この先の幸運・後編【完結】
自室のドアが開いた。
キリィは床に座り込んでしていた弓の手入れを止めて、ドアを見た。そろり、慎重にドアを閉めるライラがそこにいた。
「……寝ました。長旅で疲れたのもあるのでしょう」
いつもと変わらぬような声色であったが、心なしか普段のライラよりも柔らかく感じる。キリィは弓を置いた。
「寝かし付けおつかれさま、ライラ」
「何もしていませんよ。寝床に入って、すぐ寝息でした」
「いいね。寝る子は育つって言うんでしょ」
キリィが笑いかければ、ライラは目を細めて微笑を返した。
ライラはキリィが言わずとも、横に腰かけた。半年前よりも近くに座ってくれている気がすることにキリィは嬉しくなった。
「……本当にありがとうございます、キリィ」
「……ん。いいよ。あなたの子供なんだから、私も大切にしたい」
触れあえる距離に座るライラの身体に、キリィは頭を傾けた。
昨日までライラの部屋だった場所は今夜から子供の部屋になった。ライラ用に作った大きな寝床はまだあの子供には大きすぎるくらいだったが、そのうちちょうどよくもなっていくのだろう。何年後かはキリィの知るところではないが。
そして今日から暫くは、キリィの寝床だった場所にライラとキリィが寝ることになる。後日また別の――ライラ用の――寝床が作るかは決めていないが、キリィはどちらでも良いと思っていた。どちらにしろ、同じ部屋で寝起きし、そしてこの家は今まで以上に賑やかになるに違いないのだから。
ただ、一つ寂しいことがあった――。
キリィはライラを上目で見た。見られていることに気付くと、ライラはきょとんとした様子で首を傾げた。
「……キリィ?」
「……んー。……一つお願い事言っても良い?」
キリィは出来るだけ控えめに声を出した。配慮や気遣いという概念を少しずつ覚えていこうと心に決めているのだが、今からするお願いが果たして良いものかキリィは迷っていた。
ライラは怪訝そうな表情をしていた。そして何かを言おうとしては口を閉じ、を繰り返す。まだ要求の内容を伝えてすらいないのに熟考しているライラをじっと見つめながら、キリィはライラの言葉を辛抱強く待った。
ライラはようやく声を発した。
「……キリィ。お願いは構わないのですが……貴女、実のところ私より遥かに年上なんですよね? もうわかっているんですからね。今までは私よりも若く、子供のように可愛らしく見えていたので甘やかしたところはありますが、そういう『ズル』はやめてください」
「ズルってなによ。なにもしていないわよ」
何一つ悪いことや隠し事をしたわけではないので、キリィはライラの言い種にぷくりと頬を膨らませた。するとライラは複雑な表情をして、深くため息をついた。
「……わかりました。打算でやっているわけではないことが」
打算。言われてもキリィには何のことやらまるでわからなかった。腕を組んで首を傾げる。
「いいです。キリィ。それで、お願いというのは?」
ライラは諦めたようで、手でキリィを制止してそう言った。
急に話しが戻り、キリィは一度口を引き結んだ。一応、もしかしたら了承してもらえるかもしれないと言う希望にかけて『お願い』を言うことにしてみたが、こう改めて相手から振られると緊張する。
キリィはもじもじとして自身の足に目を落とした。
「……んーと、その。『飲み納め』したい、なぁ……って思って……」
「…………はぁ?」
不可解そうな声が頭上に振りかかる。キリィはライラに目を向けられないまま、言葉を続けた。
「ほら、明日からは、きっと、その、ライラのお乳はあの子の物になっちゃうわけでしょ。もちろん、それはそうあるべきだと思うし、わかってるけど、私はライラのミルクが好きで……暫く飲めてなかったし、急に『乳離れ』しなきゃならなくて、少し寂しくて――」
もごもごとキリィはそこまで言い、ちらりとライラを見上げた。
「最後に、そのぉ、飲み納めしたいなって……」
キリィが『お願い』を言いきる前に、ライラからここ一番の盛大すぎるため息が降ってきた。呆れ。それをそのまま呼気として出したため息だ。ライラは自身のこめかみに指を当てた。
「キリィ、あのですね……」
「わかってる。わかってるよ。すごく申し訳なさと恥ずかしさのあるお願いであるのは! でも――」
「そうじゃなくてですね!」
ライラは再びキリィを手で制した。ライラが声を張ることなど滅多にないので、キリィはそれだけで黙ることが出来た。
ライラは目を閉じて――頭痛でも感じているかのように、ぐりぐりと自分のこめかみを弄り続けたまま言葉を続けた。
「あの子はもうお乳を飲みませんよ」
「え?」
「飲みません。食事はもう大人とほぼ同じようなものを食べます」
「え?」
「なんでそこで疑問を感じるんですか! 先程も三人で一緒に夕食も食べたでしょう!」
「いや、そうだけど……」
それとは別に、お母さんのミルクというのは子供のものなのではないのか。キリィだって今まで毎朝飲めるときはライラの乳を飲んでいたのだから。キリィは何と説明していいかわからず、ぽかんとしてライラを見つめた。
「そうだけど、じゃありません。そうなんです。赤ちゃんじゃないんですから」
「え…………じゃあ、ライラのミルクは、なんで」
「私たちバトゥーユ種は子を生むと永久的に乳を作り続けるのです。だからあの子が飲まなくても、大人になっても、私の乳は出続けるのです」
ライラは胸に手を当てて、今度は小さく嘆息した。
「そして、乳を搾って出さなければ数日で病に罹り、場合によっては命を落とします」
キリィはライラの乳を見て、もう一度ライラを見た。初めて会ったときも、あの夜も、彼女の乳房はガチガチに硬くなり、彼女は発熱していた。
「飲み納めは好きになさってください。ただ、乳搾りは毎日するんです」
そこまで言うと、ライラは胸から手を下ろし、床についていたキリィの手にそっと重ねた。
「一人でも搾れますが時間はかかります。――たまには手伝ってくれると助かりますし、飲みたいなら飲んでくださって構いません」
「…………うん!」
重ねた手から温度が上がっていくようだ。ライラはもうキリィを見ていなかった。顔を僅かに伏せて口を引き結んでいた。それだけでキリィは嬉しくなり、むずむずしてきた口許を緩ませて笑った。
こうして、女狩人は明日も明後日も明々後日も、この先を共に生きていく間、ずっと雌ミノタウロスの乳を搾るのだった。
「ねぇ。ほんとにお母さんのミルク飲まなくていいの?」
「……あの、はい。……ぼく、赤ちゃんじゃないです」
「キリィ! 子供を辱しめるのはやめなさい!」
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本編はここで完結となります。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
途中かなり間が空いてしまいましたが、それでもまだ読んでくださった方々、感想をくださった方々、評価ブクマをしてくださった方々、本当にありがとうございます。
次のページは、紙媒体及びデータ媒体用『女狩人は雌ミノタウロスの乳を搾る』の書き下ろし短編の一部を掲載します。
もしよろしければ、少しですが楽しんで頂ければと思います。
2023年8月4日20時に公開されます。
ここまで、ありがとうございました!