4(帰ってきて)
*
変なカレンダーの所為で、終業式は週明けに繰り越された。
二学期最後の休日、亜希子は、昼過ぎに父たちが出かけたのを窓越しに見た。
古くて広い家の中を、何と無しにうろうろしていたら、「どうされました?」八重子さんに捕まった。「九郎が──弟が何かしましたか」
「ううん」首を横に振った。「何も」何もされてはいない。
ならよいのですが、と彼女は渋い顔をした。
「お嬢さま」八重子さんは云った。「軽はずみな真似はしないでください。良くないことは、往々にして跳ね返るもので、」
「ねぇ、八重子さん」
「はい?」
「家から出て行くの?」
すると彼女は、アア、とばかりに嘆息した。「九郎ですね」
嘘をつく事でもない。首肯した。
「決めあぐねております」
否定してくれなかったことに、落胆した。
八重子さんは続けた。「もちろん私が決めることではありませんが、先代さまがお亡くなりになり、お嬢さまも中学生になりましたので──、」
「美紗子は小学生だよ」
「お嬢さまは、お姉ちゃんですから」
にこっと八重子さんは笑った。
変な理屈だと思った。「ずっと居てくれないの?」
「お嬢さま」
八重子さんは姿勢が良くて、背が高くて、所作が綺麗で、かっこいいと亜希子は常々思っている。
「申し訳ありません」頭を下げた。
「うん」亜希子は云った。「うん、無理を云ってごめんなさい」いたたまれなくなった。「あっち行って来る」
「はい」
見送られて母屋を出た。
*
離れには妹がひとりでいた。
リビングのソファーに浅く腰掛け、録り溜めていたアニメを見ていた。
「クラブは?」ダイニングテーブルの椅子を引きながら訊ねた。
「お休み」妹はリモコンの一時停止ボタンを押した。「どうかしたの?」
「冬休みの課題を整理してたら、こっちに置きっぱなし分も必要みたいだった」
えー、と妹は顔をしかめた。「中学校、大変」やだなー。宿題やだなー。
「そうね」
自分の家だった筈なのに、忍び込んだみたいで、椅子に降ろした腰が落ち着かない。
壁に掛かった時計がとうるさい。キッチンの冷蔵庫がうるさい。テレビ台の録画機器がうるさい。
姉と妹は息を殺し、何かを待つかのようだった。
先に動いたのは妹だった。
「ねぇ、お姉ちゃん」妹は座り直し、揃えた膝の上に手を置いた。「もう、終わりにしない?」
「何のこと?」
「全部」ぜんぶ。「帰ってきてよ」
亜希子は視線をテレビに向けた。画面の中でアニメの女の子が手を振り上げたまま止っていた。
背もたれに身体を預け、「そうね」亜希子は云う。「あんたは別に良いんだよね」
「そんなんじゃないよ」妹は両足を胸に引き寄せると、両手で抱えて卵のみたいに身体を丸めた。「良いとか悪いじゃなくて、そうしなきゃいけないんだよ」
「なんでさ? 良い子でいたいから? そりゃ、わたしが悪い子ならあんたは良い子でいられるよね。だったら問題ないじゃん」
思いの他、嫌らしい物云いになって、自分でも驚いた。
「違うよ」妹はすん、と鼻を啜った。「悪いのは、お姉ちゃんじゃない。悪いのは、あたしの方」
なんで、と云いかけて、口をつぐんだ。妹は今にも泣きそうで、でも一所懸命堪えているようで、痛々しかった。
こんな小さかったっけ、この子。
男子にまぎれてボールを追っかけ、砂ぼこりの中、駆けずり廻って、ぐんぐん背が伸び、追い抜かれたとばかり思っていたのに。
みるみる目に涙が溜まり、ぽろりと、頬を伝い落ちた。
「お母さん、身体強くなかったんでしょ?」震え声。「あたしを産んで死んじゃったって事は、そう云うことでしょ?」
決壊した。
わぁっと、美紗子は声を上げて泣き出した。「あたしが、あたしの所為だから」
顔を覆う両手の隙間から、涙と共に切れ切れの言葉がとめどなく溢れてこぼれた。
「あたしの所為なんだ、姉ちゃんが小枝子さんを許さないのも、」
「違うよ」否定し、安心させるつもりが、声はひどく弱く聞こえた。「そんなことないよ」
「じゃあ、なんで小枝子さんに意地悪するの?」
妹は顔を上げ、真っ直ぐ視線をぶつけてきた。涙と洟でぐしゃぐしゃだった。
酷い。本当に酷い。
亜希子はティッシュを箱から立て続けに引き抜き、ソファの隣に座って妹に渡した。「美紗子は関係ないよ」
「本当?」
洟をかみ、しゃくりあげる妹に、亜希子は頷いて見せた。
なんて小さい子。
「あんたがそんな風に思ってたなんて、」亜希子は妹の肩に触れた。「かわいそうだよ」
「かわいそうだなんて思われたくない」妹は僅かに身体を離した。
「ねぇ、美紗子。わたしだってお母さんのこと、憶えてるわけじゃないよ」
「そうなの?」
「一歳ちょいだよ? 大差ないよ」
すると美紗子は、少し考え、小さく「うん」小さく頷く。「うん、そうだね。なら、かわいそうなのはお姉ちゃんだよ」
「なんで?」
「小枝子さん、認めてあげてよ。お父さんも……赤ちゃんも、」
父の苦労は知っている。分かっている。けれどもそれが免罪符になるわけがない。
だから、「関係ない」
今はそんな話をしたくなかった。しかし妹は「ううん」首を横に振り、「お姉ちゃんが、かわいそう」
妹の手が姉に触れた。「分かってるんでしょ? 八重子さんなんて、いないんだよ?」
知ってる。
でも、見えないことと存在しないことは違う。
分かってる。
でも、それとこれとは別だ。
「お姉ちゃんが……かわいそうだよ」




