。
顔を上げると、敵意むき出しの目をした令嬢がグラスを手にして立っていた。
「……あなた、いったい何なのよ……!」
殺気のこもった声。噛みつくような視線。この人は――――。
「……リースベット様」
「恥ずかしげもなくロナルドの色味そのまんまのドレスなんか着て、厚かましい……!」
「……え?」
あれ。もしかしてこのドレス、自分で用意したと思われてる?
いやいや、いくらなんでもそこまでは、と慌てて反論しようとしたのに、リースベット様はそんな隙など一ミリも与えてはくれない。
「王命で婚約したからって、いい気にならないでよ。どこでどう小細工して王家に取り入ったのかは知らないけど、なんであなたなんかにロナルドを奪われなきゃならないの? 私のほうがロナルドに相応しいし、本当に愛されてるのはこの私なのに!」
「え……」
「ロナルドはね、私の言うことならなんでも聞いてくれたし、行きたいと言ったところにはどこにだって連れてってくれたわ。私がどんなにわがままを言っても、そういうところが可愛いってキスしてくれたのよ。それなのに、どうして愛し合っている私たちが引き裂かれなきゃならないの……!?」
話しながら興奮が抑えきれなくなったのか、リースベット様の金切り声が次第にボリュームを上げていく。
その声でただならぬ空気に気づいたらしい人たちが、何事かと私たちを遠巻きに眺めている。
「あなたとロナルドの婚約なんて、結局は王命で結ばれたものでしょう? 愛されてもいないくせに、いい加減目障りなのよ!」
悪意と怒りを含んだ嘲笑を浮かべるリースベット様が、忌々しげに言い放つ。
容赦なく投げつけられる言葉の数々に、私は疲弊した自分の心がどんどん冷えていくのを感じていた。
……わかってる。わかってた。言われなくても、私が一番知っていた。
浮かれて、舞い上がって、いい気になって、勘違いしそうになっていたのは、私のほうだ。
だから冷めた目でリースベット様を見返して、淡々と答える。
「……愛が、必要ですか?」
「は?」
「貴族同士の結婚は、家同士の結びつき。そこに愛などなくても、結婚はできると思うのですが」
「な、何言って――!」
「何度も言いますが、この婚約は王命です。覆すことはできないのです。ただ私は、あなたとロナルド様の関係を邪魔するつもりはまったくありません」
感情の乗らない声で話す私を、リースベット様は怪訝な顔で見つめている。
「私がロナルド様に愛されることはありませんし、それを望むこともありません。婚約に関しては事情があるので辞退しませんが、ロナルド様がどうされようと干渉する気はないんです。ですから、このままお二人で愛を育んでもらって構いません」
「は……?」
「私のことなど、どうぞお気になさらず。一切関係のないことですから」
そう言ってソファから立ち上がり、その場から立ち去ろうとする。
「……ふ、ふざけないでよ!」
その瞬間。
激昂したリースベット様が、手にしていたグラスの中身を私に向かって勢いよくぶちまけた。
――――バシャッ
この至近距離では避けることもできず、私は反射的に目を瞑って顔を背ける。
不自然な静寂が、辺りを支配する。
そのまま、数秒。ふと違和感に気づく。
……あれ。冷たくない……?
ゆっくり目を開けると――――
目の前には、ぶちまけられた果実水でびしょびしょになったロナルド様が……!
「え、ちょっ……! なんで!?」