明けの月
キリィの様子がおかしい。
ライラがそう確信したのは、新年祭から三日後だった。
新年祭の翌日、キリィが朝食に降りてきたのはかなり遅くなったが、彼女はいつも通り朝食を食べていた。乳もいつも通り搾られた。その後は倉に探し物をしに行っていた。ライラが手伝うかと尋ねれば断られた。たまにあることなので、ライラは気にしなかった。
その翌日は、いつも通りの時間にキリィは起きてきた。未だに人間の表情でわからないところもあるが、キリィの表情に関してはおおむね分かっている自負がライラにはあった。その時のキリィの表情は、口は半月の形を取り、目は細まっていた。
笑っていると思った。
しかしそう思いながらも、ライラは何か違和感を抱いた。それを明確にする前にキリィは乳搾りを済ませて、狩りに出掛けた。なので、ライラは家事に勤しんだ。
ところがその夜。キリィは夕食の時間になっても帰ってこなかった。時折、いつもよりも荒々しい獣の声が森から聞こえてくる夜だった。
夜間に外に出ることを禁じられているライラは、ひたすら冷めた料理の前で帰りを待つしかなかった。日が昇ったら、森の様子を見に行こうと心の中で唱えて堪えていた。
うつらうつらとしながらも硬い椅子に座り続けた夜が明け、日の出と共に玄関を出れば、ちょうど森からキリィが歩いているのが見えた。
朝焼けが雪に乱反射する。眩しい光はライラの目には強すぎた。そのせいか、ライラにはキリィが神々しい何かに見えた。
慣れているはずの雪道を、よたよたと歩いているだけのキリィなのに。
我に返り、詰めていた息を吐き出して、ライラは悲鳴のような声と共にキリィに駆け寄った。
「キリィ!」
「…………」
無言のまま大きくよろめいたキリィの両肩を掴み、ライラはキリィを支えた。
朝帰りのキリィは端的に言えば、酷くぼろぼろであった。身体のあちこちに傷を作り、顔色も悪く憔悴もしていた。愛用の弓は折れてベルトに引っ掛かって、背負っている矢筒にはもう矢はない。手には大ぶりのナイフが握られており、それは獣の血肉で汚れていた。ライラは凶悪なそれを凝視した。
その視線に気付いたのか、キリィは薄い三日月のような口の形を作った。
「矢が切れたからよ。……他のは森小屋の保存庫に置いてきたわ。最後のは運ぶのしんどかったから、そこに置きっぱなしよ。早く解体したいから手伝って、ライラ……」
「運ぶのはわかりましたが、まずおやすみください。解体なんて後でも――」
「休む前にやるわ。価値を下げたくないのよ」
「…………」
有無を言わさぬ強い口調にライラは押し黙った。立場の強い存在がこの手の声を出したときは、逆らわないに越したことはない。ライラは心配を堪えて頷いた。
キリィの指差す方に向かえば、見たこともない獣がそこに倒れていた。
背中に翼が生えている四足歩行の獣だ。『ぼあぼあビッグボア』よりは体躯も頭も小さいが、巨大な牙と角があり、筋肉の引き締まった四肢とその先についた鋭い爪を持つ。全身が凶器、としか言いようがない禍々しい獣だった。首や身体の至るところから血を流して痙攣して倒れ伏しているが、ライラは恐ろしくて近付けなかった。血の気の引いた死の形相は壮絶であった。
これをキリィがやったというのか。
ライラはぶるりと震えた。あんなか細いキリィが何倍の大きさを持つ『ぼあぼあビッグボア』を退治して来た時も驚いたが、これは恐怖を感じる。
「何してるの。早く運びましょう」
後ろから掛けられた声に、ライラは心臓がきゅっと苦しくなるような感覚に陥った。動揺は出ていないと信じたい。ライラは努めていつも通りに、びくびくと四肢を動かしている獣を指差した。
「まだ、動いているようですが……」
「痙攣しているだけよ。ライラって怖がりよね。……かわいい」
ライラがちらりと見たキリィの口は、また月のようだった。この場面で笑っているということに、ライラはえもいわれぬ恐怖を感じた。
キリィはゆらゆらと歩きながら、獣の前に立った。ライラが固唾を飲んで見守る中、キリィは持っていた大きな刃物をその獣の目にピタリとつけた。
抉り上げるかのように、キリィは躊躇なく獣の体内に刃物を入れた。獣が一層強く、跳ねるような痙攣を見せる。
「ひっ」
引きつったその声は思わず漏れてしまった。ライラは手で口を押さえた。
キリィは振り向いた。
「ごめんね、ライラ。もう大丈夫だよ」
キリィは目を細めて、『いつも』の半月を思わせる笑みでライラを見ていた。
「さ、早く運ぼう。急いで解体して、……ライラのお乳も搾らなきゃね」
表情も声色も、ライラのわかる範囲では去年――新年祭の前日まで――と何も変わらない。変わらないはずだ、とライラは必死に心の中で唱えた。
だと言うのに、どうしてこんなにも不気味に見えるのだろうか。
ライラにはキリィが何を考えているのか、またわからなくなるのだった。
~どこかの山の麓のおうち~
「あんたぁ……昨晩のあのおっそろしい、あの声……あの山から聞こえた、あの」
「うんむ、まちがいねぇ……山の神様の下僕にちがいねぇ……」
「こわいよ、おとうちゃぁん……おっかねぇ獣が山を下りてくるんか……?」
「でぇじょぶだ! 山の狩人さんがなんとかしてくれる! まちがいね!」
「でもあんた……狩人さんが獣に襲われて死んじまったら……」
「そんときゃぁ! おらが!」
「おとうちゃん……!」
「おらが家財みーんな持ってやるから、家族みんなで逃げるだよ!」
「……おとうちゃん」