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赤い実  作者: 夏瓜 竹海
7/8

7(鬼婆)

 ふたりは、もつれ合って床を転がった。

 服を引っ張り、ボタンが飛び、チャックが壊れ、縫い目が裂ける。

 肌を引っかき、髪を掴んで頬を張った。


 遠慮はなかった。理性などかなぐり捨てた。

 言葉はなかった。叫びと唸りだけだった。


 遂に亜希子は両腕をがっちり抑え込まれ、仰向けに組み敷かれた。

 顔に荒い息が吹きかかる。振り乱した髪が小枝子の顔を覆っていた。

 汗の中に、吹き出た憤怒が混じっていた。膨れた腹が亜希子の上にあった。


 今、膝を上げれば、この張り切った水風船を破裂させることが出来る。

 自分の手で終わらせられる。

 蹴り上げれば、終わらせられるのだ。


 不意に女が手を放した。

 次の瞬間、小枝子は両手で亜希子の頭を挟むように鷲掴み──力一杯、額と額を打ち付けた。


 眼前に星が散った。

 馬乗りになってた小枝子の身体は、崩れるように仰向けに転がった。


 ふたりは並んで薄暗い天井を見上げた。


「こんチクショウ……」息も絶え絶えに亜希子は云った。


「まったくですよ……」呻くように言葉を絞り出し、小枝子は咳き込んだ。


 壊れたドアの向うから、妹と父の不安げな顔が見えた。


「大丈夫」と、亜希子と小枝子は同時に云った。

 でも、とぐずる美紗子に、亜希子は追い払うように手を振った。

 小枝子もまた、同じようにひらひらと手を振っていた。

 解せぬ様子の父は、妹に促され階下へ戻っていった。


「はッ」先に口にしたのはどっちだったろう。

 それをきっかけに、ふたりは静かに笑い出した。

 全身のあちこちが痛む。

 服もめちゃくちゃなら、身体もめちゃくちゃ。青タンだらけに違いない。額が熱いのは最後の一撃だ。


「頭突きとかないよね」亜希子が云った。


「良いと思ったのですが」小枝子の声は思い掛けず情けないものだった。「浅はかでした」

 あいたた、と大袈裟に自分の額に手を遣るのが分かった。「コブになってますね」


 亜希子も倣って、「わたしもだ」


 ぷっくりしたそれに触れると、痛みが皮膚の真下を駆け抜けた。「バカじゃないの?」捨て身にしたって、大人げない。


 しかし小枝子は、「バカですね」素直に認めた。「グーで殴れば良かった」


「グーで殴り返すよ」それがフェアってもんだ。


「それならまたグーで殴りつけるだけです」


「大人げないな!」


「躾けは時として鬼手仏心なのです」しれっと小枝子が云う。


「マジなんなの!?」信じられない。「もう二、三度、壁に頭打ち付けたが良いよ!?」


「一回で充分でしょうに」ね、と同意を促すように云う。


 本当になんなのだ。この……この後妻は。


 そんな亜希子の気持ちを他所に、小枝子は、でも、と云った。「でも、ババアはちょっと傷つきました」


「……ごめんなさい」


「私こそ、ごめんなさい」ふう、と小さなため息。「鬼子母神って言葉がちらっと浮かびましたけれども」


「きしもじん?」


「我が子を育てるために、他人の子供を捕まえては喰らった鬼婆ですよ」


 正にそのものではなかろうかと思わないでもないったらない。「その鬼婆はどうなったの?」


「仏様に自分の子供を隠され、同じ親の気持ちを知り、以来、他人の子を攫う事を止めました」


「子供のために攫っていたなら、自分の子供はどうなっちゃうの?」


「さぁ」どうなんでしょうねぇ、と小枝子。「オチは良く知りません。転じて、安産や育児の神様になりましたが」


「人柱かよ」昔話は理不尽過ぎる。


「亜希子さん」ふと呼びかけられたその声は澄んで聞こえた。「お腹を蹴らないでくれて、ありがとう」


 逡巡したが、「蹴ろうと思った」認めた。


「でもしなかった」


「うん──、」


「できなかった、しなかった。やれたのにやらなかった。どうあれ、ありがとう」


 言葉は湿り気を帯びていた。「ありがとう」


「やめてよ」いたたまれなくなった。


 躊躇った理由は、独善的な問題に帰結する。


 部屋を汚したくなかった。血で汚したくなかった。

 自分の手を、汚したくなかった。


 しなかったのではない。

 出来なかったのだ。


 つまるところ、悪魔の実を飲んだのは、自分だった。

 どう云い繕っても鬼の所業には違いない。

 ただ、対価を支払う覚悟がなかったのだ。


「理由なんてどうでも良いんです」涙声で小枝子は続けた。「その一瞬で色んなことが胸に去来したと思う。私もそう。過程が大事というけど、結果の伴わない過程なんて、存在しないのと同じ。結果あっての過程です。そして、亜希子さんは結果として私を蹴らなかった」


 亜希子は何も云えずにいた。


「その事実が、私は嬉しい」

 小枝子は顔を巡らせ、散らかった部屋の中でボックスティッシュを見つけると、腕を伸ばしてティッシュを立て続けに抜き取った。

 目尻を拭って口周りを拭き、最後に大きな音を立てて洟をかんだ。

「ああ、いやだ」

 見れば、顔からティッシュに鼻水が糸を引いていた。


「うっわ」亜希子は思わず声を上げた。「汚ッ」


 小枝子が噴き出した。泣きながら笑いながら洟を垂らしながら。


 亜希子はボックスティッシュを放った。「笑い事じゃないよ」


「ごめんなさい」苦しそうに云いながら、それでも笑いの発作は治まりそうになかった。


「子供かっ」


「ごめ、ごめんなさい」ティッシュを握りしめ、身体を折り曲げる小枝子に、亜希子は今まで抱いていた感情が静かに消えていくのを感じた。あれだけ頑なだったものが、鼻水ごときで溶かされるなんて。


「勘弁してよ」誰に云うでなく、亜希子は独りごちた。「いい大人が」


「そうですね」声こそしおらしくなったが、肩の震えは抑えきれていなかった。でもね、と小枝子は云った。「大人って、ちっとも大人じゃないですよ」


「なら、わたしはこれからどうなるの?」


 小枝子は少し考え、ふと答えた。「お姉ちゃんになってくれませんか」


「美紗子はどうなるの?」


 すると、あッとばかりに小枝子はうろたえた。「そうでした」


「美紗子が聞いたら泣くよ」


「すいません」


 しおしおとする小枝子は憎めなかった。

 むしろ、子供みたいだと思った。

 やっぱ大人って分かんない。

 でも、一緒に暮らすとか、セックスするとか、子供が出来るとか、そういうことを大人と呼ぶのは違うと思った。


「あのさ……」躊躇いがちに亜希子は訊ねた。「お母さんって呼ばれないのは嫌?」


「別に良いですよ」小枝子はふひー、と変なため息を吐いて、「なんか、かえってむず痒いです」


「私も今更感が強いから、」


「そうね」小枝子は笑った。「いきなり思春期真っ只中の女の子のお母さんになんてなれない」


「随分だね」


「私だって十三歳の女の子だったことはありました」


 そだね。

 そうだろうね。

 十三歳は一度だけ。

 何年か先で振り返って、自分も同じことを口にするのかもしれない。


「亜希子ちゃん」


「ん?」


「どうしてもって云うなら、……いつでも呼んで構いませんよ?」


「まぁ……そのうち、またの機会に?」


 ふたりは顔を見合わせて。

 そっと笑う。


 そして気付く。

 彼女の顔を真っ直ぐ見たのは初めてだった。

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