果実とミルクはうまい
「今日は一緒に山に行こう、ライラ。松林檎ベリーを収穫しまくるわよ!」
いつもより早く起きてきたキリィが階段を下りてくるなりそう宣ったので、ライラは火を起こそうとしていた手を止めて主を見た。
「……おはようございます」
挨拶をなさいと、言葉の裏に意図を貼り付けて淡々と挨拶をすれば、キリィは全く気にした素振りもなく近付いて、いつも通りに「おはよう」とライラを見上げた。
「とりあえず、パンだけ食べて行くわよ。昨日見た感じもう十分に熟してたから。早く行かないとマシラモンキーやツッツキツキバードに食べられちゃうわ」
キリィが腕を掴んで引っ張るので、ライラは僅かによろめいた。存外、この主人は力がある。普段は感じないが、キリィの細腕が思わぬ力強さを見せると、女一人で狩人として生計を立てている人間はこんなに強くなれるのかと、ライラはいつも驚くのだ。
それを押し隠し、ライラは踏ん張った。
「聞いてません……っ」
「昨日言い忘れちゃったのよ。帰ったらあんな美味しいご飯あるんだもん。……あ、パン食べて、あとライラのお乳飲んだらすぐ行くの。あとは現地で松林檎ベリー食べるのよ。あとね、大きなカゴを持ってくわよ。二つよ」
キリィは早口にそう言って、戸棚からいつも使っている自身のコップを取り出した。ライラは珍しく目を剥いていたが、キリィは背を向けていて気付かなかった。
ライラの動揺よりも山の松林檎ベリーにキリィの思考は飛んでいるらしい。無邪気なままいつも通りにコップを持ってこられた以上、ライラは自身の胸元を隠している下着を取り去る他ないのだ。こういうとき、このお人好しな優しい主人の傲慢さを垣間見る。そもそも朝に服を着ることなくで上半身は下着のままなのも、この乳搾りがあるからなのだ。そう考えると、ムッとしたくもなる。ライラは黙ったまま、静かに下着を取り去った。
キリィは舌舐めずりしながら、ライラの乳を搾る。
「松林檎ベリー食べたことある? 橙色の丸い果実よ。見た目は全然ベリーじゃないんだけど、食べてみると納得するわ。とにかく、すっごい美味しいのよ。考えるだけで涎がべろべろ出るわ。ここで少し搾っていくけど、あとは松林檎ベリー採って帰って来てからでも大丈夫よね? おっぱい張りすぎちゃったりしない?」
「……午前中で済むのでしたら」
「余裕よ、余裕。そんなに遠くないもの。松林檎ベリー採りに関しては私はマシラモンキーどころかマシラカシラより早いから任せて」
キリィの自信はよくわからなかったが、この主がそう言うのだからライラは頷くしかなかった。
キリィはライラのミルクを飲みたいだけ搾り出すと、流し込むようにごくごくと飲んだ。口元を拳で拭う。そうして足取り軽く仕度に行こうとするキリィの背を眺めて、ライラは大きく嘆息して自身の胸を下着で包み込んだ。
キリィの案内する道は山道にしては通りやすい。しっかりとした舗装は当然ないが、ただの獣道とは違った。長年、この道を誰かが通ってきたのだろう。それはキリィであったり、彼女が言う『おじいちゃん』であったり、もしかしたら彼女の両親もなのだろうか。一度も話には聞いたことはないが、如何に彼女が変人でも木の股から生まれたわけではあるまい。ライラはぼんやりそんなことを考えながら、籠の背負い紐を握りしめ、踏みしめられてきた地面を一歩一歩進んでいった。
殆どを小屋の中で過ごし、外と言えば庭か、そこから少し出て野草を採りに行くくらいの生活をしているライラとしては、この松林檎ベリー採りは久々のかなりの遠出になった。
秋も真っ只中、日が差しても肌寒ささえあるはずの山の中で、ライラは自身の身体だけが熱くなっていくのを感じた。細く長く息を吐けば、同じように空の籠を背に前をすいすい歩く――スキップしている? ――キリィが振り向いた。
「大丈夫? 疲れていない?」
「……はい」
疲れているほどではないが、かと言って元気というほどでもない。時間と共に重たくなる乳を見下ろす。熱の中心地はここであるような気もする。
やや急勾配な道を上り、やがてなだらかになっていく。色づいている葉を未だに生い茂らせる木々は少なくなり、次第に見ていた葉の色が足元に広がっていた。
そうしてやがて、開けた場所に大きな木々が見えた。どれもところ狭しと乱立して、幹に合わぬほっそりした枝を四方に伸ばしている。その先に橙色の丸い実がたわわになっている。その実の大きさは細枝が折れるのではないかというほど、遠目に見ても大きく、まさに『実り豊か』であった。
「着いたわ! 私が育てた松林檎ベリー畑よ」
「…………」
それは畑と言うには無秩序であったが、ライラはこの豊かな光景は感嘆の息をもらした。熟れて落ちた物から甘い匂いが漂う。すでに他の動物たちもこの実りを堪能しているようだった。キリィが子供のように駆け出すと、さっと生き物たちが逃げていく。構わず彼女は木の前で軽やかに跳ねた。
まるで鳥の羽ばたきのように、彼女はふわりと身体を浮かした。
ライラはそれに眼を奪われた。キリィの浮き上がった身体は、彼女の背丈より遥か高い枝に音もなく乗った。枝の先の実がわずかに揺れる。
実りの光景よりも、ライラは胸が打たれるようだった。同じ地に足をつける命とは思えない。人間とはあんなにも軽やかなのか。ミノタウロスではあり得ない、天を舞うかのような跳躍。
唖然としているライラをよそに、キリィは枝から一つ、松林檎ベリーをもぎ取った。それを口を大きく開けて一口齧ると、目を見開いて輝かせる。言葉なくとも美味しさが伝わる、子供のような愛らしさがある、とライラは思った。
喜色満面と言った表情のまま、キリィは両足だけで細枝の上でバランスを取り、食べながら片手で器用にもうひとつ実をもいだ。
キリィの手よりも大きなその実が、彼女の手からほいと放られる。それが自分に向かって投げられたことに気付いたライラは慌てて我に返り、地面に落ちそうだった果実をエプロンを広げて受け止めた。
橙色の実がエプロンの上で艶やかに照りを見せていた。つるりとした表面が陽光を受けてみせ、ライラの食欲をそそる。
ライラの手には小さい松林檎ベリー。
ライラは大きな口を小さく開き、一齧りした。
皮に歯が当たる。ぶちり、と皮の心地よい感触を食い破り、香りと水分をたっぷり含んだ甘い果肉。これは美味しい。甘さよりも爽やかな酸味があるが、柔らかく粘り気さえも感じる果実は、口の中にしっかりと味を残す。疲れを取るような瑞々しさと幸福感ある甘味。
「……美味しいですね」
静かに咀嚼しながら小さく呟けば、キリィは木の上で仁王立ちをし、誇らしげに胸を張った。ライラが一口をゆっくり堪能している間に、彼女は果実丸々一つを食べきったらしい。種を口からプッと地面に吹き出し、早々に木から木へ飛び移った。
「ライラ、下で拾って!」
それだけ言うと、次から次へと果実をもぎ取り、自分の背中の籠や下にいるライラの籠や広げたエプロンへと投げ込んでいった。
とにかく、彼女の収穫は早くてライラには目まぐるしかった。近くの木にいたモンキー――これがマシラモンキーなのだろう――も慌てた様子で果実をいくつか取ると逃げている。ライラは息を切らせて上を見上げながら、必死にキリィを追った。
「まって! はやいです! 危ないですよ、キリィ!」
珍しく声を張るライラを、キリィはからからと笑いながら曲芸さながらの収穫をする。彼女の無邪気な笑い声は澄んだ秋空に吸い込まれていった。
まるで子供の妖精だわ。
叱りつけたくなるような、そのまま呆けていたくなるような、わけのわからない感情をライラはその場に投げ置いた。そして、地面に落ちていた果実に足を滑らせながらも、ひたすらにキリィを追いかけ続けたのだった。
汗だくになりながら、二人は地面に腰を下ろした。横に下ろした籠はこぼれ落ちんばかりに松林檎ベリーの実が入っている。それだけ採ったというのに、まだ上を見上げれば実りは多くあった。
水筒の茶を飲んで、互いに収穫したての松林檎ベリーを籠から一つだけ手に取り、齧る。先程よりも圧倒的美味しく感じる。空腹と疲労の身体に果汁が沁みるようだった。ライラは肩の力を抜いた。
暫くは立ち上がりたくない。全身がいつもより重くなったかのようだった。胸の張りも気だるさの一因だ。早く帰って搾乳したいが、この籠を持って山道を降りることも労力だ。
横に座るキリィは同じように汗をかいてはいるものの、別段疲れた様子もない。またもさっさと食べきり、手についた果汁を舐めて、すぐさまおかわりをしていた。
「生で食べられるのはほんの少しの間だけだからね。悪くなる前に殆どを干して保存するわよ。今年はライラも採ってくれたからいっぱいあるから長い間楽しめそう。松林檎ベリーは干すと、それはもうびっくりするくらい甘くなるのよ。最高よ」
「それは楽しみですね……一部使って良いのでしたら食事の時に使います。ジャムにもしましょうか。蜂蜜もまだありますから。あとは……」
ライラは何か他にも作れないかと思案した。非常に不愉快ではあるが、自分の乳を使えば菓子も作れるだろう。キリィは喜ぶはずだ。
キリィは歓声をあげた。
「どうしよう、ライラ。私こんなにワクワクしたことはないかもしれない。松林檎ベリーを生と干し以外で楽しめるなんて思わなかった」
言葉通りの楽しみだけを湛えたキリィの大きな目がライラを真っ直ぐ見ていたが、不意に――無垢なまま――何か思い付いたような気色を見せた。嫌な予感がする。ライラは身構えた。
「ねぇ、ライラ」
「やめましょう、キリィ」
「今お乳を飲みたいわ」
「キリィ……」
ライラの静かな静止の言葉は綺麗に無視され、思わず頭を押さえてため息をつく。
キリィは無垢なまま口を尖らせた。
「なんで? 名案なのよ。私は天才的なことを思い付いたの。この松林檎ベリーの果汁たっぷりの果肉を、あなたのお乳と混ぜたら、絶っっ対! 絶対に美味しいわ」
「その事に関して、私は絶対に同意しません」
「同意しなくて良いわ。でも私にはわかるの。ねぇライラ、おねがい。だってこれは一年にこの時期だけの味わいになるのよ。それにあなただっておっぱい張ってて苦しいはずよ。ねぇ、おねがい!」
両手を擦り合わせて懇願するキリィを見て、ライラは顔色を変えずに、しかし露骨に身を引いた。ライラに出来る精一杯の拒絶だった。
それにも構わず、キリィは愛らしく駄々をこね続ける。上目遣いでライラを見つめ続けた。異種族でさえもその健気さは伝わる。きっと彼女はそれしか頼み方を知らぬ子供のようにずっと――ライラが観念するまで――こうしているのだ。
こうずっと『主人』に拝み倒されれば、ライラが折れるしかない。
ライラは表情を変えないまま、果たして自分がどれほど我慢できるのかたっぷり検証した上で、秋空の下で渋々と上衣をはだけるのであった。
~どこかの山の麓のおうち~
「採ってきた! あの恐ろしい山さ入って、採ってきたど! ほら! 松林檎ベリーじゃ!」
「あああ! あんた! よく無事で! ああ! まぁ! なんて立派な松林檎ベリー! それもたくさん!」
「おとーちゃ! すんげぇー! うまそう! おらも食べていい?」
「ちっとだけな! ちっと熟れすぎてんのあんべ! ほれ、これ食え!」
「やったぁ! ……んん、んめぇ! あめぇ!」
「これで今年も干し松林檎ベリーを街で売れるべ。おらたちも冬の蓄えも買えるだ……んま……」
「山の狩人さんにも感謝しなきゃね……どんな人か知らないけど、ずーっと昔から住んで、おっかねぇ山からあぶねぇ獣が出んようにしてくれてんだもん……いいお人だよ……はぁおいしいねぇ……」