特別な存在
『次もまたこの地で出会えますよう。今生のあなたの命は私が貰う。我が名はリーオ。後のあなたの糧となる者』
それはキリィにとって『おじいちゃん』の祈りの言葉であった。
狩りを教えてもらったばかりの頃、そう告げて獣を仕留める『おじいちゃん』を見ながら、自分もいつか同じ言葉を唱えて獣の命を頂くのだと、キリィは思っていた。
そしていざ初めて自分自身だけで狩りを許され、同じような祈りの言葉を唱えようとしたとき、どういうわけか止められた。
瀕死で苦しむ獣を前に『おじいちゃん』は何か思案していた。自分の手の中でゆっくりと小さな獲物――矢が深々と刺さったラブットが息絶えそうになるのを感じながら、キリィは『おじいちゃん』を見上げた。
すると、『おじいちゃん』はひどく真剣な眼差しで山の方を見上げていた。
『お前にその祈りは合わないかもしれない。この地に住まう多くの命は、互いに命を分け合ってこの地を巡るが、きっとお前が送る命は違う。……『次はこの地ではなく、静かな神界で出会えますよう。あなたの命は私が貰う。我が名はキリィ。神界の門番にその名を伝えよ』……こう唱えたらいい』
言われた祈りの言葉は、キリィにはすぐに入ってこなかった。聞き慣れたものとは違う。すんなり理解できずに、そうこうしている内に初の獲物は息絶えていた。
そうして教えてもらった『祈りの言葉』を実際に唱えたのは二回目の狩りからだった。
唱えてみても、やはりしっくり来なかった。一緒に暮らし、一緒に狩りをする『おじいちゃん』と何故違うのだろうとキリィは考え続けた。聞いたとしても『おじいちゃん』はちっとも説明はしないので、キリィのもやもやは深まるばかりだった。
しかし、いつの頃からか自分と『おじいちゃん』が違うのだと納得が出来るようになった。そして、自分のほうが特別な存在なのだと思うようになった。それはそれでキリィはいい気になった。
自分が屠る命は皆が山の頂にある神の世界にいけるのだという。
それはすごいことなのだ、多分。
キリィはそんな自信を胸いっぱいに、あの日の『おじいちゃん』がしたように山の上を見上げた。
その日は、特に何もない日であった。決して雨が降っていて足場が悪かったわけでもない。何か食器が割れたわけでも、屋根が壊れたわけでも、妙な胸騒ぎなども一切なかった。いつも通りに『おじいちゃん』と朝食を取り、いつも通りに一緒に狩りに行った。
その頃にはもうキリィはいっぱしの狩人であった。『おじいちゃん』は決して耄碌していなかった。調子に乗りやすいキリィに決して手を抜くことを許さず、自身も一切の油断をせずにいた。
だからきっと運が悪かったのだとしか言いようがない。
『……ころ、してく……こ、ろ』
血を含んだ咳と共に『おじいちゃん』のか細い声がキリィの耳に届いた。どんな小さな音も逃さないキリィの耳はしっかりとそれを拾い上げる。キリィは惨状を前にただ立ち尽くしていた。
身体をおかしな方向に捻じ曲げ、腕が千切れ、腹からは臓物を出しながら、『おじいちゃん』はキリィを虚ろな眼差しで見ている。その横には首が取れかけた大型の獣が事切れていた。
二人で仕留めたと思っていたその獣が最期の力を振り絞って、『おじいちゃん』に反撃してきたのだ。
『た、のむ……キリ……おれを、ころ……』
本当に幸か不幸か、『おじいちゃん』はまだ生きていた。しかしもうどうにも助からない。小屋に運ぶ前に死に絶えるだろうし、運べたとしてもこの有様では治しようがない。だから、彼の願いももっともであった。最期を苦しませないためにすべきであった。
しかし、キリィは首を振った。それでもまだ彼のか細い懇願が聞こえてくる。
キリィは首を振り続けた。
『いやだよ。私が殺しちゃったら、『おじいちゃん』は神の世界に行っちゃって、ここには帰ってこないんでしょ?』
そう答えるキリィの声は悲しみの薄い、淡々としたものだった。
このまま『おじいちゃん』の死を見守っておけば、きっと彼は時を経て、またここに帰ってくるに違いないと思った。そう教わってきたからだ。
しかし、自分は特別だ。キリィはそう思っていた。自分がここで『おじいちゃん』に止めを刺してしまえば、ここでもう会えないのだ。遥か遠くの頂に行ってしまうのだ。
キリィはだから立ち尽くして、――『おじいちゃん』の死を待った。
動かないキリィに、『おじいちゃん』の虚ろな眼差しが細められた。一度激しく血を吐くと、彼は憎々しげに言葉を紡いだ。
『……兄貴と、てめぇの、母親のせいで……俺の、人生は、めちゃくちゃだったよ』
それが『おじいちゃん』の最期の言葉であった。どういうわけか、その恨みの籠もった言葉はそれまでの懇願と違いか細さはなく、むしろ怒られたときのように――強い風のように、ごぅと迫り――、しっかりとキリィの耳の中に残っていった。
それからキリィは動かなくなった『おじいちゃん』を、狩った獣と一緒に小屋まで運んだ。獣と同じように解体するわけにはいかず、どうするかを思案した。しばらく考えて、昔買ってもらった絵本に描いてあった『墓』を思い付いた。自分の両親もきっと『墓』があるに違いないと思い、それを『おじいちゃん』に聞こうとして彼が喋らないことをしっかりと認識した。
小屋の近くに誰の墓もなかった。仕方なく、キリィは『おじいちゃん』の亡骸を家の畑に植えた。
今思えば、あの埋葬は間違っていたとわかる。
しかし、『おじいちゃん』を殺さなかったのは間違っていたのかどうか、未だにキリィはわからなかった。
夜の風の音が『おじいちゃん』の声に聞こえるようになったのはいつからだうか。夢の中に『おじいちゃん』が出てくれば、ある日は『間違いではない』と静かに言い、またある日は『間違いだ』とキリィは怒られた。
未だにわからない。誰も教えてはくれない。教えてくれる人は誰もいない。
自分が寝言を叫んだ気がして、キリィは跳ね起きた。すぐに自分の身体をまさぐる。特におかしなところや怪我はなかった。代わりに服が張り付くような汗が全身を濡らしていた。怪我はなかったが、熱を出したのだろうか。
それから寝かされている場所が自室のベッドとわかり、キリィは幾分かほっとした。ここにいるということは自宅に帰れたことは確かなのだ。
それから窓を見る。もうすでに日が暮れていた。驚いてベッドから下りたとき、開いた自室のドアをキリィは見た。
「キリィ! 大丈夫ですか? まだ寝ていてください」
珍しく床を軋ませてライラは駆けるように近付いた。キリィはすぐに首を振った。
「だめよ! 解体しなきゃ! 状態が良くないと高く売れないの!」
「落ち着いて! もう解体しました! 一緒に! 座って!」
大きな声と共にライラにぐっと押さえ込まれ、キリィは膝を曲げてベッドに再び腰を落とした。自分が力が抜けているのか、それともライラが意外にも強く押したのか。わからないが、キリィはぽかんとした。
ライラの大きな手がキリィの顔を包みこむ。つぶらな瞳が心配の色を濃く自分を覗き込むことにキリィは動揺した。
ライラはひとつ大きく息を吐くと、いつも通りの抑揚の薄い声で穏やかに語りかけた。
「キリィ、もうあの獣は解体しました。あの日あなたが帰ってきて、私と一緒にすぐに解体しました。――昨日の話です。あなたはあの後に倒れて丸一日以上寝ていたのです」
諭すようなライラの声色はキリィの頭にじわりと浸透していくようだった。それからようやくキリィの頭は動き出し、記憶を呼び戻していった。
安堵する。そうだ。ちゃんと解体して、保管庫に入れておいた。
キリィはゆっくりと息を吐き出した。
「そう、そうだったわね。ごめんね。少し混乱していたみたい……」
「いえ……熱も出ていましたから、仕方ありません。……お顔を触った感じはもう下がってますね。身体も触ってもよろしいですか?」
ライラの言葉にキリィはこくりと頷いた。ライラの手が汗で張り付いた服と背中の間に僅かに差し込まれ、キリィは目を泳がせた。二人で過ごした時間は長いが、自分がこうも無防備に触られることはなかった。
ふと、目の前に迫るライラの豊満な胸部を見て、キリィははたと気づいた。
同時にライラはキリィの背中から手を退けた。
「大丈夫そうですね。何か食べますか?」
「いえ。そんなことより、ライラ。お乳搾らなくて大丈夫? 私丸一日寝ていたじゃない」
キリィは慌てて手を伸ばしてライラの胸に触れた。しかし、そこに異様な硬さや張りはない。キリィは戸惑ってライラを見た。
ライラは感情の薄い表情のまま、胸を触るキリィの手をそっと退けた。
「何を言っているのですか。自分で搾りましたよ」
ライラの平坦な声で語られる答えを、キリィはあまり上手く飲み込めなかった。
初めて会ったその日から、欠かさずしていたライラの乳搾り。毎朝二人で搾っていた。搾ったものをたくさん飲んでいた。早朝から果物狩りをしに行った日も朝と昼に分けて搾って果汁と混ぜて飲んだし、張り込みで狩りをした冬の日も近くの山小屋に朝食を届けてもらった際に二人で搾って温めて飲んだ。今回も朝までには帰れて、解体したらいつもどおりに乳を搾ろうと思っていた。
乳搾りは二人かもしくは自分でやる作業だと思っていた。
しかし、たしかにそうだ。当たり前なのだ。
牛の乳搾りと同じ。ライラは初めて会った時に言っていたが、本当は違う。あのときはライラの手は拘束されていたが、本来のライラには牛と違って乳を搾るくらい自由に動かせる手があるのだ。
キリィは自分の手をじぃっと見た。そして、胸に湧き上がる物悲しさを、口を閉じて押し留めた。
「キリィ……どうしました?」
ライラの声が近くでする。キリィは何を答えればいいか考え、窓を見た。
窓の外は暗い。ただ暗い。あとどれくらいしたら夜が明けるのだろうか。夜が明けたら、また狩りに行こう。金が必要なのだ。その金にどれだけの意味があり、それで自分がどうなるのかは考えたくもないが。
窓に強い風が吹き付け、がたがたと音を鳴らした。
「いえ、別に」
キリィはそれだけ言うと、汗に濡れた身体のまま、再びベッドに寝そべった。
こうして翌朝、女狩人は雌ミノタウロスの乳を搾らずに家を出た。
『大好きラブット!』
ピンクのかわいいラブット♪
ながぁーいお耳をぴっこぴこ♪
まぁーるいお鼻をひっくひく♪
お尻の尻尾はくるっくる♪
らーぶらぶらぶラブット♪
(挿し絵を作ったのですが、挿し絵を入れることが面倒くさそうだったので割愛)