16 権謀術数
「お姉様! 何なのですかあれは!」
カフェでの一件が落ち着いた頃合いを見計らい、ランヴァルド殿下からこっそり離れた私は先程目が合った少女を廊下に連れ出した。
「リーン、少し落ち着いて」
「だって! 殿下ったら! お兄様のことをあそこまで悪しざまに言うなんて!」
そう。
ランヴァルド殿下の言葉にカッとなって言い返そうとしたこの少女は、ロナルド様の妹、アイリーンである。
アイリーンは、この春学園に入学したばかり。
本当なら、入学したてのアイリーンの学園生活は私があれこれ世話を焼くつもりだった。でも急遽ランヴァルド殿下の案内役の話が舞い込んでしまったせいで、ここまでほとんど接点がなかったのだ。
実は公爵邸でのお茶会以降、私たちは思いのほか良好な関係を築いている。
それは、ロナルド様が学園を卒業してすぐ、レイフも連れて四人で公爵領を訪れたことがきっかけだった。ロナルド様の卒業祝いを兼ねての公爵領滞在だったのだけど、レイフはアイリーンにもすぐ懐き、アイリーンも私を「お姉様」と呼ぶようになった。
ちなみに、アイリーンがレイフに「私のことはリーンお姉様と呼ぶのよ?」なんて言ったこともあって、私も勝手に「リーン」と呼んでいる。リーンのほうは、まんざらでもなさそうである。
「確かに、かつてのお兄様は殿下の言うような女遊びの激しいふしだらな男でしたよ? でも今は違うじゃないですか? お姉様に出会ってからのお兄様はもうひたすらお姉様一筋だし、お姉様以外の女性なんて眼中にないってほど溺愛してるし、お姉様がいなくなったらあの人は確実に死にます」
「……言い過ぎじゃない?」
「そんなことないですよ。家ではいつも、カレンがカレンがってお姉様の話しかしませんし」
「そ、そうなの……?」
「とにかく、殿下の情報は古いんですよ。まったく、どこから仕入れてきたんだか」
まあ、そうよね。同感である。
「それに、ずいぶんもっともらしいことを言っていましたけど、要するに殿下はお姉様に横恋慕しているだけでしょう? 王族だからって愛し合う二人の仲を引き裂こうだなんて、横暴にも程がある……!」
「そこなのよね……」
言い淀む私の反応に、リーンは不満そうな顔をして眉をひそめる。
「え、ひょっとしてお姉様。ランヴァルド殿下のほうがいいとか言わないわよね……?」
「まさか。そんなわけないでしょ」
「よかったー」
「でも、さっきミュリエル様が言っていたでしょう? 私たちの婚約は王命なのだから、ランヴァルド殿下が一方的に解消してほしいと言ったところですぐにはどうにもならないと思うのよ。他国の国王の意向を無視することになるし、下手したら国際問題にもなりかねないでしょう? 本当に私と婚約したいと思うなら、むしろ国を通して正式に申し入れるとか、何らかの正式なやり取りを優先したほうが確実なはずよ」
「まあ、そうよね」
「それなのに、殿下は一切そんな手続きは踏まずに、いきなりたくさんの人がいる前で堂々と告白してきた。しかも、まるで私と殿下の婚約は決まったことみたいに自信満々だったのよ。なんだかおかしいと思わない?」
「……何か裏がありそうってこと?」
私が黙って頷くと、リーンも神妙な顔つきになる。
「私、帰ったらお父様とお兄様にこのことを話してみるわ。もしもお姉様とお兄様の婚約が解消になるとしたら、お父様たちが何も知らないはずはないもの」
リーンの言葉は、もっともである。
だとしたら――――。
「……私も公爵邸に行って、直接話をしたいのだけど」
意を決してそう言うと、リーンは一瞬驚きつつもすぐさま同意してくれる。
「じゃあ授業が終わったら、裏門のところで落ち合うっていうのはどう?」
挑むような笑みを浮かべるその顔は、どこかロナルド様を彷彿とさせて私を鼓舞してくれるのだった。
◇・◇・◇
ブランディル公爵邸に到着すると、ロナルド様はもちろんブランディル公爵までもがすでに帰宅していると聞かされる。
嫌な予感を抱えたまま公爵家の三人が待つ執務室に通された瞬間、駆け寄ってきたロナルド様がいきなり私を抱きすくめる。
「え……? ロナルド様……?」
「俺は、絶対にお前を裏切ってない……!」
「え?」
「俺にはお前だけだから! お前しか……!」
ただならぬ様子に戸惑い、私はロナルド様の顔を覗き込む。
その顔は息苦しいほど余裕がなくて、死にそうなほどに張り詰めていた。
「カレン嬢が来たということは、まさか学園にまでもう噂が広がっているのか?」
ブランディル公爵の言葉に、リーンがいち早く答える。
「噂って……?」
「ついさっき、ヴィカンデル侯爵家から書簡が届いた。侯爵家の長女リースベット嬢の妊娠が発覚し、その相手がロナルドだと主張して責任を取ってほしいと……!」
「はあ!?」
――――声が、出ない。
その衝撃は全身を貫いて、私の意識は闇に飲まれていく。一気にすべての音が消え去って、立っていられないほどの混沌が私を襲う。
ふらりとよろめくと、強い腕の力に抱き止められる。
「俺じゃない! 俺がそんなことするわけねえだろ!」
「そうよ! そんなの、何かの間違いに決まってるわ!」
妹が援護射撃をしてくれるとは思わなかったらしいロナルド様は、少しだけ表情を緩める。
でもすぐにまた険しいくらいの真剣な表情になって、私をじっと見つめた。
「俺にはお前しかいない。何があっても、お前を裏切るようなことはしないし、してない」
信じてほしいと懇願するかのような瞳に射抜かれて、私は黙って頷くことしかできない。
「ロナルド様がここまで言っているのです。私たちくらいは信じましょうよ」
公爵夫人が宥めるようにそう言うと、公爵は困惑ぎみにため息をつく。
「私だって、ロナルドの言うことを疑っているわけじゃない。今のロナルドがカレン嬢以外の女性にうつつを抜かすなど、想像もつかないからな」
「当たり前だ」
「だがヴィカンデル侯爵家からの書簡によれば、リースベット嬢の相手はロナルド以外に考えられないとはっきり書いてある。もちろん証拠もあると」
「……そんなもの、あるわけねえだろ」
忌々しそうに吐き捨てるロナルド様。
絶対に揺らがないその態度に、ほんの少しだけ呼吸がしやすくなる。ロナルド様の言うことに嘘はないのだと、信じたい気持ちになる。
「俺がリースベットとそんなことをするわけがない。そういう行為に及んだという事実がない以上、証拠なんてあるはずがない」
「なら、なぜヴィカンデル侯爵家はここまで強気な態度でいられるのだ? 証拠もなしに、婚姻を迫るだけでなく高額な慰謝料までをも要求するなど……」
「慰謝料?」
「リースベット嬢は、他国の貴族との婚約が決まりかけていたらしい。その縁談を反故にした責任も取ってもらいたいと」
「なんだよそれ……! 無茶苦茶じゃねえか!」
激昂し、声を荒げるロナルド様とは対照的に、「他国」という言葉が私の意識に静かな波紋を広げていく。そして頭の中を支配していた混沌が、まるで引き潮のようにさーっと消え去っていく。
浮上したのは、一つの可能性――――。
「ランヴァルド殿下……」
ぼそりとつぶやくと、私を抱きしめたままのロナルド様が「なんだ?」と尋ねる。
「もしかしたら、ランヴァルド殿下がかかわっているのではと……」
「……どういうことだ?」
そこで私とリーンは、今日の昼時に起こったことについて詳細に説明をし始めた。ロナルド様は、自分が「軽薄で軟派」とか「女性関係が派手」とか「女遊びの激しいふしだらな相手」とか口汚く罵られたことにはさほど頓着しなかったけど、私がランヴァルド殿下に告白されたと知るや否や世界を滅ぼしかねないような鋭い殺気を露わにした。
「あの野郎……!」
「ロナルド様、一応、相手は王族ですから」
「知るかよ! 何考えてんだあいつ……!」
「……カレン嬢は、今の話とリースベット嬢の妊娠の話につながりがあると考えているのか?」
ブランディル公爵は顎先に手をやりながら、冷静に尋ねる。
「はい。先程のランヴァルド殿下はやけに自信ありげで、まるで私たちの婚約解消はすでに決まっているかのような口ぶりでした。あれは殿下自身が私たちの婚約を解消に追い込もうとして、リースベット様の妊娠の話を聞きつけそれを利用したか、もしくは殿下のほうからこの話を持ちかけたのではと……」
「……なるほどな」
何か考え込むように一点を見つめていたブランディル公爵は、得心がいったのか大きく頷いている。
「つまりはランヴァルド殿下とヴィカンデル侯爵家とが、裏でつながっているということか。ランヴァルド殿下は留学してきてカレン嬢にひと目惚れし恋情を抱いたものの、カレン嬢にはすでに王命で結ばれた婚約者がいると聞かされた。調べてみるとその相手は女癖の悪い不誠実な男だと知り、なんとか婚約を白紙に戻そうと策を練ったのだろうな」
「その策がリースベットの妊娠だっていうのか?」
「そうだ。リースベット嬢といえば、かつてのお前が懇意にしていた相手の一人。そこで妊娠の話をでっち上げ、お前たちの関係が破綻することを目論んだ」
「あいつ……!」
「じゃあ、リースベット様は妊娠していないの?」
リーンが疑問を口にすると、公爵は悩ましげに首を横に振る。
「それはわからない。しかし、肝心なのはリースベット嬢が本当に妊娠しているかどうかではない。その疑いを抱かせて、カレン嬢の気持ちをロナルドから引き離すことが重要なのだ。女遊びの激しかったロナルドなら、あり得る話だと誰もが思うだろうからな」
「確かに……」
「それにリースベット嬢の妊娠の噂が広まれば、陛下としてもこの婚約の継続は難しいと判断しかねない。王命での婚約を取り消されれば、世論はロナルドに責任を取ることを求めるだろうし、うちとしてもその選択を受け入れざるを得ない。そうなれば確実に、ランヴァルド殿下はカレン嬢を掌中に収めることができる」
淡々と話す公爵の後ろに、派手な高笑いをするランヴァルド殿下が見えた気がした。