帰りなさい
もうだめだ。声もでなくなってしまった男は抗うのを止め、目をつぶる。もうどうにでもなれ。
「もういいわよ。目を開けなさい」
何分経過したのかわからないがいつまでたっても目を開けない男にしびれを切らし、女は声をかける。言われるがままに目を開けると男は飛び起きた。
「あ、あれ?ここが鏡の世界?どうなったんだ。その割にはさっきいた部屋の風景と変わらないのだけど」
男はキョロキョロと辺りを確認し、自分の手のひらを見つめてはグーパーを繰り返した。
「鏡の世界に取り込まれる寸でのところで助かったのよ。だからあなたはまだ体と魂は引き剥がされていない」
もう大丈夫ね、とこぼして女は男のもとを離れようとする。男はようやく声に気づき、女が遠退くのを声で引き留めた。
「あなたが、助けてくれたんですか」
先ほどまでの恐怖を忘れたのか男は純粋に質問する。
「助けた……訳ではないわ。あいつから獲物を奪っただけ。だけど、私がほしい器はあなたじゃない。だからあなたを特別に帰してあげる」
いたずらに男のもとに近づいてみる。恐怖は忘れてはいなかったみたいで安心した。近づいた瞬間に軽く悲鳴をあげ後ずさったからだ。
とりあえず、この状況をあいつに見つかると厄介だからと迷路の先に進むこととなった。
幾度となく鏡の世界の住人と出会ったがその度にこの女が制してくれた。どの住人よりもよっぽど理性を保っているように見える。
「この部屋で最後。ここのドアを開けると外に繋がっているわ。ここを出たらもう二度と、ここには来ないで。全てを忘れて生きていきなさい」
女はあっけなく出口を示し別れを告げる。
「待って!!」
考えるより先に男は声をあげていた。どうしても彼女のことが気になってしまって。配信のためではなく、彼女について知りたいのだ。
「君のことが知りたい。どうせこのドアを開けてしまったら俺は全てのことを忘れてこれまで通り生きていくのだろう。だから、せめて、君のことを教えてほしい」
自分でも何を言っているのかわからないが、きっと魂と体が引き剥がされる感覚を経験したことにより彼女達の体を欲する気持ちが少しでもわかってしまったのだろう。故に器がすぐそこにあるのに体を奪おうとしないどころか奪われないようにしてくれた彼女に寄り添いたい。そういうのはエゴだというのに……