2 はじめが肝心
完全に外堀を埋められた状態で話を進められ、「いい返事を待っているよ」と見送られた私はほうほうのていで王族専用談話室をあとにした。
そのままの勢いで帰宅すると、急いでお父様の執務室へと向かう。
案の定、王城の役人からもたらされたブランディル公爵家との縁談話に、お父様は顔面蒼白で突っ立っていた。
「ああ、カレン。実は……」
「知ってます、お父様」
「え?」
「今しがた、学園でエルランド殿下とミュリエル様から直接お話をうかがいました。いきなり王城の役人が持ってきた書状を読んでも戸惑うだけだろうから、事前に経緯を説明したいと呼び出されまして」
「じゃあ、この話は本当なのか……?」
「……残念ながら」
思わず、ため息が漏れてしまう。
「いや、しかし、ブランディル公爵令息と言えば、いろいろと不名誉な噂の絶えない令息じゃないか」
「そうですよ。だから婚約を承諾してくれるのなら、その代わりにと交換条件をいくつか提示されたんです」
そうして私は、エルランド殿下たちから聞かされた事の詳細を淡々と説明する。
話し終えると、お父様はがっくりと肩を落とした。
「私が当主として不甲斐ないばかりに……」
「お父様のせいじゃないでしょう? どちらかといえば、おじい様とひいおじい様のせいだと思うんだけど」
「それはそうだが……」
言いながら、お父様は眉間に何本もの皺を寄せて私のほうに視線を向ける。
「カレンは、どう思ってるんだ?」
「え?」
「いくら公爵家とはいえ、相手はあまり評判のよろしくない令息だ。お断りしたいと言うなら、私が明日王城に行って――」
「王命なら、断るという選択肢ははじめからないに等しいのでは?」
私の言葉に、お父様の眉間の皺がどんどん深くなっていく。
それを横目に見ながら、私はあっけらかんと答えを口にした。
「私、お受けするつもりです」
「え……?」
「いずれはどこかに嫁ぐのだし、お相手が誰かなんてそんなに重要なことじゃないでしょう?」
「いや、でも……」
「婚約すればうちの借金を肩代わりしてくれるだけでなく、レイフの教育にも力を貸してくれるなんて願ったり叶ったりじゃないですか。そもそも公爵家と縁付くこと自体、うちにとっては悪い話じゃないわけですし」
「それはそうだが、しかし相手が相手では……」
「貴族の婚姻なんて、そんなものでしょう?」
小さく笑うと、お父様はますます渋い顔をする。
お父様とお母様の婚約も、家同士のつながりで決まったものだったらしい。でも二人は婚約してから着実に温かな愛を育み、そして私とレイフが生まれた。
だから四年前、お母様が亡くなったときのお父様の落胆ぶりは、ちょっと見ていられないくらいだったのだ。四年以上たった今も親族から勧められる再婚話には見向きもせず、お父様は頑なに再婚しようとしない。
執務室を出た瞬間、聞き慣れた可愛らしい声が飛んでくる。
「あねうえ!」
満面の笑みで駆け寄ってきたのは、今年六歳になる弟のレイフである。
「おかえりなさい、あねうえ」
「ただいま、レイフ。今日は何をしていたの?」
「今日はね、庭師のハンスのおてつだいをしたんだよ。それから、このまえあねうえが買ってくれた本を見ながら、字を書くれんしゅうをしてた」
「あら、レイフは勉強熱心ね」
「字が書けるようになったら、あねうえにおてがみが書けるでしょ? ぼくね、あねうえに教えたいことがいっぱいいっぱいあるんだよ」
そう言って、レイフは人懐っこい笑顔を見せる。
お母様譲りのココア色の髪にターコイズブルーの瞳をしたレイフは、二歳で最愛の母を失った。「死」というものの意味がよくわかっていなかったせいなのか、レイフはこれまで母親の不在に寂しさを訴えることはなかったし、子どもらしいわがままを言って私たちを困らせることもほとんどなかった。そんなレイフを見ていると、いつもやり切れない思いに駆られてしまう。
息を引き取る寸前、お母様は掠れた声でこう言った。
――――カレン、ごめんね。レイフとお父様をお願いね……。
やつれた頬、薄く乾いた唇、骨ばった手とひと筋の涙。お母様の最期の姿は、今も私の脳裏に焼き付いて離れない。
そう。
私には、この家を守る義務がある。
お父様を支えて没落寸前の我が家を守り抜き、レイフをしっかりと一人前の大人に育て上げる。お母様の最期の願いを、叶える義務がある。
レイフのためにもお父様のためにも、私は王家と公爵家の無茶ぶりに応える決意を固めていた。
◇・◇・◇
それから数日後。
「早速だが、ロナルドを紹介するよ」
またしてもエルランド殿下に呼び出された私は、ミュリエル様に連れられて王族専用談話室に向かう。
いよいよ、ロナルド・ブランディル公爵令息との初顔合わせである。
緊張と不安とがないまぜになり、落ち着かない心境で待つこと数十分。唐突に、ドアがガチャリと開く。
「へえ、あんたが俺の婚約者?」
約束の時間をだいぶ過ぎているというのに悪びれる様子のないロナルド様は、軽い足取りで部屋に入ってきたかと思うとどかりとソファに座った。
そして、品定めするように私の全身を眺め回す。
少し長めの銀髪にラズベリーレッドの瞳は確かに妖艶で人目を引くし、左耳に揺れる耳飾りは異常なほど艶っぽい色気を醸し出す。でも、なんというかまあ、よくもこれだけ制服を着崩せるものですね、といった装いにはちょっと驚きである。私のまわりにはいないタイプすぎて、目のやり場に困る。特に胸元の辺りとか。
とにもかくにも、一言で言うと、チャラい。
「……ルイネ伯爵家が長女、カレン・ルイネと申します」
「うわ、硬いねー。緊張してんのか?」
軽い調子でそう言って、ロナルド様は思わせぶりな目つきをする。纏う雰囲気はチャラすぎるほどチャラいのに、射るような視線が痛い。
「家の借金を肩代わりしてもらう代わりに、俺の婚約者になることを引き受けたんだって?」
「え?」
「お前もとんだ貧乏くじを引かされたもんだな」
「ロナルド」
念のためと同席していた王太子殿下の声は、予想以上に低かった。
「せっかく決まった婚約なんだ。そういう言い方はないだろう?」
「は? 俺の意見なんか無視して、勝手に決めたのは親父とお前たち王家だろ? しかも王命だなんて、相手が絶対に断れないような汚い手を使いやがって」
「ロナルド」
「こんな姑息なやり方で俺をどうこうしようなんて、甘いんだよ。悪いけど、俺は今まで通り好き勝手に生きていくつもりだから」
そう言うと、ロナルド様はすっくと立ち上がって出入り口のほうへと歩き出す。
「どこ行くんだよ?」
「先約があるんでね。これで失礼するよ」
「先約?」
「決まってるだろ?」
にやりと悪い顔でほくそ笑む、ロナルド様。
呆れたように嘆息するエルランド殿下は、小声で「……女か?」と尋ねる。私に気を遣ってくれたのだろうけど、悲しいかな、全部まる聞こえである。
「まあな。どうしても会いたいって言うからさ」
「お前ってやつは……」
エルランド殿下の盛大なため息に、ロナルド様はなぜか満足げな表情になる。
「そういうわけなんで。じゃあまたな、カレン」
ロナルド様はそう言って、ひらひらと手を振りながら颯爽と出ていってしまう。
さすがは、王国一の女たらし。なんだかんだ言って、私のことはちゃっかり呼び捨てにするのね、と冷めた頭でぼんやり思った。