この先の幸運・前編
いつ帰るかわからないキリィの帰りを待つ。寒い冬の間にも行っていたそれとは違う気持ちでライラは窓の外を見た。
あの頃のような不安と焦燥だけの日々とは違う。今はキリィがどこで何をしているか知っている。ライラはそれだけで心穏やかに待つことが出来た。
負傷したキリィが目覚めたあの夜から後、彼女の気持ちをライラは知った。心を砕いてもらっていたことは理解していたが、あれほど強い気持ちで想ってもらっていたことはわかっていなかった。その情がどういったものか明確でない。しかし、キリィはライラを奴隷や使用人として好意を抱いているわけではない。そしてライラも不思議とそれが嫌ではなかった。
その上で、まだライラの子供を受け入れてくれるキリィを、嫌いになどなりようがなかった。
キリィは今、ライラの子供を迎えに街に出ていた。先月ユニスとキリィが下山した際にその存在が明確になり、数日前に二人は再び街に下っていった。
ライラは家の留守を預かることになった。それだけの絆がここにあると想うと、ライラの心は軽くなった。
雪解け水が川になり、流れる頃。山の木々は芽吹き出し、窓から射し込む日差しは陽気に満ち、家の中を舞う埃がキラキラと燐光させた。
穏やかな時間だった。
窓から見える菜園にいた小鳥が飛び立つ。
ライラは窓の外をじっと見た。菜園の向こう、道の端に影が見えた。ライラはすぐさま家から出た。
玄関から飛び出れば、ゆっくりとした車輪の音が響いていた。ユニスの馬車の音だ。いつもよりも慎重なその運転にライラは生唾を飲んだ。
御者台に座るユニスの輪郭がはっきりしていく。彼は手を上げて振っていた。ライラはお辞儀を返した。
馬車はゆるゆると家の前、いつもの場所で止まった。
止まるや否や、荷台から飛び出るようにキリィが出てきた。キリィは下りるとすぐにまた荷台へ向いて、中に手を差し伸べた。ライラはどくりどくりと高鳴る自分の鼓動を抑えるように胸元で拳を握りしめた。
僅かな不安があった。見ても何の感慨も浮かばないのではないかと言う不安だ。
負傷していたキリィを看病していたあの時、確かにライラは心の底から子を手離す選択を選んだ。一度はどうしようもなく手離すことになったが、二度目は自分の本心からだった。見も知らぬ子よりも、目の前で自分の為に苦しんでいるキリィを選んだ。
結果的に諦めなくて済んだが、ライラは自分の薄情さを感じていた。そんな女が、生まれてから一度も見ていなかった子を見て何を感じるのかが不安であった。
それでも、どうにかしたいと思う自分と、どうにかしてくれようとするキリィがいた。
馬車を見る。
キリィの差し伸べている手に、ほっそりとした小さな腕が、重なった。茶褐色の小さな、子供の腕だ。
キリィの手を掴んだその小さな手の主は、彼女に引っ張られるまま軽快に馬車から下りてきた。元気そうに跳ねて地面に足をつける。たんっと蹄の音が響く。その子供は、自分が初めてここに来たときのぼろ布に比べたら上等な――普通の――衣類に身を包まれていた。
キリィが子供に何かを話していた。
その子供は戸惑いのある表情でキリィを見上げ、そしておずおずとライラの方を向いた。
どくり。どくり。どくりどくり。
子供が数歩前に出た。ライラもまた同じ様に前へ出た。
「……はじめまして、お、おかあさん」
不安げに、そしてはにかむように、その子供はそう言った。
ライラは地面に膝をついた。子供の顔の高さと自分を合わせて、その顔を覗き込む。
自然と手が伸びていた。子供の頬を柔らかく両手で包む。
明るい茶褐色のミノタウロス。顔だちは亡き母と弟を思い出す。目の形が特に良く似ていた。目の色は自分と同じ明るさのある朱色である。ふわりと顔を覆っている幼い毛の感触は懐かしさがあった。
じわりじわりと、ライラは自身の目に涙が溜まっていくのを感じた。溢れる。その涙の熱さが全身に広がっていくようだった。
「……初めまして」
ライラに言えたのはそれだけだった。堪えきれずに、ライラは目の前の子供を抱き締めた。子供の顔は見えないが強い抱擁に戸惑う気配が感じられた。それでもライラはしがみつくように抱き締め続けた。
『……君のこの不幸、この先の不遇に、せめて今だけは少しでもマシと思える時間にしたい』
あの先に不遇などなかった。失ったものさえも取り戻せるような幸運に恵まれた。自分から何かをしたわけでもないのだから、まさに幸運に恵まれたのだ。
ライラは腕の中の子をひしと抱いたまま、顔を上げた。少し離れたところからキリィは自分を見ていた。
彼女が、キリィが全てを与えてくれた。
「――ありがとう……っ! あなたに会えて――会わせてくれて、ありがとう」
嗚咽が漏れそうになるのを堪えて、ライラはキリィに言葉を伝えた。
キリィは優しく、微笑んでいた。
来週の更新(後編)で最終話です。