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出ていけ、と言ったのは貴方の方です

 ここは、のどかな田園地帯が広がる『イナカ』。


4つの村で構成されている『イナカ』の領民の数は、最近生まれたばかりの子供を含めて、322人。

主な産業は農業、領民の殆どがこの職業に就いている。


ここ『イナカ』を治める領主の名は、ビリー・バーン男爵。

常に領地を第一優先に考えて行動するところから、良き領主として領民たちから大変慕われていた。



「本当にビリー男爵は素晴らしい方ね」


「今年は不作で、いつもの半分も税を収められなかったのにお咎めされなかったよ」


「それどころか、新しい農機具を用意して下さった」


「この間は馬の出産で手が足りないところを、手伝いに来て下さったんだよ!」


「「「「本当に、ビリー男爵は素晴らしい方だ」」」」



領民たちは集まるごとに、ビリー男爵の素晴らしさに触れた。

その一方……。


「それにしても、後継ぎのヘンリー様ときたら……もう22歳になるというのに」


「ああ、全く駄目な方だね。この間は酒場で酔って暴れて店内を壊したそうじゃないか」


「その前は新婚だったトムの奥さんに手をだしたそうじゃないか?」


「あら、私の話ではネロの奥さんだったけど?」


そして領民たちは口を揃えて、こう言った。


「「「「本当に、ヘンリー様は駄目な方だ……」」」」




****



「ヘンリー! またお前は問題を起こしたのか!」


銀色の髪を振り乱した現当主、ビリーの声が書斎に響き渡る。


「だけど、それは奴らが領民のくせに俺のことを馬鹿にしたからですよ? 酒代をツケ払いにしてくれと頼んだら、前回のツケを払ってからにしてください。次期領主になられるお方がお金を持っていないのですか? とふざけたことを抜かしたからですよ」


「ふざけたことを抜かしているのはお前の方だ。ヘンリー! お前はもう22歳になると言うのに、一体何をしておるのだ! 私がお前の年の頃には家庭を持ち、立派な領主として領民たちの信頼を得ていたのだぞ!」


放蕩息子をビシッと指差すビリー。


「ハッ。立派な領主? こんなヘンピな、まさに田舎領主のくせに何を言ってらっしゃるのですか? 家庭を持った? それは単に母と幼馴染の腐れ縁で結婚されただけじゃないですか?」


同じく銀髪、優男のヘンリーは肩を竦める。


「黙るのだヘンリー! とにかく、いい加減に次期当主として自覚を持て! 仕事を覚えて、世帯を持つのだ! ついでに人妻ばかりに手を出すな!」


「あ〜ハイハイ。分かりましたよ……もう、行ってもいいですか? アリスと待ち合わせがあるんですよ」


「な、何……アリスだと? まさかガストンの新妻か!?」


眉間に青スジを立てて、ビリーが体を震わせる。


「ええ、よくご存知ですね? 屋根の修理を手伝ってくれと言われていたんですよ。それでは行ってきますね」


それだけ言い残すと背を向けて扉へ向かって歩き出すヘンリー。


「おい待て! 話はまだ済んでいないぞ! 第一、お前に屋根の修理など出来るはず無いだろう! ヘンリー!!」


――バタンッ!


無情に閉められる扉。

そして虚しく片手を伸ばした領主、ビリー。


「……くっ! な、何ということだ……!」


怒りでブルブル身体を震わせ、ドサリと椅子に座り込む。


すると――


「旦那様……」


書斎の本棚の一部がグルリと回転し、タキシード姿の初老の男性が現れた。彼は長年バーン家の忠実な執事として仕えている。



「聞いておったか? マイク」


「はい、旦那様。この耳でしかと」


恭しく、お辞儀をするマイク。


「ヘンリーのことをどう思う?」


「どうもこうもありませんね……末期です。正直、ヘンリー様が次期当主になれば『イナカ』は3年で滅ぶでしょう」


マイクは首を振る。


「そうか……私が間違えていた。幼い頃に母親を亡くしてしまった、あの子が不憫になり、つい甘やかして育ててしまったからな……。こうなったら、もうあの計画を実行するしか無いようだ」


「ええ。私もそう思います。これで駄目なら、もう『イナカ』はお終いです。救いようがありませんね」


「相変わらず、はっきりいい切るのだな? ……分かった。では、早速この手紙を届けてくれ。大至急だ」


ビリーは机の引き出しから一通の手紙を取り出し、執事に手渡す。


「はい、旦那様」


恭しく手紙を受け取ると、執事マイクは足早に書斎を後にした。


「ヘンリー。……悪く思うなよ。これもお前のため、親心だ」


ポツリと呟くと、ビリーは中断していた仕事を再開した。




****


――翌日


「何ですか……こんな朝から仕事をさせるなんて……フワァァァアア……」


大欠伸をしながら、ヘンリーは自分の前に置かれた山積みの書類を恨めしそうに見つめる。


「何が、こんな朝からだ。時計を見てみるがいい、もう10時を過ぎているのだぞ? 領民たちは太陽が登る前から働いているのだ。彼らを少し見習って、お前も働け。いずれはお前がここの領主になるのだぞ?」


「大丈夫ですよ。父上はまだ45歳ではありませんか、まだまだ健康で働き盛りではありませんか」


「黙って、仕事をしろ。その書類に目を通して問題なければサインをするのだ。私はこれから領地を見て回らなければならない。しっかり仕事をするのだぞ」


ビリーはそれだけ言い残すと、大股で書斎を出ようとし……足を止めた。


「いいか、ヘンリー。今日中にその書類に目を通さなければ……お前のツケは支払わん。分かったな」


「え!? そ、そんな! 父上! 幾ら何でも……」


――バタンッ!


しかし、彼がまだ話の途中にビリーは出ていってしまった。


「……な、何だよ……人がまだ話をしている最中だっていうのに……」


そして恨めしそうに書類の山に目をやる。


「ふん! サインしろ……か。いいだろう。サインぐらい……何枚だって書いてやるさ!」


ヘンリーは万年筆を握りしめると、次から次へとサインをし続けた。

……勿論、書類に目を通すことなどなく――




****



 ビリーが屋敷に戻ってきたのは17時を過ぎていた。


書斎に行ってみると、ヘンリーが最後の書類にサインをしているところだった。


「おお、ヘンリーよ。きちんと仕事をしていたようだな?」


「ええ、当然じゃないですか。何しろ、ツケ代がかかっているのですからね……はい! 終わりました!」


万年筆を置くと、ヘンリーは書類の束に重ねた。


「よくやった。ヘンリー。見直したぞ。お前はやれば出来る息子だ」


「なら、父上。ツケ代を貰えるのですね?」


「そのことなら心配するな。もう私が支払っておいた。善良な領民を待たせるわけにはいかないからな」


「本当ですか!? さすがは父上! ありがとうございます。では、今日の仕事は無事に終わったということで出掛けてきます! 食事のことならご心配なく。外で食べてきますから!」


ヘンリーは席を立つと、足早に書斎を出て行った。



――バタン


扉が閉ざされると、ビリーはポツリと呟く。


「……行ったか……マイク」


「はい、旦那様」


音もなく現れるマイク。


「ヘンリーのサインした書類を確認するのを手伝ってくれ」


「はい、かしこまりました」


マイクは先程までヘンリーのいた椅子に座ると、二人は無言で書類をペラペラとめくり始め……。


「ありました! 旦那様!」


マイクが1枚の書類を見つけ出した。


「でかしたぞ、マイク! 早速見せてくれ」


ビリーは書類を受け取り、目を通すと満足気に頷く。


「……よし、確かにサインしてあるな」


「はい、旦那様」


二人はどこか嬉しそうに見える。


「ふははははは……っ! 完璧だ! 愚かな息子め……今まで私を舐めきったことを悔やむがいいわ!」


「ええ、旦那様!」


ビリーとマイクの高笑いが書斎に響き渡る。



そして、翌日事件が起こった。




****



――翌朝


 放蕩息子のヘンリーは飲んだくれて、夜明け前に帰宅してきた。

そして太陽が真上に登る頃に激しく扉を叩く音で目が覚めた。


ドンドンドンッ!!


『ヘンリー様、起きて下さい!』


「う〜……」


初めはブランケットを被って、寝たフリをしていたが激しく扉を叩く音はやまない。


『ヘンリー様! 一大事です! 旦那様が大変なことに!』


「……え?」


ヘンリーはブランケットから顔を覗かせると、ベッドから起き上がった。


「親父がどうしたって?」


放蕩息子ヘンリーは父親のことを陰で「親父」と呼んでいる。

渋々ベッドから出ると、未だに激しく叩かれる扉へと向かった。


「うるさい! 静かにしろ!」


乱暴に扉を開けると、彼と同い年のフットマンが慌てた様子でまくし立てた。


「良かった、ヘンリー様。目覚められたのですね。それよりも大変です! 旦那様が書き置きを残して出ていかれてしまったのです! 勿論、ヘンリー様あてにも置き手紙がありました! こちらです!」


フットマンは懐から手紙を取り出すと、ヘンリーに差し出した。


「はぁ? 親父が出ていっただと? どうせ領地を回っているんじゃないか? 全く仕事熱心でつまらない男だぜ」


「そんなことを仰らずに、すぐに手紙をご覧になって下さい!」


手紙を持て余すヘンリーにフットマンは訴える。


「分かったよ。全く仕方ないな……部屋に戻ったら見るから、お前はもう下がれ」


シッシッと手で追い払う仕草に、フットマンはスゴスゴと去って行った。


「全く……朝から騒がしくてたまらん。それにしても何だ? 置き手紙って……仕方ないから読んでやるか」


ヘンリーは部屋に戻り、ドカッとソファに座ると早速手紙を開封した。



『ヘンリーよ。私はもう、働き疲れた。よって、今日限りで領主は引退する。後のことは頼んだぞ。 父より』


「……は?」


あまりにも短い手紙にヘンリーは固まってしまった。5分程、固まっていたが……ようやく頭が冴えてきた。


「いやいや。ちょっと待ってくれよ。何だよ、この短い手紙は。他に無いのか?」


小さな封筒を覗き込んでも、もう中は空っぽ。

たった2行にしかならない文章を何度も何度も読み返すヘンリー。


「……おい! ふざけるなよ!」


乱暴に立ち上がると、夜着のままだったヘンリーは急いで着替を始めた――



「父上っ!」


ノックもせずに書斎を開けると、いつもは気難しい顔で机に向かう父の姿はない。


「父上! ふざけていないで出てきて下さい!! 父上! くそっ! いないか!」


急いで書斎を飛び出すと、屋敷中を探し回ったが何処にもいない。

使用人の口を割らせようとしても、誰一人、知らぬ存ぜぬを繰り返すばかり。



――1時間後


「はぁ……はぁ……クソ親父め……」


肩で息を切らせてヘンリーは自室に戻り、扉を開けて悲鳴を上げた。


「うわぁああああ!! マ、マイク!! 驚かせるな! いつからそこにいたんだよ!」


「そうですね。かれこれ1時間近くになるでしょうか? お部屋の扉が開けっ放しでしたので中で待たせて頂いておりました」


窓を背にして立っていたマイクは淡々と返事をする。


「……何だって……いや! それよりマイク! お前なら父の居所を知っているだろう? 教えろ! 何処にいるんだ!」


「ヘンリー様。生憎私も存じ上げません。書き置きの内容通り、何処かへ出ていかれてしまったのでしょう」


「出ていかれてしまったのでしょうじゃない! お前は心配じゃないのか!?」


「ええ、心配です」


「そうか、なら俺と一緒に父の行方を……」


「領地の仕事が滞ってしまうのが一番心配です」


「……は?」


「さぁ、ヘンリー様。もう旦那様はいないのです。なので旦那様はもうこの世からいなくなってしまったと仮定して、今日からヘンリー様が『イナカ』の領主を務めなければなりません!」


「いやだ!! 何で俺が……!」


「問答無用です! さぁ! 仕事をするために書斎へ行って下さい。……いえ、行くのです。今すぐ!」


「わ、分かったよ! 行けばいいんだろう! 行けば!」


マイクの迫力に押されたヘンリーはヤケクソになって返事をすると、嫌々書斎へ向かった。




****



 ビリーが消えてから3日が経過していた。


「……くそぉっ! やってもやっても仕事が終わらない……!」


ヘンリーは目の下にクマを作りながら、山積みにされた書類を前に頭を抱えていた。

書類の内容は難しすぎて理解するのに何度も読み返さなければならないし、中には自分の考えも記入しなければならない書類がある。


「親父の奴……たった1人でこれらの仕事を片付けていたのか……?」


ここで仕事をしていたビリーの姿を思い出し、ため息を付いた。


山積みされた書類を前に、最初にヘンリーがしたことはマイクに懇願することだった。

1人では領地経営の仕事など出来ないので、手伝ってくれと懇願してもマイクは首を縦には振らなかった。


「自分は一介の執事に過ぎず、旦那さまは1人で仕事をされていたので私には内容が全く分からないのでお役に立てません」


マイクに強く断られ、ヘンリーは仕方なく引き下がったのだった。


「まずい……この書類の締切は……げ! 明日じゃないか! 親父の奴、まさか仕事をためていたのか!?」


絶望に駆られ、ヘンリーが髪の毛をかきむしっていると書斎にノックの音が響き渡る。


――コンコン


「誰だ! この忙しい時に!」


怒鳴りつけると、遠慮がちに扉が開かれてフットマンが現れた。


「……一体、何だよ? 見ての通り、俺は忙しいんだよ!」


頬杖をつきながらフットマンを睨みつけると、彼は怯えた様子で口を開いた。


「あの……ヘンリー様。今日は領民たちの陳情を聞く日になっております。もう会議室で……皆さん、その……お待ちになっております」


「はぁ!? ふざけるなよ! そんな暇が今の俺にあると思ってるのか! 帰ってもらえよ!」


机をバンバン叩きながら文句を言われ、すっかりフットマンは青くなっている。


そのとき。


「いいえ、なりません。ヘンリー様」


突如、フットマンの背後からマイクが音もなく姿を現す。


「うわ! 驚いた! 突然現れるなよ!」


マイクはヘンリーの言葉を無視し、書斎に入ってくると腕を後ろに組んだ。


「良いですか、ヘンリー様。本日は毎月定期的に行われている、領民代表者達の陳情を聞く会議なのです。決して領民たちを蔑ろにしてはなりません。領民あっての『イナカ』なのです!」


「わ、分かった! 会議でも何でも出ればいいんだろう!」


再びマイクの迫力に押され、ヘンリーはイヤイヤ会議室へと向かった――



****



 会議室に集められた領民たちは全員で5人だった。


「あの〜……領主様はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」


中央の席に座っていた老人が恐る恐るヘンリーに尋ねてきた。


「あぁ、父か。父なら蒸発……」


「少し休暇を取られるとのことで、旅行に行かれました」


ヘンリーの隣に立っていたマイクが遮るように返事をした。


「はぁ! 一体何を言って……」


文句を言おうとするヘンリーにマイクは素早く耳打ちする。


「良いですか? 領民たちには旦那様が行方不明ということは話してはなりません。知られれば、たちまちパニックになってしまいます。収拾がつかなくなるでしょう」


「何? その話は本当か? よし、なら黙っていよう」


小声で会話をやり取りする2人の話は領民たちにまでは届かない。


「ゴホン! そう、執事の言うとおりだ。父は休暇で旅行中だ。なので、今はこの俺が領主代理だ。さぁお前たちの相談は何だ? 言ってみろ」


上から目線で命令するヘンリー。


「…おい、どうする? 今ここで言うのか?」


「だが、相手はヘンリー様だぞ……解決出来るのか?」


「とても陳情を聞いてくれそうにはないな……」


「いや、だが我らは領民たちの代表だ」


「そうだ、皆の陳情を伝えなければならない立場にあるんだぞ?」


領民たちはコソコソと話し合いをし……1人の男が手を上げた。


「では、まず私から陳情を申し上げます……」



そして、2時間に渡る領民たちの『陳情の会』が始まった。




****



――13時


「つ、疲れた……」


ようやく領民たちの陳情会議が終了し、ヘンリーは書斎へ戻ってきた。


「ヘンリー様。疲れたからと言って、呆けている暇はありません。すぐに領民たちの期待に添える返事を書いて下さい」


マイクは先ほど領民たちから預かった資料をヘンリーの前に置く。


「おい! 少し位休ませてくれ! 昨夜は5時間しか眠ってないんだよ!」


「5時間も眠れば上等です。よいですか? 旦那様の平均睡眠時間は3時間、お食事時間は20分でした」


「何? そうだったのか?」


これにはさすがのヘンリーも驚く。


「ええ、さようでございます。ですが、何故旦那様が身を粉にして働いていたか、お分かりになりますか? いえ、きっとヘンリー様には分からないでしょうね? それはヘンリー様がお仕事を少しも手伝わなかったからですよ。 だから旦那様は嫌気が差して蒸発してしまったのではありませんか?」


一気にまくしたてるように責め立てるマイク。


「わ、分かった! 俺が悪かったよ! 休まず仕事すればいいんだろう?」


ヘンリーは子供の頃からマイクの世話になっていたので、どうしても頭が上がらなかったのだ。


「……それにしても何だ? こんなのが陳情なのか? 牛の乳の出が悪くなったので、質の良い餌を配給して欲しい? 農機具が壊れたから支給してくれ……? おまけにこれは何だ? 教会のオルガンが壊れたから新しいのを買ってくれだと!? こんなのは俺には関係ない話だろう!?」


「何を仰っているのです。領民全ての望みを聞いて、できる限り解決する。それが良き、領主なのです。いい加減な領主のもとでは、領民たちが逃げ出します。逃げれば働き手がいなくなり、税を収めてくれない。そして領地の衰退へと移行していくのですよ。大体、私だって手伝っているのですから文句を言わないで下さい」


「分かったよ! 頼むから一気にまくしたてないでくれ!」


ヘンリーが頭を抱えたそのとき。


「あ、あの……ヘンリー様、女性のお客様がお見えになっておりますが……」


開け放たれた扉からフットマンが声をかけてきた。


「何? 女性客だと? 誰だ?」


女性と聞いて、顔を上げるヘンリー。


「はい、ジャンヌ・ダールという女性です。重要な書類を預かっているとのことでヘンリー様との面会を希望されております。もう応接室にお招きしているのですが……」


「ジャンヌ・ダール……? 聞いたことのない名前だなぁ……若いのか?」


「ええ。黒髪の女性です。まだ若そうです」


「何? 黒髪の女? そんな知り合いはいないが……美人か?」


「ヘンリー様。女性の外見なのど、どうでも宜しいです。重要書類を持ってきているのであれば、絶対に会わなければなりません。さぁ! 早く行きましょう!」


「分かったよ……ったく、気乗りしないなぁ……大体」


マイクに急かされ渋々席を立つと、ヘンリーは応接室へ向かった――



「おい、あれが面会に来た女性か?」


応接室の扉の隙間から女性を覗き込むと、ヘンリーはフットマンに尋ねた。


「ええ。さようでございますが?」


「冗談じゃない、黒髪の女ってだけで論外なのにメガネまでしてるじゃないか。おまけに髪はひっつめだし、着ている服も茶色で地味すぎる。仕事が忙しいと伝えて帰ってもらえ」


「ヒィ! そ、そんな無茶な……」


「無茶でも何でもいい! 早くそう伝えてこい」


そのとき。


背後から近づいていたマイクが扉を大きく開け放しながら、ヘンリーの背中を強引に押して中へ入れた。


「お待たせ致しました。現当主、ヘンリー様をお連れ致しました」


「お、おい!」


無理やり応接室の中へ入れられたヘンリーは恨めしい目を一瞬マイクに向けると、すぐに作り笑いを浮かべて女性に挨拶した。


「お待たせして申し訳ございません。当主代理のヘンリーです。生憎、当主の父は不在ですので、代わりに用件を伺いましょう」


すると、女性は立ち上がり挨拶を返した。


「はじめまして。私はジャンヌ・ダールと申します。私がお会いしたかったのはヘンリー様ですので問題ありませんわ」


「え? 父ではなく、私にですか?」


「ええ、そうです。まずは座ってお話しませんか?」


「は、はぁ……」


促され、ヘンリーはソファに座るとジャンヌは笑顔で語りだした。


「ヘンリー様。この度は私と婚姻して頂き、ありがとうございます。誠心誠意、尽くしますので何卒よろしくお願いいたします」



「え……ええっ!?」


ヘンリーが驚いたのは、言うまでもなかった。




****



「ちょ、ちょっと婚姻って……何を言っているのかさっぱり分かりません。いつ、俺があなたと婚姻したっていうんです?」


早速ボロが出たヘンリーは「私」から「俺」に変わっている。


「ええ、役所に婚姻届を提出して受理されましたから。ヘンリー様に確認していただくために、受理された婚姻届をお借りしてきています」


ジャンヌは持参してきたカバンから封筒を取り出し、中身を引き抜くとヘンリーの前においた。


「こちらになります」


「見せて下さい!」


ヘンリーはまるで書類をひったくるように取ると、じっと眺め……ブルブル体を震わせた。


「な、な、何だ……これは……?」


「ええ、ですから婚姻届けです」


「そんなことは聞いていません。こんなのは嘘だ、デタラメだ。勝手に書類をでっち上げないで頂けますか!」


バシンと婚姻届をテーブルに叩きつけるヘンリー。


「嘘でもデタラメでもでっち上げでもありません。この下のサインはヘンリー様のですよね?」


チョンチョンとジャンヌはサインに触れる。


「うぐっ! こ、これは……」


「はい、紛れもなくヘンリー様のサインで間違いありませんね」


背後から書類を覗き込んでマイクは頷く。


「い、一体いつの間に……」


ヘンリーは震えながら記憶を呼び起こし……ハッと気付いた。


「そ、そうか! 親父が失踪する数日前、大量の書類を押し付けてきたが……まさかその中にこの書類が紛れ込んでいたのか!? マイク! お前なら知っているだろう!?」


マイクを怒鳴りつけるヘンリー。


「さぁ? 私は何のことやらさっぱり分かりません。ですが、旦那さまは仰ったはずです。書類に目を通し、サインするようにと。ヘンリー様、勿論そのようにされていますよね?」


「も、勿論だ……とも……」


ヘンリーは青ざめながら返事をする。


「ならば、私との婚姻を了承したということで宜しいですわね。では早速私の部屋を案内して頂けますか?」


立ち上がるジャンヌを見てヘンリーは慌てた。


「はぁ!? ちょ、ちょっと待ってくれ! ここで暮らすのか!? そんな話は聞いていなぞ! 大体……そう、部屋だって用意していない!」


「……先程からあなたは何を仰っているのですか?」


ジャンヌが眼鏡の奥から睨みつけてきた。


「な、何をって……?」


「わたしたちは結婚したのです。一緒に暮らすのは当然でしょう? それに手紙をだしておいたはずです。近い内にここへ嫁いでくるので部屋の用意をお願いしますと」


「手紙だって!? そんなものは……」


「ええ、領主様あてに手紙が何通も届いています。書斎の机の上に置かせていただいておりますが、残念ながらヘンリー様は1通も開封されておりませんが」


マイクが返答する。


「マイク! 手紙が来ていたなら口頭で言え! ただ置かれただけでは分からないだろう!?」


「いいえ、私は何度も何度も『ヘンリー様、お手紙が届いておりますので、目を通して下さい』と散々申し上げてきました。その度に『ああ、分かった』と返事をされていたではありませんか」


「そ、それは……」


マイクの言葉にヘンリーは思い返してみる。確かにそんな記憶があった気がしてきた。


「だ、だが、それは仕事が忙しくて……つい、うっかり返事をだな……」


そのとき。


「いい加減にして下さい!」


ピシャリとジャンヌが言い放ち、ヘンリーの肩がビクリと跳ねる。


「この際、手紙がどうのという話はもう結構です。重要なのは私が嫁いできたこと、そして自分の部屋を所望していることです。それで私の部屋はあるのですか? 無いのですか?」


「無い」

「あります」


マイクとヘンリーの声が同時に重なる。


「まぁ、お部屋はあるのですね? なら安心です」


ジャンヌが笑顔になった。


「はぁ!? 俺は今、無いと言ったんだぞ?」


「さ、若奥様。お部屋をご案内いたします。お荷物は私にお任せ下さい」


マイクがジャンヌの荷物を持つ。


「まぁ、ご親切にありがとうございます」


「おい! 2人だけで勝手に話を進めるな!」


部屋を出ていこうとする2人にヘンリーが抗議した。すると……。


「旦那様。お仕事がたまっていらっしゃるようですね? 私のことならお構いなく、仕事に戻って下さい。後ほどまた書斎にご挨拶に伺いますので。ではマイクさん。案内して頂けますか?」


「ジャンヌ様。もう私の名前を覚えてくださったのですね? では参りましょう」


「ええ」


「お、おい! 俺の話を聞け!」


ヘンリーは必死で声をかけるも、2人は振り返ることもなく部屋を出ていってしまった。


呆然とするヘンリーただ1人残して……。




****



「くそっ! 一体何だって言うんだよ……」


ヘンリーはイライラしながら書斎で仕事をしていたが、先程のことが思い出されて仕事にならなかった。


「あーっ! もうやってられるか!」


ヘンリーは窓際に置かれたラジオをつけると、音量を上げた。

ラジオからは彼の好きな音楽が流れている。

書類を放り投げ、ソファにドサリと寝転がった時。


「失礼いたします。旦那様。入りますね」


「はぁ!?」


ガバッとソファから起き上がると同時に、ジャンヌが部屋に入ってきた。


「おい! ノックもせずに勝手に部屋に入ってくるな!」


ヘンリーは押しかけ妻に遠慮するのをやめた。


「まぁ……随分と仕事がたまっているようですわね……それなのに、こんなところで寝そべって旦那様は一体何をされているのでしょう?」


ソファに座るヘンリーをジロリと睨みつけるジャンヌ。


「う、うるさい! 今少し休憩をしていただけだ! そのうちやろうと思っていたところだ。第一、ノックもせずに勝手に部屋に入ってくるなんて失礼だろう!?」


「いいえ、私は何度もノックいたしました。ですが、お返事が無いので部屋に入らせていただいたしだいです」


ジャンヌはツカツカと窓に近づいていく。


「お、おい? 何するんだ?」


しかし、ジャンヌはヘンリーの問いかけに答えずに無言でラジオのスイッチを切った。


プツッ


「これで静かになりましたわね?」


笑みを浮かべてジャンヌはヘンリーを見下ろす。


「勝手にラジオを切るなよ! 人がせっかく聞いていたのに!」


「こんな大音量でラジオを聞かれては仕事も身に入りませんし、ノックの音も聞こえませんよね? では休憩終了です。すぐに仕事に取り掛かって下さい」


「何で、お前に指図されないといけないんだよ!」


ついにヘンリーはジャンヌをお前呼ばわりした。しかし、彼女は一向に気にする気配を見せない。


「さ、時間は待ってくれないのですよ? サボっている間も仕事はたまっていくものです。私もお手伝いしますので仕事を開始しましょう」


「何? 仕事を手伝ってくれるのか?」


ヘンリーの態度が少し軟化する。


「ええ、当然です。私は妻ですよ? 領主の仕事を手伝うのは妻として当然の務めですから」


「そ、そうか? なら仕事を始めるか。だが、女の君に仕事ができるのか?」


何処か見下す態度をとるヘンリー。


「ええ。お任せ下さい。これでも私は短大を首席で卒業しておりますので」


「な、何だって? 短大を卒業しているのか?」


「ええ。私の身上書も手紙で送ってありますのに……本当に旦那様は何一つ目をとおされていなかったのですね」


クイッと眼鏡をあげるジャンヌ。


「う、うるさい。ならその才女ぶりを見せてもらおうじゃないか?」


「ええ。お任せ下さい」


ジャンヌは口元に笑みを浮かべた。




「いえ、こちらの書類はここが要点なのです。これは分類が違います。以前の記録は、こちらにファイリングされているではありませんか」


ジャンヌの自信は本物だった。

彼女は『イナカ』の領地経営の資料を見るのも初めてなのに、テキパキと仕事をこなしていく。

とてもではないが、ヘンリーは彼女の足元にも及ばなかった。



そして17時を迎えた頃――


「旦那様。お疲れ様でした、本日分の仕事は全て終了致しました」


「あ、ああ。そうだな」


しかし、ヘンリーはジャンヌの仕事の補佐をしただけに過ぎない。全ての仕事は彼女が片付けたのだ。


「しかし、君は女のくせになかなかやるな。少しは見直したぞ?」


自分のことを棚に上げて、偉ぶるヘンリー。


「ええ、これでも短大では経営学を学んでおりましたので。本当は大学まで進学したかったのですが、両親が……」


「あ〜別に、そんな話はしなくていい。俺は君に興味なんか一つもないんでね」


ブンブン手を振ってジャンヌの話を遮る。


「……そうですか。それではお話の続きは夕食の席で……」


「それも却下だな。折角仕事が片付いたんだ。久しぶりに酒でも飲みに行くつもりだ」


席を立つとヘンリーは鼻歌を歌いながら、上着を羽織った。


「でしたら、私も御一緒させて下さい」


スクッと立ち上がるジャンヌにヘンリーはギョッとなった。


「何だって!? じょ、冗談じゃない! 何で女連れで酒場に行かなきゃならないんだよ!」


「女ではありません。貴方の妻です、旦那様」


「妻とか、旦那様って言うんじゃない! 俺はお前なんか妻に認めていないんだからな? いいか、絶対についてくるなよ!」


ヘンリーはそれだけ言い残すと、逃げるように書斎を飛び出して行った。


その後姿をじっと見つめるジャンヌ。


「……これも記録しておいたほうがいいわね……」


誰もいなくなった部屋で、ジャンヌはポツリと呟くのだった――




****



――19時


執事マイクがダイニングルームに現れ、目を見開いた。


「お、奥様! これはどういうことでしょうか!?」


「あら、マイクさん。どうなさったのですか?」


ジャンヌが1人、食事をしながら首を傾げる。


「どうなさったも何も……給仕の者から話を聞いて駆けつけてきたのですよ。奥様がお1人でダイニングルームで夕食を召し上がっておられると。一体、ヘンリー様はどちらに行かれたのですか?」


「あぁ……彼のことですか」


ジャンヌはナフキンで口元を拭くと、答えた。


「折角仕事が片付いたんだ。久しぶりに酒でも飲みに行くつもりだと言って、出ていってしまいました」


「は? 何ですって?」


「私も御一緒させて下さいと申し上げたのですが、冗談じゃない、何で女連れで酒場に行かなきゃならないんだよと言い放って出て行かれましたよ」


「え……? そ、そのようなことがあったのですか……?」


「はい、そうです。そこで仕方なく1人で食事を頂いていたところです。大変美味しい夕食でした。ありがとうございます」


背筋を正したジャンヌはニコリと笑みを浮かべた。


「これは大変申し訳ございませんでした……わざわざ、ここ『イナカ』までお1人で嫁いで来られたばかりだと言うのに。しかもその日のうちにお仕事まで手伝って頂いておきながら、ジャンヌ様を蔑ろにするとは……」


マイクは肩を震わせる。


「落ち着いて下さい、マイクさん」


「いいえ! 落ち着いてなどいられません! ヘンリー様がお酒を飲んで戻られましたら私の方から注意させていただきますので」


「いいえ。私なら大丈夫ですわ。少しも気にしておりませんので。誰だっていきなり押しかけ妻が現れれば拒絶したくなりますから」


「ですが……」


なおも申し訳無さそうな様子を見せるマイクにジャンヌは笑顔を向けた。


「久しぶりに仕事が片付いて、心置きなくお酒を飲みに行きたかったのでしょう。だから広い心で旦那様を待つことにいたします。では、私は準備がありますのでお部屋に戻らせていただきますね」


ジャンヌが立ち上がり、ヘンリーは首を傾げた。


「あの……? 準備とは……?」


「ええ、入浴を済ませて身綺麗にしておくのです。何しろ今夜は新婚初夜ですから」


「あ……!」


マイクは口元を押さえる。


「では旦那様がお戻りになられましたら、私が寝室で待っていることを伝えておいていただけますか?」


「ええ、もちろんでございます! では入浴の準備を手伝うようにメイドたちに申し伝えておきましょう」


「いいえ、それには及びません。確認したところ、このお屋敷にはボイラーが完備しておりましたね? コックをひねれば温かいシャワーが出てくるなんて驚きましたわ。ビリー男爵は本当に素晴らしい方ですわね」


ニコニコ笑みを浮かべるジャンヌ。


「お褒めに預かり、ありがとうございます。今の話を旦那様が耳にすれば、さぞかしお喜びになられたことでしょう」


「では、旦那様が戻られましたら伝えておいてくださいね?」


「はい、承知致しました」


マイクの返事を聞くと、ジャンヌは満足げに頷いて自分の部屋へと戻っていった。


その後姿を見守りながらマイクは呟く。


「いやはや……まさかジャンヌ様の口から初夜という言葉が出てくるとは……。旦那様はとんでもないお方をヘンリー様の奥様として見つけてこられたようだ。流石ですな……おっと、こうしてはいられない。すぐに報告書をあげなければ」


慌てたようにマイクもダイニングルームを後にした。



そして、この日。

マイクは寝ずの番をしながらヘンリーの帰りを待ち続けた。


しかし……ヘンリーは屋敷に戻ってくることは無かった。




****



――翌朝の午前5時


「気持ちの良い朝だわ……」


ジャンヌはダブルベッドの上で目覚めた。結局ヘンリーは帰宅することなく、新妻であるジャンヌは1人の夜を過ごしたのだった。


「ふわぁあ〜……良く眠れたわ。きっとベッドが素晴らしかったからね。でも贅沢品だわ。これはきっと旦那様の趣味なのかもしれないわね。さて、仕事が待っているから起きなくちゃ」


働き者ジャンヌはベッドから起きると、手早く着替を始めた――



****


「皆さん、おはようございます」


厨房にジャンヌが現れ、働いていた5人の料理人たちはギョッとした。


「あ、あの……どちら様でしょうか……?」


大柄な男がジャンヌに声をかけた。


「私は昨日からヘンリー様の妻となったジャンヌと言います。皆様の働きぶりを見学するために厨房へ足を運んだ次第です」


「え! そうだったのですか? あまりにも地味なお召し物でしたので、気づきませんでした。大変申し訳ございません!」


男性は白帽子を脱ぐと、謝罪する。


「いいえ、気付かないのは当然です。それで、ここの代表の方はどなたですか?」


「はい、私ですけど」


「お名前を教えてくださいますか?」


「コックと申します」


「コックさんですね? これからよろしくお願いします。では、早速ですが食材を見せて頂けますか?」


ジャンヌは笑顔を見せた――



****


「では、皆さん。お仕事頑張ってくださいね」


「「「「「はい、奥様」」」」」


ジャンヌが厨房から出ていくと、とたんに騒然となる料理人達。


「いや〜それにしても若奥様には驚いたよ」


「そうだな、食材をチェックしてこれからは旬の野菜を取り入れて仕入れ価格を押さえるように……なんて言うとは」


「それだけじゃない。もっと農家の人たちを助けてあげるように、領地だけで生産している畜産物を料理に使用するようにだってよ」


「見てくれよ、この価格表。今一番お手頃な食材のリストだぜ」


「本当に昨日嫁いてできたばかりなのか?」


そして、料理人たちは口を揃えた。


「「「「「何て素晴らしい若奥様だろう」」」」」と――



****


 その後も屋敷のいたるところにジャンヌは顔出しをし、使用人たちの働き方改革を提案していった。



「洗濯業務を領民たちに委託するなんて斬新な発想ね」


「仕事がない人々に職を与えて給料を支払うなんて素晴らしい考えだ」


「掃除の仕事もそうだよな? 今までは人手不足で手が回らなかったものな」


「掃除もしなくてすむなんて負担が減って嬉しいわ」


そして使用人たちは口々に声を揃えて言う。


「「「「「若奥様は最高に素晴らしい方だ」」」」」


このように、瞬く間にジャンヌは使用人たちの心を鷲掴みにしてしまったのだった。



****


――午前7時半


ジャンヌは明るい日差しが差し込むダイニングルームで食後のお茶を楽しんでいた。


「美味しい朝食だったわ。でも、少し贅沢が過ぎるわね。後で食事内容を見直すプランを立てて厨房に持っていったほうが良さそうね。それよりも今飲んでいるお茶は輸入物かしら……?」


その時。


「ジャンヌ様!」


慌てた様子で執事長マイクが駆け込んできた。


「あら、おはようございます。マイクさん」


「はい、おはようございます。ジャンヌ様、申し訳ございません。実は私、ヘンリー様が昨夜は戻られなかったので今まで領地に捜しに行っていたものですからご挨拶が遅れてしまいました」


マイクは乱れた髪を手で整えた。


「まぁ、そうだったのですね? お手数をかけてしまい、申し訳ございませんでした」


「い、いえ! 謝罪するべきはむしろ私の方です」


恐縮するマイク。


「それで、夫は見つかりましたか?」


「い、いえ……そ、それが……」


胸ポケットからハンカチを取り出すと額の汗を拭うマイク。


「その様子では、つまり夫は見つからなかったということでしょうか?」


「はい……酒場で、昨夜女性とお酒を飲んでいた姿が最後の目撃情報でして……どうやら、その後は……」


「ええ。みなまで言わなくとも分かります。つまり初夜を迎えるはずの新妻を放ったらかして、何処の誰とも分からぬ女性と何処かへシケ込んだということですね?」


ジャンヌはにっこり笑みを浮かべる。


「ゴホッ!! シ、シケこむ……とは……。は、はい。言い方を変えれば、そういうことになりますが……本当に申し訳ございません」


あまりの言葉にむせながら謝罪するマイク。


「大丈夫です、私は全く気にしておりませんので。これもモテる夫を持つ妻の宿命だと甘んじて受け入れるつもりです。ですが……このこともきちんと記録に残させておきますけどね?」


「え? 記録……ですか?」


首を傾げるマイク。


「ええ。記録です」


そしてジャンヌは再び紅茶を飲み……口元に小さな笑みを浮かべるのだった。



****


 この日、ヘンリーが屋敷に戻ってきたのは12時をとうに過ぎた頃だった。


ガラガラと走る辻馬車に揺られながら、うたた寝をしていると突然扉が開かれて声をかけられた。


「ヘンリー様。屋敷に到着しましたよ」


「んあ? 着いたのか?」


半分寝ぼけながら自分を起こした御者を見つめる。


「ええ。到着しました。それで、お代の方は……」


恐る恐る男性御者はヘンリーに尋ねる。


「ああ、代金か? ツケ払いにしておいてくれ」


ヘンリーは馬車を降りながら返事をした。


「ええ!? そ、そんな! 勘弁してくださいよ、ツケ払いなんて! もうどのくらいツケがたまっているか知っていますか!? ヘンリー様は先月からずっと馬車代を滞納されているんですよ!?」


御者がヘンリーの足にしがみつく。


「うわ! な、何だよ! しがみつくなって! 離せ!」


「いいえ! 離しません! こうなったら本日分だけでも支払っていただかない限り、絶対にこの足を離しませんから!」


「何だって言うんだよ! 来月にまとめて払ってやる! いいから離せ!」


「そんな言葉信用出来ますか!」


払え、払わないと押し問答を繰り返していたとき。


「お帰りなさいませ、旦那様。随分と遅い御帰宅でいらっしゃいましたね」


凛とした声が2人の背後で聞こえた。


「何だよ! お前、まだいたのかよ! とっくに諦めて実家に帰ったかと思っていたのに!」


うんざりした様子でヘンリーが喚く。


「いいえ、帰るはずありません。私は貴方の妻ですから」


「はぁ!? だから、俺はお前を妻になんて……」


すると、ヘンリーの足にしがみついていた御者がその腕を離してジャンヌに訴えてきた。


「ヘンリー様の奥様でいらっしゃいますか!?」


「ええ、そうです」


「違うと言ってるだろう!?」


「一体夫が何をやらかしたのですか?」


喚くヘンリーに耳も貸さずにジャンヌは御者に問いかける。


「だから夫じゃ……」


「少し黙っていて頂けますか!?」


ピシャリと言ってのけるジャンヌに、さすがのヘンリーも口を閉ざす。その様子を見て満足気にジャンヌは頷くと、再び御者に問いかけた。


「さ、何があったのか話してみて下さい」


「じ、実はヘンリー様がぁ……」


御者は涙ながらに訴えた。

もう先月から何度も辻馬車を出させられたにも関わらず、ずっと滞納されていると。


「うっうっ……そのせいで、まともな食材を買えずに幼い子どもたちと、年老いた母がいつもお腹をすかせているんです……うっうっ……」


「おい! お前の家には幼い子供なんていないだろう!? 妻と2人暮らしじゃないか!」


「黙っていてくださいと申し上げたはずです!」


再びピシャリと言われて、ヘンリーは「うっ」と呻く。


「お気の毒に……家族構成がどうであれ、夫が馬車代を滞納しているのは事実。訴えの書状で確認しておりますよ? さ、ここに今までの馬車代3万8千フロンあります。収めて下さい」


ジャンヌは懐から財布を取り出すと、中の紙幣3万8千フロンを差し出した。


「ありがとうございます! 奥様!」


大喜びで受け取る御者に、青ざめるヘンリー。


「あ! そ、それは俺のへそくりじゃないか! 返せ!」


「いいえ、返しません! もうこれは馬車代として奥様から頂いたものですから! それでは失礼します!」


御者は受け取った紙幣を無造作にポケットに突っ込むと、素早く御者台に乗り込んだ。


「またのご利用をお待ちしております! はいよーッ!」


そして手綱を握ると、ものすごい速さで馬を走らせ、あっという間に走り去っていった。


「こらーっ!! 返せ! 泥棒!!」


悔しそうに叫ぶヘンリーにジャンヌは言い切った。


「いいえ、ツケを踏み倒そうとする旦那様のほうが余程泥棒です。こそ泥以下ですね」


「こ、こそ泥だと……お前、一体誰に向かってそんな口を叩くんだよ! 俺はここの次期領主になるんだぞ! 少しは口を慎め!!」


ヘンリーが怒鳴ったその時。


「口を慎むのはヘンリー様の方です!!」


大きな声が響き渡り、ヘンリーは驚いて振り向いた。

すると屋敷の前に、執事長マイクを筆頭に使用人たちが全員集合している。


「な、何だ! お前たちは……一体誰の味方なんだよ!」


ヘンリーは使用人たちを順番に指さしていく。


『奥様です!!』


「な、何だって!?」


全員一致の返答にグラリと揺らめくヘンリー。


「これで分かりましたか、旦那様? 誰が正義なのか?」


ジャンヌが笑顔で声をかける。


「う、うるさい。笑うな! 気色悪い!」


「気色悪い……これも記録に残しておいたほうが良さそうね」


眼鏡の奥から冷たい瞳で呟くジャンヌ。


「何だ? 今、何か言ったかよ?」


「いいえ、別に何も。では話も済んだことですし、仕事をしに書斎に参りますよ」


「はぁ!? 俺は今から寝るつもりなんだが!?」


すると、執事長マイクが進み出てきた。


「ヘンリー様。奥様の言うことを聞かなければ……」


「き、聞かなければ何だよ?」


「ヘンリー様のお世話をボイコットさせて頂きます!!」


「はぁ!? じょ、冗談だろう!?」


「いいえ。こんな話、冗談で出来るはずありません。さぁ、仕事に戻りますか? それとも……」


ジリジリ迫ってくるマイクに、ついにヘンリーは観念した。


「分かった! 仕事をすればいいんだろう! すれば!」


「分かれば結構です。では仕事に戻りましょう? 旦那様」


ジャンヌがヘンリーの腕をガシッと掴むと、再び笑みを浮かべた。




****



 その日の夕食の席――


「ハァ〜……疲れた……」


ヘンリーはため息をつきながら、フォークに刺した肉を口に運ぶ。彼の眼前にはすまし顔のジャンヌがフォークとナイフで肉を切り分けていた。


「全く、シケた女だ。笑顔もないし、可愛げもない。おまけにメガネで黒髪ひっつめ女なんて最悪だ」


「旦那様、全て聞こえておりますよ?」


ジャンヌは無表情のままナイフを皿の上に置いた。


「ああ、そうかい。聞こえるように言ってるんだから当然だ。大体俺は昨夜は一睡も寝てないんだよ。だから家に帰ったら昼寝をしようかと思っていたのに、仕事をさせやがって」


ヘンリーはワインの入ったグラスを煽るように飲み干した。


「そうですか。昨夜はそれほどお楽しみの夜だったようですね? ブロンド美女との一夜は楽しめましたか?」


「ゴフッ!」


ジャンヌの言葉に、危うくヘンリーはワインを吹き出しそうになった。


「お、お、お前……な、何故そのことを知っているんだ!?」


「知られていないと考えるほうがどうかと思いますが? 『イナカ』は全住民322人の小さな領地。経営されている酒場は2軒のみ。領民全員が顔見知りの状態で、知られるはず無いと考えている方がおかしいです」


「だ、だから何だって言うんだ!? 俺はお前なんか妻だと認めていない! 何処の女と遊ぼうが自由だろう!?」


「……これは驚きました。開き直りましたね……婚姻届にサインしたのは旦那様です。私を妻だと認めているようなものではありませんか?」


大げさに肩を竦めるジャンヌにヘンリーの苛立ちは増す。


「違う! あれは罠だ、策略だ! 親父の陰謀に巻き込まれたんだよ!」


そしてガタンと乱暴に席を立った。


「旦那様? どちらへ行かれるのですか? まだ食事は終わっておりませんが?」


「お前の顔なんか見てたら食欲だって失せるわ! 俺はもう休ませて貰う!」


大股でダイニングルームを出ていこうとする。


「そうですか、ではお休みになられたら私の寝室へお越し下さい。お待ちしておりますので」


「はぁ!? 何を待つって!?」


グルリと振り向くヘンリー。


「決まっているではありませんか? 私達は新婚夫婦なのですよ? 夜、寝室ですることと言えば一つです」


「何だって!? お前と夜の営みなんかするはずないだろう!? 冗談は鏡を見て言え!」


吐き捨てるように言うと、今度こそヘンリーは出ていってしまった。


「……」


1人になると、ジャンヌはスカートのポケットから小さな手帳を開くとメモし始めた。


「これで、また一つ報告する内容が増えたわね」


ジャンヌは妖艶な笑みを浮かべ、メガネをはずした――



その夜、言葉通りヘンリーがジャンヌの寝室を訪れることは無かった。



****


 翌日から、ヤケを起こしたヘンリーは一切の仕事を拒否した。いや、それどころかジャンヌを徹底的に無視することにした。


そこでジャンヌは一切の仕事を引き受け、食事は全て1人でとるようになった。


「ジャンヌ様……本当にヘンリー様に仕事を手伝っていただかなくて大丈夫なのですか?」 


書斎で仕事をしているジャンヌに心配そうにマイクは尋ねた。


「ええ、いいのです。本人のやる気が出なければ、領地経営の仕事など無理ですから。でも、どうか旦那様のお世話のボイコットはしないでくださいね? あの方は仮にもここ『イナカ』の領主なのですから。今は私のことも仕事も拒否されていますが、きっといつかは目が覚めてくれると信じています」


「うっ……な、なんて健気な奥様なのでしょう。分かりました! ヘンリー様のお世話は我々がきちんと行っておりますので心配なさらないで下さい」


「ええ。ありがとう」


ジャンヌは笑顔を見せると、再び仕事に没頭した。


やがて彼女の頑張りのおかげか、『イナカ』の暮らしは改善されていった。

その噂は近隣の村にも知れ渡り、『イナカ』に移り住む人々も増えていったのだった。

けれど、全ての仕事をボイコットしたヘンリーはそのような事実は知らない。


毎日毎日フラフラと出歩き、遊んで暮らす怠惰な生活をする彼には領地のことなど関係ない話だったからだ。



そんなある日。

ヘンリーとジャンヌの関係を揺るがす案件が勃発した――




****



 それは、ジャンヌが『イナカ』に嫁いで半年が経過した頃だった。


相変わらず毎日を遊び呆けて過ごしていたヘンリーは、所持金を全て使い切ってしまったので『イナカ』に唯一存在する銀行に来ていた。


「これはヘンリー様。本日はどのような御要件で当銀行にお越しいただいたのでしょうか?」


窓口で男性行員が愛想笑いを浮かべながら対応していた。


「どのような御要件? そんなのは簡単なことだ。金を下ろしに来たに決まっているだろう? この通り、預金通帳に印鑑も用意してあるんだ。さぁ、早く全額引き出してくれ」


偉そうな態度を取るヘンリーに行員は申し訳無さそうに謝罪してきた。


「はぁ……ですが、大変申し訳ございませんが、ヘンリー様の銀行口座は全額引き出されておりまして残金は0になっております」


「はぁ!? 残金0だと!? そんな馬鹿な話があってたまるか!」


「い、いえ! 本当に嘘ではありません。今から3ヶ月程前でしょうか? ジャンヌ様がいらっしゃいまして、全額引き出されたのです。こちらがその時の証明書です」


行員が手渡してきた用紙をひったくるように奪うと、ヘンリーは目を通した。すると確かに、全額おろした記録とサインが残されている。


「な、な、何だ……これは……!」


ヘンリーは怒りでブルブル身体を震わせると、書類を叩きつけた。


「ふっざけるな! あの女! もう我慢ならん!」


雄叫びを上げながら、ヘンリーは銀行を飛び出して行った――



****


「おい! お前!」


ヘンリーはドアをノックすることもなく、書斎の扉を開けた。


「あら? 旦那様ではありませんか? お久しぶりですね。こうして顔を合わせるのは3ヶ月ぶりくらいでしょうか?」


ジャンヌは顔を上げると笑みを浮かべた。


「そんな話はどうでもいい! お前、俺の通帳から全額勝手に下ろしただろう!? 早く返せ! 一体何に使ったんだよ!」


「まぁ……今頃気付かれたのですか? 驚きですね? 余程へそくりしていたのでしょうね?」


「へそくりの話など関係無い! 今すぐ俺の金を全額耳を揃えて返せ!」


「ありませんわ」


「……は? 無い? そんな筈無いだろう!」


「全く、何一つ分かっていらっしゃらないのですね?」


ジャンヌはため息を付く。


「ヘンリー様、あれほどツケをするのはやめるようにと申し上げておりましたのに、やっておりましたね? 酒場と料理屋を経営する領民たちが訴えてきたのですよ? なのでヘンリー様の口座からお金を下ろして彼らに支払っただけです。それでも足りなかったので、私がお金を付け足したのです」


「……は? な、何だって……何て勝手な真似をしてくれたんだよ!!」


「いいえ、勝手ではありません。何処の世界に領民にツケを要求する領主がいるのですか?」


「うるさい! そもそも、それでも俺は正当な領主だ! なのにいい加減な書類で勝手に俺との婚姻届なんか役所に提出しやがって……もうお前とは離婚だ! とっととここから出ていけ!」


すると、ジャンヌは口元に笑みを浮かべると、立ち上がった。


「旦那様。 今、私に何と言ったのでしょうか?」


「何だ? 聞こえなかったのか? ならもう一度言ってやる。おまえとは離婚する。荷物をまとめて、今直ぐ出てけ!」


ヘンリーは扉を指差し、叫んだ。


「旦那様。もう一度尋ねます。今、私に何と言ったのですか?」


「ああ、何度でも言ってやる。おまえみたいな女はお断りだ。黒縁メガネに黒いひっつめ髪。ただでさえ根暗そうに見えるのに辛気臭い色の服ばかり着やがって。おまけに口を開けば仕事をしろの一点張り。もう、うんざりなんだよ!」


腕組みするとフンと鼻を鳴らすヘンリー。


「私達は、ここ『イナカ』の領主なのですよ? 領民たちのため、領地のために仕事をするのは当然です。旦那様が仕事をしないから、私が代理を勤めているのですよ? そうでなければ、とっくに『イナカ』は終わっています」


「うるさい! 俺はまだ正式な領主じゃない! 親父が領主なんだ! もし、『イナカ』が終わっているなら、仕事を放棄した親父の責任だ! 第一、勝手に仕事をしていたのはおまえだろう!? 俺に強要するなよ!」


しかし、何を言われようとジャンヌは一切動じない。


「なるほど、正式な領主じゃないから、仕事をしないというわけですか? だから毎日毎日遊び呆けていたと言うのですね? しかも様々な女性相手に。そのような勝手な真似が許されるとでも思っているのでしょうか?」


「な、何だ? 文句あるのか? お前は俺を妻だと認めていないと言っただろう? もしかしておまえ、ヤキモチでも焼いているつもりか?」


「ヤキモチですって? フッ。寝言を言うのはやめていただけますか?」


するとその言葉にジャンヌは鼻で笑った。


「はぁ!? お、おまえ……い、今鼻で笑ったな!? 醜女のくせに!」


「醜女……これも記録に残したほうがいいわね」


ジャンヌはポケットからメモ帳を取り出すと、机の上に置かれたペンでサラサラと何かを書き込んでいく。


「おい? 一体何を書いているんだ?」


問いかけに答えることなく、ジャンヌはメモ帳をしまうと、再びヘンリーに向き直った。


「ええ。笑いましたよ。私が言いたいのはそのようなことではありません。貴方はブロンドの若い女性ばかりに手を出していましたね? しかも相手が人妻であろうと」


「うっ!」


「女性たちの夫から訴えが届いておりますよ? 妻が寝取られてしまったので何とかして欲しいと。可哀想に……彼らは相手が領主であるから何も言えないのでしょう」


「だ、だがなぁ! 俺にばかり、罪をなすりつけるなよ! だったら相手の女だって悪いだろう! 嫌ならついてこなきゃいいんだ!」


「まだ、そのような寝言をほざいてらっしゃるのですか? 相手の女性は領主様に逆らえなかったと話しておりましたよ?」


腕組みすると、ジャンヌはジロリと睨みつけた。


「何だって!? そんなのは嘘だ、デタラメだ! 彼女たちは皆喜んで俺についてきたぞ! いい加減な話ばかりしやがって……もう限界だ! さっさと荷物をまとめて出ていけって言ってるだろう!」


すると……。


「いいえ、旦那様。出ていくのはあなたのほうです」


ジャンヌはメガネを外すと、美しい青い瞳で睨みつけた。


「そうです。ヘンリー様。あなたは規約を破りました。よって、ここを出ていかなければなりません」


音も立てずにマイクがヘンリーの背後から声をかけてきた。


「うわぁ!! 気配を隠して背後に立つなって前から言ってるだろう!? それに、何だよ! マイク! おまえ、一体誰の味方なんだ!」


『奥様の味方に決まっています!!』


突如、使用人たちが部屋の中になだれ込んできた。


「な、な、何なんだよ! お前たち……それに規約って一体何のことだよ!」


ヘンリーは震える指先で、ジャンヌを指差す。


「まぁ、旦那様……いえ、ヘンリー。規約にも目を通されていなかったのですね? 本当に何から何までいい加減な方ですわね?」


ジャンヌは引き出しから2枚の書類を取り出すと、マイクに手渡した。


「マイクさん、結婚に関する規約をこの男に聞かせてやってくださいませんか?」


「お、男って……おまえ、一体何様のつもりだよ!」


「だまりなさい! 言いか、よく聞くがよい、ヘンリー」


ついにマイクまで態度を豹変させると、怯えるヘンリーの前で規約を述べ始めた。



「いいか、ヘンリー。おまえのようなマヌケ男のために、わざわざ私が規約を述べてやるのだ。ありがたく思え」


マイクの乱暴な口調に、ヘンリーは耳を疑う。


「お、おい! マイク……おまえ、本当に執事のマイクなのか!? 態度がまるで違うぞ!」


「ああ、それは今までおまえがビリー様の子息で次期領主になる予定だったからだ。だが、お前は規約を破った。そこで、領主の資格を剥奪されることになるのだ。さぁ! 愚か者のヘンリーよ! 耳の穴をかっぽじって、よく聞くが良い!」


「はぁ!?」


驚くヘンリーにマイクは規約を述べていく。


「一つ! 正当な理由もなく、離婚を告げることを禁ず! 勿論、出ていくことを強要することもだ! 二つ! 領主の仕事を怠るべからず! 三つ! 夫婦である以上、互いを思い、敬うこと! 四つ! 浮気を絶対しないこと! 五つ! 相手の悪口を言わないこと! 六つ! 夫婦生活を拒否しないこと……」


マイクが声を張り上げて規約を述べていくさまを、ヘンリーは真っ青な顔で聞いていた。


「以上! 規約は全部で15項目! そしてヘンリー! お前は全ての規約を破ったのだ。分かったか? このマヌケめ!」


「はぁ!? だ、誰がマヌケだ!」


「旦那様……いえ、ヘンリー。先に、私に出て行けと言ったのは貴方の方です。よって、規約により今すぐ『イナカ』を出ていって頂きましょう。当主になるのはこの私、ジャンヌです。貴方とは今、この場で離婚です。既に離婚届はいつでも提出できるように用意してありますし」


ジャンヌはペラリと手にした書類を見せる。


「離婚届だと……!? 俺はそんな物にサインは……!」


「いいえ? されましたよ? 婚姻届といっしょにね?」


にっこり笑みを浮かべるジャンヌ。


「な、何だと……」


そのときになって、ヘンリーは自分がはめられたことに気付いた。


「お、おまえ……俺を騙したのか!?」


「いいえ? 騙したなんて、とんでもない。私は初めからあなたの妻になるつもりで嫁いできたのですよ? 良き妻になる為、歩み寄ろうとしたのに拒絶したのは、そちらですよね?」


「何ふざけたこと抜かしてるんだ! そんなデタラメな話、誰が信じるか! 大体俺を追い出そうなんて親父が許すはずないだろう!」


するとマイクが不敵な笑みを浮かべる。


「馬鹿ヘンリーよ。お前は誰がジャンヌ様を妻に選んで、ここに送り込んできたのかまだ気付いていないのか?」


「え……ま、まさか……親父……か……?」


「ああ、そうだ。旦那様はお前を更生させようと考え、優秀な女性を探し出してきたのだ。ジャンヌ様と、この『イナカ』を盛りたてて貰うことを願っていたのに……お前は親心を踏みにじり、ジャンヌ様をも蔑ろにした! お前のような男は領主になる資格など無い! 今を持って、『イナカ』の領主はジャンヌ様になったのだ! さぁ! 荷物はまとめといてやった。これを持って、とっとと我らの前から消え失せろ!」


使用人たちが大きなキャリーケースをヘンリーの前に引きずってくると、1人のフットマンが不敵な笑みを浮かべた。


「さぁ、今直ぐ出ていって頂けますか? さもなくば、不法侵入者として警察に通報しますよ?」


「ひいいいっ!! ち、ちくしょーっ!! だ、誰がこんなところに居座るものかよ!」


ヘンリーはキャリーケースの持ち手を握りしめると、逃げるように部屋から出ていった。


「お前たち! ヘンリーがこの家を出ていくところを見届けるのだ!」


「「「はい!!!」」」


マイクの命令に3人の精鋭フットマンが返事をすると、逃げていくヘンリーの後を追っていく。



「奥様! 見て下さい! ヘンリーが逃げていきますよ!」


窓の外を見ていたメイドがジャンヌに声をかけた。

その言葉を聞いた使用人たちが一斉に窓にかけより、笑い合う。


「やった! やっと出ていってくれた!」


「せいせいしたぜ! 二度と戻ってくるな!」


「良かったわ。これで平和になるわね」


「ばんざーい! ばんざーい!」



喜び合う使用人たちを見ながらマイクがジャンヌに話しかける。


「ジャンヌ様、もう変装する必要は無いのではありませんか?」


「ええ、そうですね」


ジャンヌは自分の髪の毛をグイッと引っ張る。するとその下から見事なブロンドヘアが現れ、目も覚めるような美女が立っていた。


その美しい姿に使用人たちも見惚れる。


「やっぱりジャンヌ様は美しい方だ」


「本当。あんな男の毒牙にかからなくて良かったわ」


「あいつ、ブロンド女性にしか興味ないからな」


使用人たちが口々に言い合う。


「本当に、ビリー様には感謝です。女ということで領主になれずに悔しい思いをしていた私を見つけ出して、今回の計画を提案してくださったのですから」


ジャンヌの言葉にマイクは頷く。


「旦那さまは先見の明がありますからね。以前から、放蕩息子に領主は任せられん。誰か外部から連れてきて、領主にさせたいと話しておられましたから。だが、相手はあの図々しいヘンリー。何が何でも居座ろうとしたでしょう。そこで考えた計画だったのでしょうね」


「ええ、でもこんなにうまくいくとは思いませんでした。でも意外と時間がかかりましたね」


「ええ。存外しぶとい男だったようです」


マイクが苦笑いする。


「では、早速ビリー様に報告しませんか? 今頃は私の故郷でバカンスを楽しんでおられる最中でしょうから」




その後――


ヘンリーが出ていった報告を手紙で受け取ったビリーは『イナカ』へ戻ってきた。

立派で見目麗しいジャンヌの次の夫候補者と共に。


ジャンヌはビリーが連れてきた男性と再婚し、女領主として手腕を振るって『イナカ』は益々発展していった。



そして、『イナカ』を追い出されたヘンリーの行方は……誰も知らない――



<めでたし、めでたし>




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