15 寝耳に水
「カレン、少しいいかな?」
名前を呼ばれて顔を上げると、ゆったりと微笑むランヴァルド殿下の顔がすぐ間近にあって面食らう。
「は、はい、なんでしょう?」
「図書室で借りた本を返したいんだけど」
「ああ、私が返してきましょうか?」
「いや、自分で返したいから少しつきあってくれないか?」
「……わかりました」
ランヴァルド殿下が留学してきて、すでに二週間が経った。
はじめはだいぶ緊張し、びくびくしていた私とステファン様だったけど、エルランド殿下が言う通りランヴァルド殿下は穏やかで親しみやすい方だった。
私たちの緊張をほぐそうと気安く声をかけてくれるおかげで、思ったよりも早くランヴァルド殿下に打ち解けることができたのはいいのだけど。
実は今、想定外のちょっと困ったことが起きている。
「なんか、ランヴァルド殿下ってカレン嬢との距離が近くない?」
最初に言い出したのは、ステファン様だった。
「何かあるとまずカレン嬢に声をかけるし、なんだか妙に二人きりになろうとするし……」
「そうよね。私も少し、気になっていたの」
ミュリエル様も、物憂げな顔で同調する。
「案内役が三人もいて、一般的に考えたら同性のステファン様が一番話しやすいと思うのよ。でも殿下って、常にカレンを隣に置きたがるでしょう?」
「そうですよね。僕も思ってました」
やけに真剣な表情をする二人に、私も正直に打ち明ける。
「……気のせいかなと思ってたんですけど、二人が言うならやっぱりそうですよね……」
「カレンも気づいていたの?」
「はい。留学してきたばかりでこちらの生活に慣れない殿下のフォローをするのは当たり前だと思うんですけど、それにしても私ばかりに頼み事をされるなと……」
「そうよね」
「あと、留学してきて三日目くらいにロナルド様のことをあれこれ聞かれて……」
「ロナルド様のこと?」
ミュリエル様が、途端に怪訝な顔つきになる。
「最初は、婚約していると聞いたが相手はどこの誰なのかとかいつ婚約したのかとか聞かれたんです。でもその翌々日には、『王命で無理やり結ばれた婚約なんだろう?』とか言われまして……」
「……調べたのかしら」
「なんかちょっと、邪な意図を感じますね」
そう言ってから、ステファン様は少し険しい表情でミュリエル様に尋ねる。
「僕たちのことについては、エルランド殿下からきちんと説明がなされてるはずですよね? ミュリエル様がエルランド殿下の婚約者だとか、カレン嬢にも婚約者がいるとか」
「もちろんそうよ。間違いがあってはいけないもの。ただ、カレンの婚約者が誰かまでは伝えてないと思うの。ロナルド様はランヴァルド殿下の留学に直接携わる役職じゃないし、この前学園に来たのだってカレンに会いたくて無理やりついてきただけだもの。ランヴァルド殿下の留学そのものにさほどかかわりがない以上、カレンの婚約者がロナルド様だなんてわざわざ説明はしなかったはずよ」
「ですよね。ということは、ランヴァルド殿下はカレン嬢に直接婚約者の素性を聞いたあと、どういう経緯で婚約に至ったのかをご自分で調べたということになりますよね」
「だと思うわ」
「それってやっぱり、何らかの意図を感じません?」
「ビシバシ感じるわ」
だいぶ意気投合している二人に「いやいや、何を」と言いたいところではあったけど、ここ数日はそうも言ってられない雰囲気を感じていた。
常にランヴァルド殿下の視線を感じるし、絶えず思わせぶりな微笑みを向けられているし、気がつくととても距離が近い。
それとなくやり過ごそうとしているのだけど、ミュリエル様やステファン様がいない隙を狙って、なんとか二人きりになろうとするランヴァルド殿下。そこはかとなく、友情以上の感情を向けられているような気がしてしまう。
「……これって、ロナルド様にも話したほうがいいのでしょうか?」
二人の顔色を窺いながらおずおずと尋ねると、ミュリエル様もステファン様も一気に難しい顔になる。
「言ったらどうなると思います?」
「国際問題に発展しかねないと思うわ」
「僕もそう思います」
そんなわけ、と言いかけて、思い直す。
……確かに、今のロナルド様なら何をしでかすかわからないわね……。
「ひとまず、私からエルに相談してみるわ。ランヴァルド殿下の真意もまだはっきりとはわからないのだし」
「そうですね」
なんて言っていた、翌日。
「カレンは今の婚約を解消して、僕と婚約を結ぶ気はない?」
びっくりするほど、どストレートに告白されてしまった。
しかも、ここはお昼時の学園のカフェ。目の前にはミュリエル様もステファン様もいるし、まわりの席にはたくさんの学園生たちがいる。
つまり、衆人環視のもと、堂々と告白されているのである。
「ど、どういう意味でしょう?」
驚きを隠せないミュリエル様とあからさまに驚いているステファン様を視界の端に捉えつつ、私はできるだけ平静を装って、殿下に尋ねる。
「どういう意味って、そのままの意味だよ。今の婚約は王命で無理やり結ばれたものなんだろう? 相手の公爵令息は、女性関係の派手な不誠実極まりない男だと聞く。そんなやつより、僕のほうが余程君を幸せにできると思うのだが」
殿下は自分自身に絶対の自信があるらしい。得意げな笑みを浮かべたまま、唐突に演説をし始める。
「初めて君を見たとき、その可憐で慎ましい笑顔に心を撃ち抜かれたんだ。一目惚れだと言っていい。しかも話してみたら我がガーシュ王国に詳しいだけでなく、機転が利いて聡明で、なかなかに肝が据わっている。君のような女性こそ、王族の妻に、いや僕の妻に相応しいと思ってね」
「……しかしながら殿下。ご存じの通り、私はすでに婚約しております」
「だからその婚約を解消したらどうだろうと言ってるんだよ。軟派で軽薄で女遊びの激しいふしだらな相手など、まったくもって君には相応しくない」
殿下の言葉になりふり構わず言い返しそうになって、ふと強い視線に気づく。
その視線の先を盗み見ると、見覚えのある少女と目が合った。少女は静かな怒りをその目に宿し、何か言いたそうに口を開きかける。でも私が小さく首を横に振ると、悔しそうな顔をしながらも黙って引き下がる。
「それに、君がそのふしだらな公爵令息との婚約を受け入れるなら、公爵家は没落寸前の君の生家を経済的に援助してもいいという条件を提示したそうじゃないか」
正式には公になっていない事実を勝手に暴露され、思わず狼狽える。
確かにそれは、紛れもない事実である。でもその条件も含めて婚約を受け入れることにしたのは、私自身だし。そう考えると殿下の言い方はどこか悪意を含んでいて、ブランディル公爵家を貶めようとする意図すら垣間見える。
案の定、居合わせた学園生たちがざわざわと騒ぎ出すと、ランヴァルド殿下は気を良くしたのかいやらしく口角を上げる。
「そんな身売り同然の婚約では、君は到底幸せにはなれない。でも僕なら、君を救い君の家を救い、全員を幸せにすることができる。どうだろう? 僕の想いを受け入れてくれないかな」
恍惚とした表情で私を見つめるランヴァルド殿下に、捉えどころのない不気味さを感じてしまう。
「……恐れながら、殿下」
それまで大人しく殿下の演説を聞いていたミュリエル様が、凛とした声でさらりと指摘する。
「カレンとブランディル公爵令息との婚約は、おっしゃる通り王命、国王陛下のご意志でございます。殿下のご一存でその王命を覆すとなれば、国同士の話し合いにも発展しかねないかと」
「まあ、そうだね。でも先に、僕の気持ちをきちんとカレンに伝えておきたかったんだよ。カレンならきっと、僕を選んでくれるだろうけどね」
なぜか自信満々なランヴァルド殿下の言葉に、どうしても不穏な予感が拭えなかった。