復讐を誓った夕暮れ①
「─── あ、そうそう。聞いてくれよイルア。俺、とうとう身を固めなくっちゃいけなくなったんだ」
情事の余韻を残した口調でそう言ったフレデリックに、イルアは無言のまま固まった。
彼が何を言っているのかわからなかった。
(身を固めなくっちゃいけない?……それって、つまり)
「俺、婚約したんだ」
頭の中で紡いでいた言葉を読んだかのように、フレデリックはさらりと言った。
「……結婚するのですか?」
「ま、そうだろうな」
ようやっと絞り出したイルアの言葉に、フレデリックは肩をすくめながら答えた。彼の茶褐色の髪も、同時に揺れる。
今は、夕暮れ時。そしてオレンジ色に染まった室内で、フレデリックは半裸の身体を惜しげもなくさらしている。
イルアもフレデリックと同様に半裸の状態だ。つまり二人は、結婚を誓い合った恋人以上の関係をしていた。
ただ二人は、恋人同士ではない。
フレデリックはイルアが住まうルティア領の領主の息子。爵位持ちで、伯爵令息と呼ばれる存在。対してイルアは平民の、しかも未亡人だ。
しかしながらイルアは、まだ二十歳を少し過ぎた頃。少女と呼ぶには成熟しているが、稲穂のような黄金色の髪と澄んだ空色の瞳を持つ彼女は、とても愛らしい容姿をしていた。
けれど今、人形のように整った顔は痛々しいほど青ざめている。
無理もない。今、イルアはフレデリックから別れを告げられたのだから。
(……こんな……こんな終わり方が来るなんて)
もちろんこの関係がずっと続くとは思っていなかった。
相手は雲の上の存在。彼の妻になるなんて、願うだけでおこがましい。
だから近い将来、彼の口から別れを告げる時が来るのは覚悟していた。そして、笑って「さよなら」を言うつもりだった。
イルアはフレデリックのことを愛していた。
そしてフレデリックも、イルアに向け愛していると口にした。何度も、何度も。時には、結婚しようと言ってくれたことすらあった。
互いに想い合う気持ちは本物だと信じて疑わなかった。
なのに、フレデリックはあっさりと別れを告げた。
しかも、身体を重ねた後に。ついでといった感じで。そこには恋人に別れを告げる罪悪感も、悲しさも、侘しさも、苦しさも、何一つ感じられなかった。
とどのつまり、フレデリックは本気では無かったのだ。
そのことに気付いたイルアは、無言のままじっとフレデリックを見つめる。もしかしたら彼が「ごめん」と言ってくれるかもしれないと期待して。
今、イルアは彼から謝罪の言葉を欲していた。嘘でも義理でも良いから、とにかく欲しかった。
1年以上続いたこの関係を奇麗に終わらせたかったから。
***
イルアが一度目の結婚をしたのは、18歳の時。相手は5つ年上の傭兵を生業とする男だった。
身体が大きく、それと同じくらい声が大きく乱暴で、女性を従わせることが愛だと信じて疑わない最低な男だった。
しかしイルアは、彼と結婚することを拒まなかった。いや、むしろ自分なんかと結婚してくれる男がいるのかと驚きすら感じていた。
イルアは人形のように整った容姿をしている。もちろん身体に欠損は無い。
しかし、両親は既に他界し持参金も用意できない。親族と呼べるのは同じ街に住む叔母ただひとり。だが、その叔母は少々訳アリだった。
容姿が多少整っていたところで、夫となる男に与えることができるものなど無く、それどころか街中からつまはじきにされている叔母とも縁を持ってしまう。
そんな自分を選んでくれた男に、イルアは感謝の念すら覚えてしまった。
だから粗野で見下すような言動も、初夜だというのに荒々しく抱かれたことも、全部受け入れた。それどころか彼の妻に相応しい人間になろうとすら思った。
けれども、イルアはたった三か月で未亡人となった。
割の良い仕事を見付けたと言って、遠い部族抗争の戦場へと向かって、夫は帰らぬ人となった。
未亡人となったイルアは、更に孤立した。たった三か月で未亡人となったのは、イルアが夫を呪い殺したのだという根も葉もない噂のせいで。
喪に服すために、真っ黒な服を着続け、街の人々から白い目で見られる生活は、18歳のイルアにとって生き地獄だった。
叔母は、イルアにまとわりつく噂など信じるどころか鼻で笑いとばし、何かと便宜を図ってくれた。
けれど、訳アリの叔母と交流を持てば持つほど街の住人からの風当たりが強くなるため、イルアは次第に叔母との交流すら断つようになってしまった。
─── そうして一年以上の月日が経ち、イルアはフレデリックと出会った。
出会いはありきたりなものだった。
たまたま街に買い出しに出たイルアに、フレデリックが声を掛けたのだ。「お嬢さん、ハンカチを落としましたよ」と。
しかしフレデリックが差し出したのは、イルアのものではなかった。
だからイルアは丁寧に違うと伝えて、すぐに去ろうとした。しかしそれをフレデリックが引き留めた。
そして訝しげに眉を寄せるイルアにこう言った。
「貴方のものではないのはわかっています。でも、きっかけが欲しかった。……ずっと貴方と話す機会が欲しかったんです」
フレデリックは真剣な表情だった。耳がほんのりと赤く、彼が照れていることは聞かなくてもわかった。
イルアにとっては、それはとてつもない衝撃だった。
街中の人間からつまはじきに合っている自分と、接点を持ちたい人間がこの世にいるなんて信じられなかった。
しかも相手は照れている。それがどういう意味を持つのかわからないほど、イルアは初心ではなかった。
「私などでよろければ、いつでも話しかけてください」
気づけばそんな言葉を紡いでいた。
あの時、イルアは間違いなくフレデリックにときめきを覚えていた。
人生初めての恋が始まる予感を確かに感じていた。