5(変らない)
不意に亜希子は強い苛立ちを憶えた。
妹の肩を押すようにして引き離すと、真っ直ぐ見据えた。「お父さんの勝手が許せない」
「それなら小枝子さん、関係ないじゃない」
「お父さんの勝手に乗ったのが許せない」
「だからって、何も変らないよ。ずっと変らないままだよ」
「あんたは何したって良いって云うの? デキ婚だよ、あり得ない!」眼前が赤くなるのを感じた。「授かり婚とかバッカじゃないの!」言葉を押さえられなかった。「ヤリました! デキました! 当たり前じゃん! 子供に罪はない? なら大人の罪はどう償うの? 子供に罪がないなら、罪は大人にあるじゃん。元気な子供を生みました! 一生懸命育てました! そんなの自己満足じゃん! 自分の都合、子供に押し付けてるじゃん。自分が許されたいって、楽になりたいってことじゃん。何も償ってないよね、子供のダシに調子こいてるだけだよね。大人の都合、身勝手、我侭。罰がなきゃ──釣り合わない!」
「逆なら納得してたの?」
亜希子は頭をかきむしった。「どっちも同じだ!」
「お姉ちゃん、」美紗子はひくっと咽喉を震わせた。「もう、良いじゃない」
「それだよ! もう良い? もう良いだって? それで済むの? 済ませられるの? 認められるか、バカ!」
「バカはお姉ちゃんだよ!」
「なんでわたしが!」
「意地っ張り! 置いてけぼりだよ!」
「だから!」立ち上がって、「関係ない!」
亜希子が叫ぶように言葉を口にした瞬間、表で車のドアを閉める音がした。
姉と妹は示し合わせたように、顔を窓の外に向けた。
父と、あの女が帰ってきた。
「美紗子」亜希子は外を向いたまま続けた。「自分の部屋に行ってな」
「お姉ちゃん、」
「行きなさい」
姉と云うだけで、昔からさんざん理不尽を押し付けた。
けれども、今ほど拒絶も嘆願も受け入れることは出来なかった。
しかし美紗子は、「嫌」きっぱりと拒否した。「嫌」
押し問答をする時間はなかった。
すぐに腹の膨らんだ女と、荷物を両手に抱えた父が庭を横切って離れに入ってきた。
「ただいま」
どさどさと荷物が上がり框に置かれた音がした。靴を脱ぐ音がした。
ぱたぱたとスリッパの音がした。ショッピングバックを持った女がリビングに姿を見せた。「あら、亜希子さん」
さりげない言葉だった。
あら、亜希子さん。
飾り気のない、いかにも家族らしい、親しみがあった。
嫌悪や拒絶がほんの僅かでも含まれていればまだしも、あら、亜希子さん。
一瞬でも、声に、顔に、態度に嫌厭が認められたのなら、この先の展開は変わっていたはずだ。なのに、あら、亜希子さん。
「大丈夫?」女が云った。
「うん」応えたのは美紗子だった。「大丈夫だよ」
身振り大きく、美紗子は立ち上がると、女の荷物を奪うようにして取った。「こんなに重たいの持ってちゃ駄目だよ」
何気ない挨拶。気兼ねない振る舞い。
妹は、キッチンでショッピングバッグの中身を冷蔵庫へと詰め替えていく。「小枝子さんは座ってて」大事にしてて。
「病気じゃないんですから」云いながらも、「お言葉に甘えさせて貰っちゃおうかな」ダイニングテーブルの椅子に「よいせっ」座った。
父も父で、何を買ったか「ガレージに置いてくる」玄関から声を上げ、出ていった。
わたしの、家で、繰り広げられる、茶番。
胸の奥でふつふつと何かが煮えて、膨れた。
「終わったよ」妹が云う。「他に何かある?」
「大丈夫」女が云う。「ありがとう」
妹は女の対面に座り、何処へ行ってきたの、何してきたの、楽しかった? お土産ないのー?
談笑するふたりは、昨日の今日のと云う関係でなかった。
当り前だ。
女が来てからこっち、ふたりはずっとこの家に住んでいたのだから。
女が笑う。妹が笑う。
自分がどんな顔をしているのか知りたくて鏡を探した。
無かった。
代わりに戸棚のガラス戸を見た。
ぼんやりしてはっきりしない。
妹も妹だ。
母は妹の所為で死んだのではない。
母の死は妹とは関係ない。
その女は、母ではない。
これまでも。これからも。
「小枝子さん、何か飲む?」妹が云った。
「お茶なら淹れますよ」
女が立ち上がりかけたその瞬間、「わたしがする」亜希子の口から、言葉がするりと出た。
妹が目を丸くしていた。女も驚いたような顔をしたが、すぐにうっすら微笑んだ。「ありがとう」お願いしますね。
笑った。
女が笑った。
「紅茶お願いしまーす」
妹のリクエストに、女も「良いですね」追随した。「お願いしても?」
「コーヒーじゃダメかな」
鼻に皺を寄せる妹に対して、「ええ」女は嬉しそうに、「大丈夫です」
「ミルクと砂糖は?」亜希子が訊く。
「たーっぷり」美紗子が答える。「めっちゃ甘くして」
そんな姉妹のやりとりを、女は面白そうに眺めていた。
そんな目で見るな。見るんじゃない。
キッチンは勝手が違って、ちょっと戸惑った。
棚と抽斗を開け、豆と紙フィルターを見つけた。
一式揃えて用意していると、「小枝子さんは?」姉に聞かせるように妹が訊ねた。「ブラック?」
「お出かけして、ちょっと疲れたかな」
知らん。
「甘いものが必要だね」と妹。
「そうね」と女。「私も美紗子ちゃんと同じで」
「同じ?」亜希子は、顔も上げずにコーヒーメーカーに火を入れる。
「ミルクとお砂糖、たっぷりでお願いします」
「ご自由に」スティックシュガーと牛乳パックをテーブルに置いた。「お好みあるでしょうから」
ぷいと、キッチンに戻る途中で妹と目が合った。
責めるような視線だった。
わたしが何をしたと云うのか。
程なくして、コーヒーメーカーがこぽこぽと鳴く。
香ばしく、豊かな匂いが広がった。
ああ、と女は感じ入ったようにため息をついた。「良い香り」
豆の種類は知らないが、その言葉には同意せざるを得ない。
この瞬間、この空間は人の鼻を倖せにしている。
こんチクショウ。
たかだか黒い豆をすり潰して濾しただけなのに。
「あ、そうだ」不意に妹は椅子から立ち上がる。「チョコレートあったよね」キッチンに入ってきた。
「そっちの棚の、」女が応えた。
「小枝子さんは座ってて」
「はい」
「コーヒーにチョコレートって相性良いよね」妹が同意を求めた。
「たぶんね」耐熱ガラスのジャグに貯まる黒い液体を見つめながら、おざなりに答えた。
「はっけーん」
チョコレート箱を手にした妹は、取り繕ったような機嫌の良さで戻っていった。
今、亜希子の手の中に、小さくて固いものがある。
ころっとした、赤い実がある。
父がリビングに入ってきた。
亜希子と目が合った。
「来てたのか」父が云った。
曖昧に亜希子は頷いた。
「コーヒー、俺の分もあるか」
「ない」
「お姉ちゃん」妹が咎める。
「ちょびっとある」云い直した。
父が笑った。「ちょびっと貰おう」椅子に座ると、はぁー、と息を吐いた。
「お父さん、手洗った?」
美紗子が訊けば、「うがいもしたぞ」
何を偉そうに。
「美味しい」チョコレートを口に含んで、女が云う。「あっとっと」
「お腹蹴った?」妹が身を乗り出す。
「ええ」
あは、と妹が笑う。「チョコレート、喜んでるんだ」
「甘党ね」女も笑う。「虫歯に気をつけないと」
「ナッツ入り、どれだ?」父の問いに、「たぶんそっち」妹が指さす。
口にした父は、「ヌガーだ、これ」
すると女が、「じゃ、それ貰います」
「赤ちゃん、喜んでる?」
妹の言葉に、女は微笑む。「私の舌が喜んでるかな」
一家団欒。カップが用意されたテーブル。話題の中心は、膨れた腹。
──すごいよ、本当に蹴ってくるの!
淹れ立てのコーヒーが入ったジャグを持って、今その輪に加わろうとしている自分が途方もなく余所者であると感じた。
──運が良ければ、死ねる。
誰かに云われたからでない。誰かに指図されているわけでない。わたし自身が、この人たちを許せない。
赤い実。小さな赤い実。
合点がいった。
──昔からよくある話だろう?
ええ、そうね。全くその通り。
亜希子は理解した。
悪魔との取り引きには、対価が必要なのだ。
亜希子は手のひらの赤い実を舌で舐め取り、口に含むと、奥歯で割った。




