7(鬼婆)
ふたりは、もつれ合って床を転がった。
服を引っ張り、ボタンが飛び、チャックが壊れ、縫い目が裂ける。
肌を引っかき、髪を掴んで頬を張った。
遠慮はなかった。理性などかなぐり捨てた。
言葉はなかった。叫びと唸りだけだった。
遂に亜希子は両腕をがっちり抑え込まれ、仰向けに組み敷かれた。
顔に荒い息が吹きかかる。振り乱した髪が小枝子の顔を覆っていた。
汗の中に、吹き出た憤怒が混じっていた。膨れた腹が亜希子の上にあった。
今、膝を上げれば、この張り切った水風船を破裂させることが出来る。
自分の手で終わらせられる。
蹴り上げれば、終わらせられるのだ。
不意に女が手を放した。
次の瞬間、小枝子は両手で亜希子の頭を挟むように鷲掴み──力一杯、額と額を打ち付けた。
眼前に星が散った。
馬乗りになってた小枝子の身体は、崩れるように仰向けに転がった。
ふたりは並んで薄暗い天井を見上げた。
「こんチクショウ……」息も絶え絶えに亜希子は云った。
「まったくですよ……」呻くように言葉を絞り出し、小枝子は咳き込んだ。
壊れたドアの向うから、妹と父の不安げな顔が見えた。
「大丈夫」と、亜希子と小枝子は同時に云った。
でも、とぐずる美紗子に、亜希子は追い払うように手を振った。
小枝子もまた、同じようにひらひらと手を振っていた。
解せぬ様子の父は、妹に促され階下へ戻っていった。
「はッ」先に口にしたのはどっちだったろう。
それをきっかけに、ふたりは静かに笑い出した。
全身のあちこちが痛む。
服もめちゃくちゃなら、身体もめちゃくちゃ。青タンだらけに違いない。額が熱いのは最後の一撃だ。
「頭突きとかないよね」亜希子が云った。
「良いと思ったのですが」小枝子の声は思い掛けず情けないものだった。「浅はかでした」
あいたた、と大袈裟に自分の額に手を遣るのが分かった。「コブになってますね」
亜希子も倣って、「わたしもだ」
ぷっくりしたそれに触れると、痛みが皮膚の真下を駆け抜けた。「バカじゃないの?」捨て身にしたって、大人げない。
しかし小枝子は、「バカですね」素直に認めた。「グーで殴れば良かった」
「グーで殴り返すよ」それがフェアってもんだ。
「それならまたグーで殴りつけるだけです」
「大人げないな!」
「躾けは時として鬼手仏心なのです」しれっと小枝子が云う。
「マジなんなの!?」信じられない。「もう二、三度、壁に頭打ち付けたが良いよ!?」
「一回で充分でしょうに」ね、と同意を促すように云う。
本当になんなのだ。この……この後妻は。
そんな亜希子の気持ちを他所に、小枝子は、でも、と云った。「でも、ババアはちょっと傷つきました」
「……ごめんなさい」
「私こそ、ごめんなさい」ふう、と小さなため息。「鬼子母神って言葉がちらっと浮かびましたけれども」
「きしもじん?」
「我が子を育てるために、他人の子供を捕まえては喰らった鬼婆ですよ」
正にそのものではなかろうかと思わないでもないったらない。「その鬼婆はどうなったの?」
「仏様に自分の子供を隠され、同じ親の気持ちを知り、以来、他人の子を攫う事を止めました」
「子供のために攫っていたなら、自分の子供はどうなっちゃうの?」
「さぁ」どうなんでしょうねぇ、と小枝子。「オチは良く知りません。転じて、安産や育児の神様になりましたが」
「人柱かよ」昔話は理不尽過ぎる。
「亜希子さん」ふと呼びかけられたその声は澄んで聞こえた。「お腹を蹴らないでくれて、ありがとう」
逡巡したが、「蹴ろうと思った」認めた。
「でもしなかった」
「うん──、」
「できなかった、しなかった。やれたのにやらなかった。どうあれ、ありがとう」
言葉は湿り気を帯びていた。「ありがとう」
「やめてよ」いたたまれなくなった。
躊躇った理由は、独善的な問題に帰結する。
部屋を汚したくなかった。血で汚したくなかった。
自分の手を、汚したくなかった。
しなかったのではない。
出来なかったのだ。
つまるところ、悪魔の実を飲んだのは、自分だった。
どう云い繕っても鬼の所業には違いない。
ただ、対価を支払う覚悟がなかったのだ。
「理由なんてどうでも良いんです」涙声で小枝子は続けた。「その一瞬で色んなことが胸に去来したと思う。私もそう。過程が大事というけど、結果の伴わない過程なんて、存在しないのと同じ。結果あっての過程です。そして、亜希子さんは結果として私を蹴らなかった」
亜希子は何も云えずにいた。
「その事実が、私は嬉しい」
小枝子は顔を巡らせ、散らかった部屋の中でボックスティッシュを見つけると、腕を伸ばしてティッシュを立て続けに抜き取った。
目尻を拭って口周りを拭き、最後に大きな音を立てて洟をかんだ。
「ああ、いやだ」
見れば、顔からティッシュに鼻水が糸を引いていた。
「うっわ」亜希子は思わず声を上げた。「汚ッ」
小枝子が噴き出した。泣きながら笑いながら洟を垂らしながら。
亜希子はボックスティッシュを放った。「笑い事じゃないよ」
「ごめんなさい」苦しそうに云いながら、それでも笑いの発作は治まりそうになかった。
「子供かっ」
「ごめ、ごめんなさい」ティッシュを握りしめ、身体を折り曲げる小枝子に、亜希子は今まで抱いていた感情が静かに消えていくのを感じた。あれだけ頑なだったものが、鼻水ごときで溶かされるなんて。
「勘弁してよ」誰に云うでなく、亜希子は独りごちた。「いい大人が」
「そうですね」声こそしおらしくなったが、肩の震えは抑えきれていなかった。でもね、と小枝子は云った。「大人って、ちっとも大人じゃないですよ」
「なら、わたしはこれからどうなるの?」
小枝子は少し考え、ふと答えた。「お姉ちゃんになってくれませんか」
「美紗子はどうなるの?」
すると、あッとばかりに小枝子はうろたえた。「そうでした」
「美紗子が聞いたら泣くよ」
「すいません」
しおしおとする小枝子は憎めなかった。
むしろ、子供みたいだと思った。
やっぱ大人って分かんない。
でも、一緒に暮らすとか、セックスするとか、子供が出来るとか、そういうことを大人と呼ぶのは違うと思った。
「あのさ……」躊躇いがちに亜希子は訊ねた。「お母さんって呼ばれないのは嫌?」
「別に良いですよ」小枝子はふひー、と変なため息を吐いて、「なんか、かえってむず痒いです」
「私も今更感が強いから、」
「そうね」小枝子は笑った。「いきなり思春期真っ只中の女の子のお母さんになんてなれない」
「随分だね」
「私だって十三歳の女の子だったことはありました」
そだね。
そうだろうね。
十三歳は一度だけ。
何年か先で振り返って、自分も同じことを口にするのかもしれない。
「亜希子ちゃん」
「ん?」
「どうしてもって云うなら、……いつでも呼んで構いませんよ?」
「まぁ……そのうち、またの機会に?」
ふたりは顔を見合わせて。
そっと笑う。
そして気付く。
彼女の顔を真っ直ぐ見たのは初めてだった。