風の日には
暖炉の火を前に、キリィとライラは静かに腰を下ろしている。キリィはぼーっと火を眺め、ライラは編み物をしていた。
季節外れの寒さを運んできた強い風が、小屋に吹き付ける。毛皮で防寒をし、敷布も沢山敷いているとは言え、足や尻から冷えていく身体に、二人は暖炉から離れられずにいた。床に置かれたお盆にはポットとカップ二つ。温かかった茶はとうに飲み干され、ポットもカップも冷たくなっていた。
キリィは空のカップを手に取り、冷たさに気付くと深いため息をついた。ライラが編み物の手を止めた。
「また淹れてきますか?」
「あー、いいわよ。もう寒さ紛らわすのに何杯飲んだかわからないし」
「ではもう寝ては?」
「まだ眠くないのに、寝室で一人でこの風の音を聞いてたくないわ」
キリィは胡座をかいた膝の上で頬杖をつくと、口を曲げた。子供めいたキリィの我が儘にライラは何も答えずに編み物の手を再開した。
一際強い風が小屋に吹き付ける。キリィがこういう強い風が嫌いなことをライラは知っていた。こういう日、キリィは苛ついたり落ち込んだり、とにかく情緒が安定しない、とライラは思った。
「あー! いいこと思い付いた!」
ほらね。立ち上がって大きな声を出すキリィに、ライラは心で呟いた。
ライラがどうしたのかと聞く前にキリィは毛皮を身体に巻き付けていそいそとリビングを出た。
程なくして戻ってきたキリィの手には大きな瓶とグラスが二つが握られていた。
「そうよ。当たり前のことだったわ。どうせお腹を水分でたぷたぷにするなら、身体も暖まる強ーい酒を飲めばいいのよ」
もうすでに飲んだのではなかろうかと思うような朗らかさでキリィは座っていた椅子に腰を下ろした。
「ライラ、あなた飲める?」
「……さぁ。たぶん、飲めるとは思いますが」
「珍しいお酒なのよ。北方のお酒でストーラ黍で作った蒸留酒らしいわ。ユニスが少し前に持ってきてくれたのよ。あなたがきてからお酒飲むこと殆どなくなっていたから、飲むことすっかり忘れていて」
「……以前は飲んでいたのですか?」
ライラはキリィを見た。キリィは目の前の酒に舌舐めずりをしていた。
「ええ。一人だと何となく飲むことが多くてね……よっ、と!」
躊躇もせずにキリィは酒の詮をあけた。冷たい部屋にほんのりと酒気が混じっていった。ライラは手にしていた編み物を置き、瓶に手を伸ばしたが、キリィに制止された。
二人分のグラスに、琥珀色の酒が注がれていく。ライラはキリィの手をじっとみた。雇い主に酒を注がれる奴隷など、世界で自分だけなのではなかろうか。そんなことをライラは思った。
風が窓を鳴らした。
溢れそうなほど注がれた酒を受け取り、どちらからともなくグラスをかちりと合わせて乾杯する。かちりという小さな金属音は、寒々強い風の音と薪の爆ぜる音に紛れて消えた。
ライラは鼻にグラスを近付け、まずはその香りを味わった。深みのある香りと強い酒の臭いに鼻からじんわりと火照るようだった。ライラにとって酒は久方ぶりだった。
キリィも同じように香りを楽しんでいた。目を閉じて手で扇ぎ、うっとりとした様子で鼻から酒気を取り込んでいた。それも束の間、キリィはくいと大きく酒を煽った。
「……んんんん~~っ! くぅぅぅぅ!」
楽しそうに――ライラにはそう見えた――身悶えするキリィを尻目に、ライラも酒に口をつけた。
ああ。美味しい。北方の酒は初めてであったが、森を彷彿させる柔らかく甘い香りがじわりと口に広がり、口から身体中を駆け巡るような熱を感じる。たった一口であったが、ライラは自分がすぐに酔っていく自覚を持った。
「美味しいですね」
「ええ。美味しいわ」
ライラとキリィは顔を見合わせそういうと、また暫く黙って酒を味わい続けた。
ゆるい酩酊が外の風を忘れさせていく。
ライラは小さく、一口一口と味わい、編み物を続けたが、一杯が終わる頃にはその手を完全に止めてしまった。このままでは編み目を間違えるに違いない。編み物を横によければ、キリィからまた一杯酒が注がれた。
ライラよりも早いピッチで飲んでいたキリィは徐々に姿勢を崩していき、ライラに寄りかかっていった。
「おいしいねぇ、ライラ」
「……ええ」
「なぁんでライラと飲むって発想なかったんだろ」
寝惚けて甘えるような声音でキリィは言った。ライラは何も答えようがなかった。答えを待っていたわけではないのだろう。キリィの口はいつもより軽くなり独りでに喋りだした。
「でもそれもそうよ。ライラが来て最初はミルクにハマったじゃない。こんな美味しいもの飲めるのかって、感動したなぁ。それでライラのお部屋改装したり寝床作ったり色々やることあって、夜もぐっすりだったじゃない。そうこうしているうちに、ライラが淹れてくれるハーブティーが美味しいことを知るじゃない。毎晩飲むじゃない。お菓子も作ってくれるじゃない。それで美味しいお茶飲みながら夜もなんとなくあなたと話すじゃない。酒を飲む間もなかったわけだわ」
ライラは黙ってキリィの大きな独り言を聞いていた。何を答えていいかもわからないので、酒をちびりちびりと飲むことで誤魔化した。
キリィの小さな頭がライラに寄りかかった。見下ろせば、眉を潜め何やら考え込んでいるような表情で見上げていた。しかし焦点はどこか緩み、果たして本当に考え事が出来ているかどうか、ライラが見ても怪しい表情ではあった。
「どうしました?」
「……んー。そういや、ミルク作ってるのにお酒飲んでよかったのかしらって今更」
「ああ……大丈夫ですよ。幼児に飲ませる乳ではないのだから」
ライラは自身の胸を見下ろした。熱を持ち、今もじわじわと胸が膨らんでいくのを感じる。
「血の巡りがよくなると、乳もそれだけよく作られます。乳のために奴隷にさせられた同胞の中には興奮剤のようなものを使われるものもいるそうです。酒は種類によって乳の味が変わるなどという人間もいるそうですね」
言いながら、ライラは自分もいつもより饒舌になっているのを感じた。妙に恥ずかしくなったが、やはりキリィは何一つ気付いた様子もない。それどころか――。
「ふぅん……そうなのね」
手を伸ばしてライラの乳を撫でるような柔らかさでまさぐった。
どくりと心臓が跳ね、背筋は泡立ったが、叫ぶことなく、グラスを落とすことなく、ライラはただ口を引き結んだ。見下ろせば、酔いで薄目がちになってとろりとしているキリィがライラを見ていた。
「じゃあ明日のミルクが楽しみね」
「……」
囁くように放たれた言葉にライラが答える間もなく、キリィはずるずると頭を落とし、ライラの膝を枕に横たわった。
風が小屋を叩くが、キリィは緩みきった表情で目を閉じていた。
果たして、一体今の動作に、言葉に、表情に、どれほどの意味があったのだろう。ライラにとってどれも初めてのものばかりであった。キリィの意図を図りかねて、ライラは無表情のまま暖炉の炎を見つめ、グラスに残った酒を、一人でちびりちびりと飲み続けた。
こうして明日も女狩人は雌ミノタウロスの乳を搾る。
翌朝。
「……あ、確かにいつものとちょっと味が違うわ! 癖になりそう」
「…………」