火を灯す糧
目が覚めたのに、目が上手く開かないような気がした。目が上手く開かないので身動ぎしようとしたが、身体はもっと動かなかった。ゆっくりと浮上していく意識の中で極々当たり前のようにやっていた『目覚め』を再現しようとしていたが、どれも思い通りにいかず、キリィは焦れていった。その感情で火が灯ったかのように、キリィは覚醒していった。
するとようやく、耳から音が入ってきた。荒い呼吸、薪の爆ぜる音、吹き付ける風、強い鼓動。肌は暖かさを確かに感じており、その感触は知っているような知らないような不思議な既視感と共に、妙な心地よさがあった。意識して呼吸すれば好きな匂いがする。乾いて気持ち悪い口にさほど不快ではない甘みもあった。
身体が揺れる。頬が何かで濡れた。
キリィは声を出そうとして、短く呻いた。
「……キリィ? キリィ」
名前を呼ぶ声が耳元の、驚くほど近くにあった。余りの心地よさに頭を声の方へ擦り付けようとした。本当にそれが出来たかは定かではないが。
「キリィ。キリィ。声、聞こえますか? キリィ」
ライラ。ライラ。
名前を呼ぼうとして、また呻き声だけが喉を鳴らした。
「キリィ……っ」
耳元でライラの声が聞こえる。キリィは戸惑った。その声は聞いたことのない湿り気があった。
泣いているのかと僅かに理解出来たのは、ライラから聞いたことのない嗚咽が聞こえたからだ。
いや。
そもそも――他人の嗚咽など聞いたことがなかった。
四苦八苦して薄目を開ければ、目の前にはやはりライラがいた。彼女の赤玉の瞳はキラキラとし、その回りさえも赤くなっており、目元から顔全体がひどく濡れていた。
本当に泣いていると認識すると、キリィ は余計に状況が理解できなくなっていった。
痛い目にでもあったのだろうか。熱がありそうだ。そのせいだろうか。そもそも今はいつで、ここはどこなのだろうか。何かを確かめようとしても、キリィは自身の全てが鈍麻していることしかわからなかった。
目の前のライラが一度きつく目を閉じると、彼女の目に溜まっていた涙が弾かれた。僅かに身体を起こされる。
「……目が、覚めたのですね。今、白湯を……」
「い、らぁ……な」
掠れて痛い喉から無理矢理に言葉を紡ぐ。そうでなくては今目の前にいる弱々しい――初めて見る――ライラがいなくなってしまう。
「ご、こに、いで」
ライラが聞き取れたか定かではないが、あとは意思を伝えるべくキリィはライラを見つめた。
少しの間ライラは逡巡した様だったが、大人しくまたその巨体を横たえた。
そこでようやくキリィはライラが上裸だったことに気付いた。暫く見ることも触ることもなかった、他より柔らかい色の茶褐色の四つ乳が硬く重たげに、眼前で露になっている。四つの先端から乳がじゅわりと滴り、ライラの肉体を伝うように溢れていった。ぽたり。ぽたり。
それを見れば、口にあった謎の甘みにも答えが出た。キリィは臓腑の奥から沸くような飢えを覚えた。
飲みたい。何か飲むならこれが飲みたい。口に満たして、嚥下したい。身体の内部にこれを入れたい。
「ご……が、いぃ」
「……は?」
これ以上声は出ない気がしていたが、キリィは渇望のままを言葉にした。ライラは訝しげだ。聞き取れなかったか、意味がわからなかったか。キリィは焦れた。しかしライラの乳を指で指し示そうにも腕は動かず。無理に口を寄せようにも首から背中にかけては樹木になってしまったかのようだった。
必死に乳を凝視する。
しかし、それでもライラには伝わらなかった。煮えくりたつような激情を伝えているつもりが伝わらず、キリィは焦れで狂いたくなっていた。
「…………私の子供のことを、知ったんですね。キリィ」
乳に念を送るように睨み付けていたキリィの頭に、そんな言葉が不意に降ってきた。キリィにしてみれば、余りにも脈絡のない言葉に追い付けず、目を数回瞬かせる。意外に瞼は動くようだとどうでもいいことを考えながら、キリィは眼球だけをライラに向けた。
ライラの眼差しは先ほどの涙も相まって暗く、淀んでいるように見えた。虚ろとも言えるし、明確な意思が籠っているようにも感じる赤玉の瞳はキリィから逸らされることなく、ライラは話を続けた。
「私はそれほど馬鹿ではありません。その瞬間気付かなくても、思い返してみて、どうしてあなたが私を避けるようになったかくらいは、わかるんです。気付ける時間が充分にあったんです。――新年祭の夜、貴女はユニスと私の会話を、聞いてしまっていたんですね。私の子供の存在を、知ってしまったんですよね」
ライラの言葉を反芻して、キリィはようやく自分がどうしてこうなっているのかを、ゆっくりと思い出せた。同時に気付く。自分がボロボロになるまで痛めつけられて、ようやく手に入れた『戦利品』がどこにあるのか? 他の荷物は? ライラが生んだらしい子を探すに必要な金を手に入れるために、新年祭からずっと狩りを続けていたのだから。ようやく大金を手に出来るかもしれない獲物の角を収穫できたのだ。
また、あれと戦うなど――。
思っただけでも背筋が凍り付きそうになる。身体はとうに強張っていたが、動けていた顔までもがひきつるようだった。
「キリィ」
何を思ったか、ライラの大きな手がゆっくりとキリィの頬を撫でた。その優しい動作にキリィの緊張が僅かに溶けるようだった。
「一体どこまで行って、何を狩っていたのか私は知りません」
「……」
「知りませんが、貴女やユニスを見ていれば、私の子供を探すために金を集めていることは、わかります」
ライラはゆっくり、ゆっくり、キリィの頬を撫で続けていた。心地よさにキリィは目を細めた。子供はこうやって親に撫でられるのだろうか。そんなことさえもキリィは思った。目の前の乳房から滴り落ちる乳の香りがまた優しい。飲みたい。
「その金のために、貴女がこんなに傷付いて、私から離れていくというなら――」
ライラの声は子守歌のようだ。話半分、キリィの思考からは無くした戦利品のことはまたすっぽ抜け、この気持ちよさに夢見心地になっていた。
ライラの言葉は続く。
「私は子供などいりません。二度と探しません」
その言葉は寝耳に水というよりは、急に雪の中に放り投げられたかのようだ。キリィは目を覚ましたかのように目を見開いて、もう一度ライラを見た。
ライラは静謐だった。
「いらないです。目の前の貴女を失うくらいなら、見たこともない子など、いらない」
頬を撫で続けていたライラの手が、キリィの頬から首へ、肩へ、腕へ。そして、背中へ。そうしてキリィはライラに抱き寄せられた。暖かいを通り越して熱い。しかし、心地よい。先ほどから求めてやまなかった乳房に埋もれる。ライラと彼女の乳の甘い香りに包まれる。
「いらないです。だから、もう、やめてください」
「ぞん、なご、……言わ」
そんなこと言わないで。
言いたくても、その言葉はキリィの喉から掠れたようにしか出ず。そしてライラの乳房の肉に吸い込まれるように消えてしまった。
ライラみたいな優しい人ですら、子供をそうして手離すなんて聞きたくない。それはキリィ自身に返ってくるから。
だと言うのに。
自分を見つめて「他はいらない」という、その言葉がこの上なく嬉しいとキリィは感じてしまった。
自身の眦に熱い涙が溜まっていくのをキリィはしっかり感じた。それを止めることなく流す。
目の前には、大好きな乳があった。最早、指も首も動かさずともキリィの唇に触れるところにその乳首はあった。それを唇で咬み、ちゅくと吸う。温かい液体が咥内に入っていく。
これはライラそのものだ。優しさの象徴だ。
言葉にならない想いと共に、キリィはそのミルクを口に満たして飲み下した。
◆◇◆◇
「一体どういうことなんだい、リーオの旦那。あの女は、その子を置いて、どこに」
「知らねぇよ。人のこと産婆扱いで産むの手伝わせて、てめぇは出すもん出したら、白く光って人んちの屋根ぶっ壊して、どっかに飛んでいったよ」
「……は、はぁ?」
「俺は好きだった女の股ぐらをこんなことで見たくなかったよ……」
「旦那……」
「……俺にどうしろってんだ。家畜ですら育てたことねぇよ。ふざけんなよ。兄貴も、あいつも。なんなんだよ。捨てちまちたいよ、こんなもん」
「そうは、言ってやらんでくださいよ。だって、こんなに可愛いじゃねぇですか」
「…………しっているよ。だから、苦しいんじゃねぇか」
◆◇◆◇