8(クリスマス)
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「僕は子供とは約束しないよ」黒尽めは云った。「要求に際限がないから。対して、こっちのお願いを期待通りに履行しない。悪く云ってるんじゃないよ、子供はそう云うものなの。別の云い方をするなら、子供特権。約束は、とどのつまり損得なんだよ。子供相手にそれは通じない。見返りを期待しちゃいけない。だから僕は、子供相手に約束はしたくないのさ」
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全ての荷物は運び出した。正しくは、戻すため。
赤い実については終いまで分からなかった。くれた本人はいつの間にか消えていた。
もし教えられた通りなら、自分がどうにかなっていた筈であり、もし自分の思い違いでなければ、彼女の身に何か起きた筈。
思い返すに、かつがれていたのだと思う。
けれども、一つ、誰かに使わなかった事、二つ、自分で飲んだ事。
どちらもおかしな話でしかないが、自分が本当の恥知らずになる境界の上にいたと思い当たって、あれ以来、寝つけぬ夜がないこともない。夜中に起きないこともない。
結果だけを見るなら、その程度で済んだのはひとえに運に恵まれたのだと思う。
掃除は美紗子が手伝ってくれた。小枝子の申し出は断った。
でも、とまるで迷子にでもなったような顔が可笑しかった。「お腹、大事にしてよね」
「動いてないとそれも良くないのですよ」と、ぶつぶつ。
「大丈夫」亜希子は云った。「美紗子がいるから大丈夫」
仲間外れにしたわけでも、意地悪でもない。「ゆっくりしててよ」
しまいに彼女は、「そうですか」納得した。「手が必要でしたらいつでも云って下さい」
「もちろん」それから掃除道具を持つ妹に、「さ、やるよ」
妹は「はぁい」と素直についてくる。「小枝子さん」
「はい?」
「お掃除終わったら、たぶん甘いもの欲しくなると思う」
「美紗子!」
図々しい妹に、「あは」小枝子は笑った。「お風呂沸かして、何かお茶請け、作っておきますね」
「シフォンケーキ、食べたいなー」
妹は、どこまでも図々しい。
でも、そんな所は憎めないし、羨しい。
小枝子と目が合った。どちらともなく笑みがこぼれた。
そして母屋は、すっかり以前の姿へ戻った。
妹とふたりで、やいのやいの云いながらも楽しい時間だった。
そして今日。
ここから出て行く。
古くて広い、暗い家の中に向かって亜希子は頭を下げた。
お世話になりました。
──どういたしまして。
八重子さんの声が聞こえた。
また遊びに来ていいよね?
──いつでも。お待ちしてます。
顔を上げると、引き戸を閉め、亜希子は母屋の鍵を掛けた。
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給食の時間、男子が「ご馳走ってなんだ」と、変な質問をしてきたことがある。
仲村学人が云うには、「寿司。回転してる」
なんでも、廻ってないのは上等過ぎて違うらしい。
「分からないでもないかな」町村博史は静かに同意した。その町村家のご馳走は「特に決まっていない」とのこと。
「でも、なんかあンだろ?」
仲村の言葉に少し考え、「和食かな」と答え、しかし、「お寿司じゃないけど」
「ちっこいヤツか!」鼻息荒く、得意げな仲村に、「まぁ、そうかな」
「座敷で喰うンだろ?」ぱんぱんっ。手を打ち、「女将、女将! この料理を作ったのは誰だ!?」
茶化す仲村に、町村は苦笑する。「座敷には違いないけれども、そんなことはしないよ」
「海と山の幸がたんまり出るんでしょ?」六文字ミチ子も好奇心を抑えきれない様子。
いいなぁ、美味しそうだなぁと、うっとりしている。
いったい何を想像しているのか。
「お気に入りは?」亜希子が口を挟むと、町村は「湯葉」と一言。
渋い。
「和食は大豆」町村の標語めいた物云いが、なんだかおかしかった。
「あたしン家って」と中華料理がご馳走である六文字がその由来を話し始めた。
なんでもお爺さんの叔父さんが大陸へ渡って仕事をしていたことに起因しているらしい。
どんな家だ。お爺さんの叔父さんって関係なさ過ぎだろ。
「お前ンとこは?」と仲村に話を振られ、亜希子は、「うちも中華かな」
白いテーブルクロスに、彩りたっぷりのメニュー。
すべてが熱々。
蒸したり焼いたり揚げたり茹でたり。「回転するけどね」
「何が?」
「中華テーブル」
すると町村が、「あれは日本発祥らしいね」と雑学を披露し、「そうなんだ!」びっくりする六文字のおかしなことったら。
亜希子の家では年に数度、中華料理のレストランへ行く。
誕生日だったり、祝日だったり、有り体に云えば記念日だ。
クリスマスだった。
たっぷりの料理ですっかりお腹が膨らんだところに、デザートの杏仁豆腐が出て来た。
ガラスの器の中で揺れていた。見るだけで濃厚で絡むような甘味を感じた。
ちょこんと置かれた小さな赤い実が、杏仁霜の柔らかな乳白色を、よりいっそう際立たせていた。
「食べないんですか?」隣に座る小枝子が訊いた。
「旨いぞ」父が追随した。
亜希子の視線に気付いてか、「その赤いのは、枸杞の実ですよ」大丈夫ですよ、苦くないですよ、と小枝子は微笑んだ。
「わ、分かってる」
気取られたかと思った一方で、子供舌をバカにされたんじゃないかと勘ぐってしまう自分が嫌になった。
「クコノミってなに?」
美紗子が杏仁豆腐をスプーンですくいながら訊ねる。
「薄紫色の小さい花の実ですよ」
小枝子の説明に、ほうほう、と父が頷く。
「亜希子ちゃん」
「はい!」つい大きな声が出てしまった。
「枸杞の花言葉、知ってます?」
「ううん」亜希子は首を横に振り、「何?」
すると小枝子は。
「私も知らないので。知ってるかなぁと」
子供みたいに小さく舌を出した。
なんだいそりゃ。
ぷっと頬を膨らませて見せた。
「でもおいしいよ?」美紗子が云う。
「そうですね」小枝子が同意する。
まったく。大人ってヤツは。
「花言葉?」
父がジャケットのポケットから携帯電話を取り出しかけたのを、「食事中です」小枝子がぴしゃり。「いいじゃないですか、そんなこと。急ぐものでもないですし」
いや、その、などと歯切れ悪く、しかし父は携帯電話をポケットに戻した。
目が合うと、少しバツの悪そうな顔には苦笑い。
「今はデザートの時間を楽しみましょう?」
小枝子の言葉に、ああ、と亜希子は思った。
大人には、やっぱりちょっと、かなわない。
でも、今に見てろ。
すぐに大人になってやるんだから。
杏仁豆腐は柔らかくて冷たくて、つるりと咽喉を滑り落ちた。
年が明ければ、家族が増える。
─了─




