情の匙加減
久々の市井は非常に居心地が悪く、そういえばそれに嫌気が差してあまり山から下りなくなったのだった、とキリィは思い出した。
ユニスの馬車の荷台に揺られている間は退屈ではあったが、滅多に見ない光景に浮足立ってはいた。普段、人よりも動物をよく見るのだから、人が歩いているだけで物珍しさがあった。童心に返るとでもいうのだろうか。人の歩き方、荷物、背格好。すべてが面白かった。
ところが街中に入り、馬車から下りなくてはならなくなると、『珍しい』が自分になってしまった。キリィは不快感に満たされていった。
誰も彼も、通り過ぎるキリィを凝視する。ユニス曰く、「あんま言いたかないけど、姐さんが綺麗すぎるからだよ」と教わり、以前は少し鼻高々になったものだ。しかし、強い感情をとれる眼差しを四方八方から浴びせられ続ければ、辟易するしかない。
ただ、それが有利に働くこともあるということを、今まさにキリィは感じていた。
目の前のふくよかな初老の男は、相好を崩してキリィを見つめていた。部屋に入ってキリィを見てからずっと、横に座るユニスは眼中にないくらいに、キリィだけを見つめていた。
キリィと男を隔てるテーブルの上には僅かに発光する獣の角――あの『狩り』の戦果だ――があった。本来はこれが目的でこの場を設けてくれたはずの男であったが、それさえも目に入っていない。
「いやはや、こんなに美しい狩人だったとは存じ上げませんでした。ほほほ。狩りの女神といったところでしょうか。なるほど、唯一無二の珍品を持ってくるのも納得です」
狩人と美しさは関係ないのでは、とキリィは思うが、ユニスから「絶対しゃべるな」と言われているので、とりあえず鷹揚に頷いておいた。それも目の前の男には好印象だったようで、満足げに何度も何度も頷いた。
ユニスは、キリィの見たこともないような朗らかな声色で男に話しかけた。
「どうでしょう、旦那様。お約束通り、狩人と共に持って参りました。こちらの品を買ってはもらえないでしょうかね。先日お伝えした条件で……旦那様にとっては決して悪い条件ではないどころか、かなりの破格だと思いますよ」
下心を感じない爽やかな笑みを横目で見て、キリィは失笑してしまいそうになるのを堪えた。先ほど偉そうに頷いた自分を見てユニスも同じように思ったことだろう。
声をかけられて、男はようやくユニスとテーブルの角に目をやった。そうしてようやく男のたるんだ顔に締まりが出てきた。
「もちろんですよ。私が見たところ、あの伝説の角と同じように見えますからね」
ちらりとしか見ていないじゃない。キリィは心中で皮肉った。しかし、実際あの山の天上で狩ったことも、普通の獣じゃないことも嘘偽りないので、これまたキリィは小さな笑みを見せて頷いた。
男はそれが嬉しかったのか、眦をだらりと下げて再びキリィを直視した。
「貴女がとても神秘的な狩人であることはよくわかりますしね。ただこちらも商売ではあるので、一度鑑定士をここに呼びますよ」
「ありがとうございます」
礼を返したのはユニスだった。会話を禁止されているキリィは僅かに目を伏せて感謝の意を表した。
男は柔和な笑みでそれらを制した。
「しばらく滞在していただくことになりますが、少々この部屋でお待ちいただけますかな? 不自由はさせません。召使たちもつけましょう。こちらの部屋には浴室などもしっかりあります。着替えも用意させましょう。どうぞ、長旅の疲れを癒してお待ちください」
そちらが『本命』だったのかもしれない。男が鑑定士を呼びつけるまでにどれくらい滞在することになるのかはわからないが、相当好印象だったのだろうとキリィは感じた。もし万が一、鑑定士が無能で偽物だ宣ったとしても、どうにかなるかもしれない。
ユニスからも喜色がはっきり見て取れた。
「ありがたいです。ではその間に――」
「ええ、もちろんです。それが条件の一つでしたものね。部屋の外にもう待機させてありますとも」
そういって、男は重たげに腰を上げた。近くの使用人に目配せする。何も言わずとも了承したようで、使用人は静かな動作で部屋のドア――豪奢な扉だ――を開けた。
扉の前に立っていたのは、――立派すぎる巨躯をパリッとした使用人服で包んだミノタウロスだった。
「以前、お買い頂いた雌ミノタウロスと交尾した『雄』です」
男はそう言って、そのミノタウロスを手で指し示した。
ミノタウロスと入れ替わりで男は出ていく。使用人も主人である男に付き従って部屋を出た。
キリィは座ったまま、ミノタウロスを見上げた。
どんなに上品な使用人服を着ていても暴力的すぎる威圧感があった。目はぎょろりとした赤目で、見慣れているキリィですら圧倒される。一切乱れのない着用で、露出している肌は首から上しかない。ライラのような茶褐色の肌ではなく、黒褐色であった。
一年近く前、雄ミノタウロスを欲しがった。その恵まれた体格はきっと狩りのパートナーとして最高だろうと思ったのだ。
結果的に得られたミノタウロスは雌であり、彼女は狩りのパートナーになりえなかったが、それでも欠かせないパートナーであり、共に暮らす幸せを与えてくれた。
キリィはライラを想った。
狩りで負った傷を癒し、改めて彼女ともう一度話しをした。
不思議と、乳を飲んだだけで会話すら出来なかったあの夜でキリィのわだかまりは晴れていた。
新年祭からずっと、影も形も知らない謎の『子供』にライラを盗られる気がしていた。ライラがそう望むなら『子供』を買い取りたいと思いつつも、それが最後でライラは自分を捨てて『子供』と暮らすのではと怯えていた。
しかし、ライラは自分を優先してくれた。『子供』もいらないとはっきり言った。それだけでキリィの心は軽くなった。
そうすると途端に視界が晴れるようだった。
ライラの『子供』を取り戻してあげたい。それがキリィの中で嘘偽りない気持ちであったこともわかった。何より、――ライラに『子供』を捨てて欲しくなかった。
キリィは必死にそれを説いた。これほど誰かに心の内を吐露し、わかってもらおうとしたことはなかった。強い情熱が心から湧き出てくる。それがどういうものかはわからなかったが、気分はよかった。
声を震わせて「ごめんなさい。ありがとうございます……」と泣くライラを抱きしめた時、もっと強くなりたいとすら思った。彼女に申し訳なさなど感じさせないくらい強くなりたいと。
追憶に胸を熱くしていると、ミノタウロスが先ほどまで彼の主人が座っていた席にゆっくりと座っていた。
「初めまして。主人から事は伺っております。――ノーマン・バーロウと申します」
目の前の雄ミノタウロスは低く重厚な声でそう告げた。キリィはその名を心の中で繰り返した。妙なむずがゆさがある。睨みたくもなる。
キリィがむっつり黙っていると、ユニスが外行きの顔のままに雄ミノタウロス――ノーマンに手を差し伸べた。
「私はユニス。こっちが、ライラを購入した狩人のキリィ」
「どうも、ユニス殿。キリィ殿」
ノーマンの大きすぎる手がユニスの手を包み隠すように握手をし、同じようにキリィの目の前にも差し出された。キリィは僅かに躊躇いながらも握り返した。ノーマンの手はライラのそれよりも無骨ではあったが、それをひた隠すように相手を慮るような繊細な触れ方をしてくれた。
「では早速本題に入りましょう。ご安心ください。繊細な話になると思うので、他の方々には席を外してもらっています。どうぞ、気を楽にしてお話ください。私は見ての通り、この家の使用人のような扱いで、今はあなた方に仕えています」
「ありがとう、ノーマンさん」
そう答えるユニスは幾分かいつもの調子であった。その証拠に彼は肘でどんとキリィの身体を突いてきた。痛くはないが、催促されるような動作にキリィはムッとした。
「……ありがとう」
もごもごとそう言えば、ノーマンが少し笑ったようにキリィには見えた。
ノーマンはその見た目にそぐわなく、穏やかだった。
「お気になさらず。――それで。ライラでしたね。記憶していますよ」
そういって、彼は大きめの冊子を取り出した。
「主人が管理しているミノタウロスに種付けしているのは全て私です。いつ、何種の誰と行為があったか、そしていつ、誰が、男女どちらを産んだかも、私がすべて管理しています」
「……なんと、まぁ」
ユニスはあんぐり口を開けた。キリィには想像がつかなかったが、面倒くさそうなことしているな、など考えた。
「ライラ、彼女自身はこれを見ずとも思い出せます。茶褐色で繊細な顔だちのバトゥーユ種。体つきは平均的でしたね。目の造りが可愛らしかったですね。色味も朱に近い。……彼女は非常に印象的な女性でした」
ノーマンは手にした手帳を軽く振りながら、優し気に言葉を続けた。
「大抵の相手は私にひどく怯えるか、媚びを売るか、……まぁそれはいいですね。しかし、ライラはどことなく超然としていましたね。落ち着いているとも違う。境遇を受け入れるもあそこまで行くことはありません。美しいと思いました。所作や言葉遣いからも育ちの良さを感じたので……なかなか辛い状況だったでしょうに。――そういうこともありまして、彼女にはいつもより、他の女性より優しく接しました」
ぱらぱらと手帳がめくられる。ノーマンのその話しをあまり聞きたくないとキリィは思ってしまった。
「なので、彼女が男児を生んだことも喜ばしかったですね。少なくとも女児よりも重宝されて良い環境で生育されます。健康状態も良かったので、私は彼女の息子をどこよりも良い施設に送りました」
めくられていた手帳が止まった。差し出される。几帳面さが伺えるその手記をユニスとキリィは覗き込んだ。ユニスは読めているのかも知れないが、キリィには殆ど理解が出来なかった。
「先日、このお話を主人から聞いてすぐ確認しましたが、今も健康に育っているようです。主人が管理する台帳とも合致していました。主人との売買が成立すれば、問題なく買い戻せます」
手帳がノーマンの大きな手から離れ、テーブルに置かれた。
「私の言うライラと、貴女が買ったライラが同一人物ならですが」
ノーマンの手が彼の膝の上で組まれた。
キリィは深く息を吐いた。
「……君のこの不幸、この先の不遇に、せめて今だけは少しでもマシと思える時間にしたい」
「ああ……」
ライラから教わった言葉をキリィが一気に言いきれば、ノーマンも吐息のような声を漏らした。ノーマンが苦笑したようにキリィには見えた。
「間違いなさそうですね。私が彼女に言った言葉です。……普段はそんなことをわざわざ言いませんから」
「……そう」
キリィは口を引き結んだ。ライラが覚えていた言葉とノーマンが結び付いたことが面白くなかった。互いに互いのことをしっかり覚えていたことが何故か悔しく感じた。
ノーマンは何度か頷き、
「では、すぐに手配出来るようにしておきましょう。ライラの為にも」
そうはっきりと言った。
ライラの『子供』を取り返すことができる。キリィはその事だけを喜ぼうとしたが、どうにもモヤモヤした。
「……なんでアンタこんな仕事してんの。種馬……種牛して、子供どっかに売り飛ばして」
「おい、キリィ」
モヤモヤをそのまま口に出せば、それは中々に酷い言い種で、すぐさまユニスに叱咤された。しかし、やはりその言葉が一番合っているとキリィは感じた。
目の前のミノタウロスは、ただ同種の奴隷を管理しているのではなく、ようは自分の子供を売り渡しているのだ。例えそれがライラのように少しは懸想した相手の子供でもだ。
「だってそうじゃない、ユニス。これだけしっかりした雄ミノタウロスで、別に馬鹿じゃなさそうなのに、なんであんなぷちゃぷちゃした人間にわざわざ仕えて自分の子供売り渡しているのよ」
「こら! 言い方!」
まるで子供を叱りつけるかのようなユニスの声に、キリィはそれ以上は言うのをやめた。
言われたノーマンは驚いているようにキリィには見えた。面食らったといったところか。
「……なんというか、キリィ殿は話すと印象が変わりますね」
「どういう意味よ」
僅かに笑いさえも感じるノーマンの声に、反射的にそう返せば、横のユニスが天井を仰いで盛大なため息をついた。
「いえ、幾分か……安心しました。ライラは今そんなに悪い生活をしていなさそうで」
「当たり前よ。アンタたちはライラを家畜扱いして奴隷として売ったんでしょうけど、私は雇おうとして買ったんだし、今では一緒に暮らす大事な家族なのよ」
キリィが強く言えば、
「そうですか……」
深く息をつきながらノーマンは椅子の背凭れにゆっくりと寄りかかった。ノーマンは穏やかなまま、キリィを真正面から見た。
「家族の為に、こうしていると?」
「そうよ」
「私もです」
「はぁ?」
キリィは思わず聞き返した。かなり無礼で、且つ間抜けな聞き返しになったが、ノーマンはそれを揶揄することなく頷いた。
「私も家族の為にこの仕事をしています。――亡き妻との間に出来た唯一の子供の為にね」
ノーマンは穏やかであったままだが、一切悪びれもない様子でそう言いきった。迫真ささえも感じる。キリィは二の句が継げられなかった。
「私の子供は……男児ですがね、妻に似て非常にか弱く病弱なんです。女児よりも弱いかも知れない。幸い、その弱さ故に見た目は珍しい純白な白毛で……――主人のお嬢様に気に入られたのですよ。そして私も主人に気に入られた」
ノーマンはそこまで言うと、席を立った。何処へ行くのだろうと見ていれば、部屋に置かれている茶器を静かに運んできた。丁寧且つ慣れた様子で茶を注ぐノーマンをキリィは眺め続けた。彼の言葉通り、金持ちに気に入られたミノタウロスだから、この部屋に独り残されるほどの信頼があり、ここまで洗練されているのだろうと納得出来た。
テーブルに茶が置かれた。
「息子はまだ成人を迎えていない。肉体的に弱い分、知性や品性、そして庇護を手に入れなければ生きづらい。息子とお嬢様の関係が良好で、私も主人に仕え続ければ、その間に息子はそれらを手に入れられる。……お二人とも、砂糖は?」
「……いえ」
砂糖は好きであったがノーマンの淡々とした語りに、どうにも茶に砂糖を入れたい気分にはなれなかった。ユニスも同じなのか、彼も首を横に振った。
ノーマンは砂糖を入れるようで、砂糖壺からさらりとそれを茶に入れた。ノーマンの大きな手がソーサーに置かれている小さじを摘まむ。不釣り合いなそれでゆっくりと茶をかき混ぜた。
「私にとって家族、息子は亡き妻との間に生まれたか弱いあの子だけです。他に私の子種で生まれた子がいたとしても、私にとってそれらはただ『私の唯一無二の息子』の為に捧げている家畜でしかないのです」
酷い言葉だ。キリィは思ったが、先程までのようにすぐ口について言えなかった。
ノーマンの口にカップが近付く。しかし口がつかずに止まった。ノーマンは茶を見ているのだろうか。
「情の匙加減で人は家畜にも奴隷にも家族にもなるんです。貴女はわかりますよね。キリィ殿」
それだけ言うと、ようやくノーマンはカップを口にした。カップごと丸呑み出来そうな口に茶が少量入っているのだろう。それがキリィには妙にしっくり来た。
カップがソーサーに戻された。
「……残酷だと思いますが、狩りや食事なんかと同じです。ほんの少しの憐憫を捧げて、糧にする。ただそれだけです」
「でも、ノーマン。あなたはそれでもライラの子供を助けてくれるのね」
「もちろんです。不利益はないし、手を貸す理由が十分にあるのですから。言ったでしょう。『情の匙加減』ですよ」
「…………なら、いいわ」
キリィはようやく茶を口にした。程よい苦味があった。ミルクがあればな、と思った。
「……そんなこと言ったの? 気障なミノタウロスね、そいつ」
「そうですね。私も気障だと思いました。行うことは大概なのに」
「なんか自分に酔ってるんじゃないの、そいつ」
「だったかもしれません。もしかしたら、そうすることで少しの罪悪感から逃げようとしていたのかもしれません。勿論、わかりませんが」
「絶対そーーよ」
「ですが、あの時の男はその言葉通りとても親切に私を扱ってくれました。決して無体を働くことなく。最初から最後まで気遣いを感じたんです」
「……なんか聞きたくない! その話し!」
「……ふふ。すみません」