表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

鎮魂

作者: すいみんぶそく

夜目には、街の有象無象は眩しすぎたようだった。

真っ暗な路地からやっとの思いで這い出てきた私は、目を強く擦った。

もう深夜だと言うのに、都市に明かりは煌々と灯り、スクランブル交差点を行き交う人々は、軍歌の添え物に丁度いいように靴音を、呆れるほどぐじゃぐじゃに立て、それぞれに、ゆく道を行っていた。

重い黒色の夜空には月がひとつ冷え冷えとした様子で佇むのみで、星は全く出ていなかった。

瞳がちょうど明るさに慣れた頃合いを見計らって、私はまだ半分路地に入っていた体を外へと晒した。人の群れへ混じる。

つらつらと歩いていると、何ともなしに、私だけがどこへ行くでもなく彷徨っているように思えてくる。何も考えてないのが私だけのように思えてくる。自分の愚かしさが、甚だしいほどに、この地から、言われもないほどに、侮蔑され、嘲笑され、晒し者にされているようにさえ思えてくる。

毎夜このようにしているのがこの近日中である。夢のような、現のような、それともその狭間の明晰夢のような、どれともつかないもどかしい、ともかくとも正気出ないことは確かなここを、不器用に徘徊することを私はいつからか日課としていた。

思えば初めに路地裏の中心で倒れ伏して始まるこの世界が、何故にそこから始まるのかも私は知らない。でもそれを疑問に逡巡する時間を取ろうとも思わない。1度止まったら、全部吐き出してしまうような気がするから。

時々はっきりと明朗に、誰かが発狂する声が聞こえる。私は1度それに比較的近くで遭ったことがある。乾きを湛えた笑いが込み上げるほど、ステレオタイプな狂声が空気を震わせたその刹那、周囲の人々は一斉に声の主を取り囲んだ。彼らの目にはその者しか写ってはいない模様で、ただただ表情を見せず、手元の憐憫の目を取り付けてそれを見つめていたのみであった。彼の者はひとしきり叫び散らしたあと、何事も無かったように人の群れへと戻った。輪もまもなく散開した。

どうやら今日はまた違う調子のようだ。不思議と普段より不安な心持ちが、私の中で激しいものとして想起されている。腸が煮えくり返っているかのように熱い。それでも、私は足を止めることは出来なかった。そぞろに交差点を歩み歩んで、端に着いたら振り返ってまた歩み始める。もはやこれすらも己の意思ならんものとすら思える。そしてまた自分惨めになってくる。

不意に、私は時計を1つ見止めた。頼りない細い棒に支えられた丸い時計だ。それはまるで私の眼前に佇んでいるように、私の耳の中に堅苦しい機械音を大きく響かせた。

私はそれを初めて見つけた。それは昨晩までは間違いなく存在しなかった代物であった。それに発される音は私を酷く悩ませた。なんと言えば良いだろうか。自分の脳みそが、電動泡立て器でかき混ぜられているような。それとも、棚やテレビ等、人並みに家具が配置されたリビングの中央の、本来テーブルが置かれるはずのところに自分のそれが置かれたまま、そこが大きな地震に見舞われているような。ともかくとも、間違いなく最悪な気分を私は味わっていた。それでも、私はしばらく足をとめなかった。止められなかった。私の体を、形状しがたい何者かが上から垂らした糸で操っているかのように思えた。私の上にはそんな気配があった。

不意に、私は膝から崩れ落ちた。ゆっくりと。ゆっくりと。私にはその刹那がそう思えた。両手は私の頭を抱えた。喉の奥が裂けるように痛い。視界にはこぼれた臓腑がいっぱいにこぼれているのが写った。なのに腹は満ちている。

口は金切り声を上げた。自分のものとは到底思えないほど高い、綺麗な声だった。背中が陰唇のように縦に裂けた。それは声をあげた。慟哭のように私の耳には聞こえた。

顔が上がると、幾重にも、こちらを向いた人の円が、私を取り囲んでいるのが見えた。途端に私は、恥ずかしさをこみ上げさせた。普段人に見せぬ臓物が晒しあげにされているのは、裸体を公衆に晒すことと同じように思われたのだ。

人々は、声を上げ続ける私を見る。その目は各人1つ。その周りを雲のような靄が、顔全体ごと覆っていた。不思議とそれは当然のことと私の魂は受け入れていた。

誰も手を差し伸べない。それどころかそれは小刻みに震えて、彼らにも自らの手が制御しきれていないような気さえする。

何十分叫び散らしたか分からなくなった頃、大きなカエルのような姿の生物が、私の真正面のビルの裏から現れた。体色は黒く、脚は人のような形状であり、顔には1つの大きな目とそれを囲む蠢く触手が置かれていた。ちょうど私を取り囲む人々の顔のような。

それは飛び上がり、時計の上に器用に降り立った。首をのばし、その顔を私の眼前へと運んでくる。

「いあ いあ いあ いあ」

どこかも分からぬ口から、そうそれは発した。

それの後ろに大きな気配があった。

「Ph’nglui mglw’nafh Cthulhu ー、」

何か、何やら分からぬ言葉が私を震わせた。途中で途切れたのが幸いだったが、そうなければ私の正気は今度こそ失われるところであったろう。

目の前の顔が、後ろを振り向いた。なにやら話しているようだった。私の痛みは全て解消されていた。残ったのはぶちまけられた腸達と、頭に残る私の叫びの余韻のみであった。

再び顔が振り向いた。

「Allow. To see.」

そう呟いて、それは霧になった。

それが私の最後の光景だった…。

翌晩からは、私はその体験に遭わなくなった。普段通りドロドロに崩れた秩序のない生活が続いた。

私にはあれがなんだったのかは分からない。ただ、確信を持って言えるのは、あれが私の人生において最も濃密で、美しい、走馬灯にはぴったりなものであった、というばかりである…。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ