23 掌中の珠
平和が、戻ってきた。
「あねうえ、リーンちゃんとあっちのほうに行ってみてもいい?」
「いいけど、湖にはあんまり近づかないようにね」
「大丈夫よ、お姉様。森のほうに行ってみたいんですって。私が一緒に行くから心配しないで」
「アイリーン、しばらく帰ってこなくていいからな。レイフとゆっくり散歩でもしてこい」
「……お兄様の魂胆がわかりやすすぎて萎えるんですけど」
まるで汚いものでも見るような目をしながら、リーンが身震いする。
「うるさい、早く行け」
「気をつけてね」
「「はーい」」
一連の騒動が落ち着き、すでに数週間。
私たち四人は、王都郊外にある王立庭園を訪れていた。レイフが「みんなでピクニックに行きたい!」と可愛いおねだりをしたからである。
あれから、あの騒動が嘘のように穏やかな日々が続いている。
「はあー」
ごろんと横になったロナルド様は、「カレン、ちょっと」と私を呼びつけたかと思うと当然のように膝枕をせがむ。
「あー、ずっとこうしてたい」
「すぐリーンたちが帰ってきますよ」
「それまではカレンを独り占めしたい。いいだろ?」
私の膝の上に頭を乗せたまま、やけに熱っぽい視線で見上げてくるロナルド様。
ちょっと油断すると、すぐにこんな甘々なセリフと仕草にこれでもかというほどさらされる。だいぶ、慣れてはきたけれども。
ロナルド様は私の髪をひょい、と一房取って、指に巻きつけくるくると弄び始めた。
どこか放心したようなその様子に、「どうかしたのですか?」と尋ねてみる。
「……幸せを噛み締めてるだけだよ」
つぶやくようにそう言って、ロナルド様は何か思い出したのか、ふっと小さく笑う。
「……ランヴァルド殿下にとどめを刺したカレン、かっこよかったよな」
「はい?」
「男前すぎて、ちょっと惚れ直した」
「……なんですか、それ」
バツが悪くて目を逸らす私を見て、ロナルド様はクツクツと忍び笑いをこらえている。
今回の騒動の黒幕であることを指摘されたばかりか、自国でのやらかしをも暴露され、強制送還が決定したランヴァルド殿下はがっくりと項垂れたまま王太子執務室をあとにした。
退室する直前、ランヴァルド殿下が未練がましく私のほうへ視線を向けるものだから、思わず声をかけてしまったのだ。
「……ランヴァルド殿下」
私の声に立ち止まり、殿下は何を思ったかパッと顔を輝かせる。
「殿下は以前、私たちの婚約を『身売り同然』と断言し、そんな婚約では到底幸せにはなれないとおっしゃっていましたが」
「え? あ、いや……」
「ご心配には及びません。私はとっくに、これ以上ないほど幸せですので」
「は?」
「これからもロナルド様と幾久しく、幸せに生きていきます。殿下もどうか、お元気で」
私が満面の笑みを見せると、ランヴァルド殿下は返事もできないほどショックだったらしい。力なく項垂れて、とぼとぼと部屋を出て行った。
そのあとすぐ、ランヴァルド殿下はガーシュ王国に帰国した。いや、連れ戻されたという表現のほうが正しいのかも。
自国に戻ったランヴァルド殿下は、兄であり王太子でもあるジークヴァルド殿下にこっぴどく叱られ、反省文を書かせられ、留学以前に自国でやらかした分も併せてなぜかガーシュ王国の辺境伯領に送られた。
ガーシュ王国の辺境伯領は、得体の知れない魔獣が住むと言われる山岳地帯に接している。そのため辺境伯家は独自の辺境伯騎士団を有しているのだけど、この騎士団、実力主義の武闘派集団として有名なのである。
ランヴァルド殿下は、どうやらこの辺境伯騎士団に送り込まれたと思われる。頭の中でしょうもない策ばかり練ってないで、たまには体を動かせ、ということらしい。
まあ、健全な精神は健全な肉体に宿る、と言われていることだし? 頭でっかちなランヴァルド殿下には、ぴったりの処遇なのではないかと思う。
ランヴァルド殿下同様、リースベット様もすでにこの国にはいない。
あれだけの騒動になったこともあって、リースベット様を受け入れてくれる貴族家はさすがになかった。かつての恋人への想いを拗らせ、身ごもっただの責任を取れだのと派手な嘘をついて周囲をだまそうとした令嬢を、妻として嫁として迎え入れてくれる貴族家などあるはずもない。
というわけで、リースベット様はひっそりと他国の修道院に送られたらしい。
ちなみに、これでヴィカンデル侯爵も反省したかと思いきや、そうでもなさそうである。
クリスティーナ様いわく、「姉がダメならもう私しかいないと言って、どんどん意に沿わない縁談を持ってくるんです」とのこと。
この件に関しては、すでにブランディル公爵が密かに動いているらしい。クリスティーナ様の願い通り、ヴィカンデル侯爵家の影響下になく、公爵家と縁戚関係にある貴族家の令息とクリスティーナ様との婚約を水面下で画策しているんだとか。
いまやリーンとクリスティーナ様は無二の親友といっていいくらいの関係を築いているし、クリスティーナ様が今回の件に協力してくれたことを考えると、公爵も黙って見ているつもりはなさそうである。
「……そういえばさ」
どこか遠くを見るような目をしながら、ロナルド様がぼんやりとした口調で尋ねる。
「お前、最初にリースベットに因縁つけられたときのこと覚えてるか?」
「え? 最初?」
「学園の廊下でいきなり呼び止められて、伯爵令嬢のくせに生意気だとか俺との婚約は辞退しろとか言われてただろ?」
「……ああ、ありましたね」
なんだかもうずいぶん遠い昔のように思えるその記憶を、私は頭の中から無理やり引っ張り出す。
あのときはまだリースベット様のことをきちんと認識していなくて、どこの誰かわからずにすったもんだしたんだっけ。あなた誰ですかとかそんなことどうでもいいでしょとか無駄に言い合っていたら、突然ロナルド様が来たのよね。
すでにちょっと、懐かしい。
「あのとき、『婚約は辞退しません』ってお前が堂々と言い返してるのを見てたんだよな」
「え、あの場にいたのですか?」
「お前たちがなんか揉めてるって誰かに言われて、駆けつけたらちょうどお前が言い返してたとこだった」
「ああ、そういう……」
「それ聞いて、ちょっと感動したんだ」
「え? 感動? 感動する要素なんて、ありましたっけ?」
「俺との婚約なんて、まともな令嬢ならみんな嫌がるはずだろ? それなのに、お前は何を言われても『王命だから辞退しません』って言い切ってた」
「まあ、はい。そりゃ、王命ですから」
「あれ聞いて、思ったんだ。こいつは俺がどんな人間でも、ずっと一緒にいるつもりなんだなって。王命っていうはっきりした理由があるにせよ、なんかそれが信じられないくらいうれしくてさ」
私の髪を弄びながら、独り言のようにロナルド様が続ける。
「いろんな女が寄ってきて、お互い打算と損得勘定でつき合って、メリットがなくなったらいつのまにかいなくなって、女なんてみんなそんなもんだと思ってたんだけどな。そうじゃない女がすぐ目の前にいると思ったら、なんか舞い上がってたんだよな」
あのときのことを思い出しているのか、ロナルド様の口元が少し緩む。
そういえばあのとき、突然現れて私を学園の裏庭に連れ出したロナルド様は「今日の俺は、機嫌がいいからな」なんて言っていた。
あれは、そういうことだったのだろうか。
実の母親の死を通して「愛」というものに懐疑的になったロナルド様は、人を愛することを否定しながら、本当は誰よりも愛されることに飢えていたのかもしれない。
そう思ったら、どうしようもなく、胸の奥が絞めつけられる。ぎゅう、と心臓が鷲掴みにされる。
私はこの人に、ちゃんと愛を返せているだろうか。
私の想いは、決意は、覚悟は、ちゃんと届いているのだろうか。ロナルド様が私を大切に想ってくれているのと同じくらい、いやそれ以上に、私はロナルド様を大切にできているのだろうか。
「……ロナルド様」
「ん?」
「大好きですよ」
「……知ってる」
うれしさを抑えきれないといった様子で微笑むロナルド様は、不意に私の頬に手を伸ばす。
「でも俺のほうが、お前のこと好きだと思うけどな」
「そんなことないですよ。私だって負けません」
「じゃあさ」
いきなりがばりと起き上がると、ロナルド様は私の眼前にずい、と顔を近づける。
「カレンからキスして」
「え?」
「それも、とびきり濃厚なやつ」
「へ?」
「いつも俺からばかりだろ? 俺だってカレンから求められたい」
「……えー?」
「なんだよ。嫌なのか?」
「い、嫌というわけでは……」
とんでもない無理難題に顔を引きつらせる私を尻目に、なんだか楽しそうなロナルド様。
不貞腐れたような顔をしながらも、その目には揶揄うような甘さが潜んでいる。
「……困ってるカレン、可愛すぎ」
「……え」
「じゃあ俺が、手本を見せてやるよ」
そう言って近づいてきたラズベリーレッドの瞳は、匂い立つほど甘美な毒を孕んでいて――――
そのあとのことは、ご想像にお任せします。
無事完結です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました!