静かに始まる復讐、そして餞別②
春も近い良く晴れた昼下がり、イルアは賑わう市場街を歩いていた。片腕に籠を下げて。
籠の中は既にたくさんの食材が入っている。
チーズにパン。燻製肉を始めとする酒に合う細々とした食材。それからこの辺りでは高級とされる酒瓶が二本。それらはイルアが歩くたびに、籠の中で小さく揺れ、カタカタと音が鳴る。
しかし、昼下がりの市場街はたくさんの人で溢れている。活気があり過ぎるこの場所では、小さな物音はイルアの耳に届かない。
─── 鮮明に聞こえるのは、街の人々のとある男の噂話だけ。
「それにしてもよぉー、困ったもんだ。あの坊ちゃん、また無断飲食しやがったらしいぞ」
「あー、聞いた聞いた。“俺の領地なんだから、黙って食わせろ”だってさ。けっ、何様なんだか」
「まぁ、一応、次期領主様だからねぇー。めったなことは言えないが、でも弟さんの……確かアルフレッド様だったか?あのお方は、長男より出来が良いって話だから案外、あっちのお方が次の領主様になられるんじゃないか?」
「そうなったら、万々歳だ」
「ま、それもこれも全て、現領主様のお気持ち次第ってか」
「そうだなぁー」
市場の通り沿いに並べられたテーブルでは、男達がうんざりした顔をしながら愚痴とも噂話ともいえない話を大声でしている。
そして隣のテーブルでも、似たり寄ったりの話を買い出しに来た主婦であろう婦人たちが語り合っている。
(あらあら、困ったものね)
イルアは心の中で呟き、ほくそ笑む。
しかし自分が街のつま弾き者であることは自覚しているので、誰とも目を会わさぬよう意識して視線を下に向けつつ目的の店へと歩く。
これまで市場に足を向ければ疫病神の如く突き刺さる視線を容赦無く浴びていたのに、今日は誰一人イルアに視線を向けるものはいない。
皆、ここ最近の次期領主さまの横暴ぶりに辟易しているようだ。そしてその鬱憤を晴らすかのように、彼が居ないところで愚痴を言い合い、風評を流している。
ただその中にはイルアとの関係を匂わすようなものは一切耳に入らない。
おそらくであるが、フレデリックは街でつま弾き者にされている未亡人に手を出したことを誰にも知られたくないのだ。己のプライドを傷付けることになるから。
または、彼ははなから結婚前の火遊びをしたいと決めていて、交流の薄い自分を選んだのかもしれない。
(ま、どちらでも良いけれど)
自虐的なことを考えても冷静に受け止めている自分を、イルアはもう驚いたりはしない。フレデリックに向ける愛情はとっくの昔に冷めている。
賑やかな市場街に、白い花が飾られているのを目にしてイルアは目を細めた。
(長かった......でも、とうとう明日で終わりね)
フレデリックとの関係は明日で幕を下ろす。
そのためにイルアはフレデリックの為に、彼が喜びそうな食材を買い求めている。
正直、懐も痛いし、出したところで彼は品の無い田舎料理だと鼻で笑うだろう。
それでもイルアは明日自分の元に来るフレデリックの為の準備を惜しまない。
最後の、そして───最高の別れを演出するために。
翌日、フレデリックはいつも通りイルアの家を訪れた。
そしてイルアの手料理を小馬鹿にしながら全て平らげ、イルアが用意した高級酒を「はっ、安酒だな」と貶しながらも、たらふく呑んだ。
当然ながらフレデリックはイルアの身体を求めた。
彼も口に出すことはしないが、今日で最後だということをわかっているのだろう。
いつも以上にイルアを荒く抱き、娼婦以下に扱い、たっぷりと己の自尊心だけを満たした。
「服、用意しろ」
「......はい、すぐに」
かつては情交の後、シーツに包まれながら愛の言葉を囁いていたフレデリックは、もういない。
今では、まるで国王陛下になったかのように顎で指図する彼に対して、イルアは微笑みながら頷くだけ。
床に散らばった服のシワを取り、シャツの袖を彼の腕に通し、前ボタンを丁寧にはめる。また床に膝を突き、差し出して来た彼の足に靴を履かせる。
「───じゃあ、行くから」
「はい」
イルアの手で身支度を整えたフレデリックは、短く言い捨てて玄関へと向かう。
早足で向かう彼の背には、イルアに対して未練もなければ、執着も無い。きっと頭の大部分を占めるのは、これから先の婚約者と描く未来のこと。
そんなフレデリックの背中は真っ直ぐ延びていて凛々しさすら感じられる。
しかしその中身はどうなのかといえば、ヘドロよりも汚い何かで埋めつくされているのをイルアは知っている。今の彼の芯となっているのは、イルアの狂言で身に付けた歪んだ自信だけ。
(......でも、ここまで簡単に愚男に育つとは思わなかった)
そうなるように仕向けたイルアであるが、正直、予想以上の結果に驚いている。
確かにイルアは、ずっと彼にとって心地よい言葉を耳に注ぎ込み、彼にとって都合の良い女でいられるよう演じ続けた。
けれど、大の大人が見下している女の言葉をそう簡単に信じられるのかと疑問に思うが、きっとフレデリックはそういう資質があったのだろうと結論付ける。
そして玄関に到着したイルアは、彼の足を止めないよう素早く扉を開けた。
「お気を付けてお帰りください」
深く腰を折ったイルアに、フレデリックは「......ああ」と不明瞭な言葉を吐いて外に出ようとする。
しかし、一歩玄関から庭に足を踏み出した途端、くるりと振り返った。
「あのさぁ」
「......なんでしょう?」
これまで去っていく際に一度も振り返ることなどがなかったフレデリックに、イルアには不思議そうに首をかしげた。
その仕草が気に入らなかったのだろう。フレデリックは露骨にムッとした表情を作り口を開いた。
「お前さぁ、俺がさんざん良い思いをさせてやったのに、最後の最後まで“ありがとう”の言葉はないのかよ」
「......」
(良い思いとは......何?具体的に言ってちょうだい)
喉まで出かけた言葉をイルアは何とか呑み込み、フレデリックの望む言葉を口にする。
「ありがとうございました、フレデリック様」
「ああ。っていうか、そういうのは指摘されて言うもんじゃないけどな」
「さようですね。申し訳ありません」
棒読みにならぬよう精一杯感情を込めた口調で頭を下げれば、フレデリックはふんっと鼻を鳴らしてイルアに背を向けた。
「フレデリック様、どうか婚約者様とお幸せに」
庭を通り抜け、街路に出たフレデリックに、イルアは餞の言葉を贈った。
ただ、すぐにこう付け足す。意地の悪い笑みを浮かべて。
「まぁ、幸せになれるものなら......ね?」