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赤い実  作者: 夏瓜 竹海
2/8

2(ちょっかい)

   *


 誰が悪いと云うわけではない。

 亜希子はそう思っている。


 理解と納得は別である。

 亜希子はそう思っている。


 父と妊婦が悪い。煮え切らない美紗子が悪い。子供みたいに意地を張っている自分が悪い。彼岸の祖父母は除外とする。


 あえて云うなら間が悪い。


 小さな悪いが重なって、大きな悪いに発展した。


「許してやれ」


 夢枕に立った祖父が云った。

 久しぶりに会いに来てくれたと思ったらそんなことを。祖父から一歩下がった後ろに立つ祖母も心配そうな顔をしている。


 無理だと思った。

 許す許さないじゃない。

 ならどうすれば?


 袋小路に嵌り込んだ亜希子に、祖母が助け船を出した。

 暫くこっちに来ないかと。「今日の明日の云う事でもないでしょう」


 えっ。


 さすがにそれには驚いた。

 夢なのは分かっていた。

 それでもやっぱり驚いた。


 そっちってどっち? 川の向う?


 すると祖母は、慌てて「家よ、家の方」


 ああ、なんだ。ほっとした自分が可笑しかった。


「お父さんには私たちから云っておくから」


 ゆらゆらと、祖母の姿が滲んでいく。

 祖父も同じく消えていく。


 ぱっと目覚めた。

 時計を見遣れば午前二時。

 ため息一つ。

 亜希子は顔を枕に沈めた。


 翌朝、父は何も云わなかった。

 亜希子は母屋に移った。


 祖父は許せと云った。

 認めろとは云わなかった。

 洋間から畳の部屋へ移った。


 母屋は、何年も前から日常的に使われなくなった。

 折々に空気を入れ替え、年に一回、人手をいれて掃除をし、家電も火を入れ、必要ならば補修した。

 とは云え、住居とするにはやはり準備が必要だった。


 八重子さんがいてくれなかったら、祖母の提案も実現しなかったろう。

 意地っ張りの、引くに引けない問題と常に対峙しなければならなかったろう。


 母屋に移ったのは問題の先送りでしかない。

 分かっている。

 それでも亜希子は感謝している。


 畳の感触は悪くなかった。むしろ心地よかった。座卓や布団を上げ下げする生活にも慣れた。

 不便はないと云えば嘘になるけど、ベッドって実はヒトを堕落させるものなんだな。


 通学鞄を置いて、脱いだコートと制服をそれぞれハンガーに通し、鴨居に引っ掛けた。


 大家族の時代に建てられた家は、一人、二人増えたところで問題ない。維持が大変なだけだ。

 当世、開かずの間もある。うっかりしたら廃虚と変るまい。或いは、お化け屋敷。


 世相に合わせて手が入り、水周りはそっくり入れ替わった。

 すっかり電化され、建てられた当時には、とうてい想像もされなかった、たくさんケーブル類が引き込まれた。

 けれども、建物の自体は太く硬く、重たい作りには違いない。

 それでも、陽当たり良く、風通し良く、相応にしていれば春夏秋冬、楽しめる。


 しかし、そんな近代化の恩恵も充分に享受することなく祖父は急逝した。

 父は多忙を極めた。

 祖母がおかしくなった。

 子供の目にも父がひどく大変なのは分かった。

 祖母は施設に入った。

 小さな娘ふたりに加え、面倒を見るのは無理なことだった。


 晩年の祖母は、自分の息子も、孫娘たちも、そしてたぶん、自身のことも分からなくなっていたと思う。

 施設から病院へ移った。

 昨年、他界するまで一度も家に帰ることはなかった。


 秋だった。

 冬を間近にしたその朝、電話が鳴った。

 学校を休み、残った祖母の身体と対面した。

 自分の祖母は、ずっと前にいなくなっていたのだと思った。

 悲しくは思ったが、泣くほどではなかった。


 病室の祖母は、ベッドが大きすぎて、身体が傾いでいた。

 肌は紙みたいにかさかさに乾いていて、頬の筋肉が緩み、口がぽっかり開いていた。

 焼かれて小さな骨になった姿の方が、本物の祖母だと思った。


 今や名実ともに空っぽになった母屋を、こうして孫娘が巡り巡って使うだなんて、なんとも皮肉な話じゃないですか。


 女が出入りをはじめたのは、祖母を送って暫くのことだった。

 夏の終りには、父が迎え入れた。


 スウェットに着替え、ドテラを羽織る。

 居間のコタツに身体を沈め、背中を丸めて天板に片頬を付けた。


 ひんやりして気持ち良い。


 だらしない姿のまま、テレビのリモコンをちゃかちゃか押して、興味を引くものがないのを知り、電源を切った。


「退屈そうだね」対面にちゃっかり座った黒尽くめが云った。髪をポニーテールにまとめていた。

 コートくらい脱げ。


 黒尽くめは、にこにこ笑って馴染んでる。


「お嬢さま」

 ペットボトルから湯飲みにお茶を注いでると、八重子さんが云った。「お構いなく。帰りますから。そうですね、九郎?」


 しかし黒尽くめは、にこにこと、「ひどいなぁ」同意を求める。


「帰りますから」ダメ押しのように八重子さん。


 変な姉弟。亜希子は湯のみを傾けた。


 玄関の引き戸が開いて、「お姉ちゃーん?」美紗子がやって来た。


 八重子さんは黒尽くめの腕を取り、「ほらほら」と引き立て、「呑気にしてるんじゃありません」


「ひどいな」


「お嬢さまにちょっかいかけるような真似はさせません」

 きっぱり云った。

 八重子さん、頼もしい。


 姉に引きずられるように黒尽くめは、やぁやぁなどと、よく分からぬことをを云いながら、暗い廊下の向うに消えていった。


 亜希子もコタツから抜け出て台所に向かった。

 エプロンを着けていると、「お姉ちゃん?」家用の赤いジャージに着替えた妹が顔を出した。

 シャワーを浴びたのだろう、こざっぱりとして、髪がほんのり湿っていた。


 美紗子は姉の姿を見て、「晩ご飯?」


「こっちで食べてく?」冷蔵庫の取っ手に手をかけ、訊ねれば、「ひとりで食べるの?」と妹は応えた。


「手伝えよ」


 姉の言葉に、うん、と妹は頷いた。


 さてさて、冷蔵庫には何があるかな、「なに食べたい?」


「なんでも良いよ」


 そっか。

 カレーにしようと思って、給食がシチューだったのを思いだし、肉じゃがにした。


「ピーマン入れようよ」美紗子が云った。


「苦いからやだ」亜希子は拒否した。


「苦いは美味いだよ」


「そんな格言、初めて聞いたわ」


「身体に良いって!」


「苦味は毒味だ」


 すると妹は、芝居がかった風にハッと鼻で笑った。「ゴーヤは栄養満点ですのよ、お姉さま」


 何を偉そうに。「わたし、知ってるよ」


「何?」なになに? お姉ちゃん?


「あんたが赤ちゃんコーヒーしか飲めないの」


「コーヒー、関係ないよ!?」


「コーヒーは子供に飲ませないでしょ」

 カフェインとかカフェインとかポリフェノール。


 ほら、苦味は毒味だ。


 すると美紗子は。「お姉ちゃぁん」情けない声を出した。「好き嫌いばかりしちゃいけないよぅ」


 知らん。


「毒味って、お殿様が食べる前に家来が確かめることだよね?」


 妹よ。そろそろお口にチャックして、お黙りなさい。姉は、わたしだ。故に、絶対。


 肉じゃがは、普通の普通で出来上がった。

 大根のおみそ汁と小松菜の胡麻和えを食卓に並べた。

 妹が炊飯器から五穀米をお茶碗によそってくれた。「はいどうぞ」

「ありがと」


 見れば、美紗子のお茶碗の中は、その半分も入っていない。「それだけでいいの?」

 妹は申し訳なさそうに、「うん」ごめんね、と小さな声で謝った。


「いいよ」

 胸の奥が、ちくりと、痛い。


「いただきまーす」

 ことさら朗らかな美紗子の声が、胸に痛い。


「あんたまでわたしに付き合うことはないよ?」

 すると妹は、「そんなんじゃないよ」これでお終い、と云わんばかりに、がつがつ食べる。


 優しい子だと思う。

 けれども、全方位良い子ちゃんが許されるのも場合によりけりだ。


 先見の明がない。

 思慮分別に欠けている。


 必然の板挟み。

 どうあれ、安易な選択をしたには違いない。


 妹に求めすぎ? わたしは意地悪な姉?

 どちらでもあり、妹もまたしかり。


「向うはどう?」汁椀を手にして、亜希子は何気ない体で訊いてみた。


「怒らない?」


 妹の声に、幾分の躊躇いを感じた。

 だから、「怒らない」きちんと言葉にしてやった。


「順調だよ」美紗子は云った。


「ふーん」声は普通に出せたろうか。「どの辺が?」


「お腹、触らせて貰った」


「へぇ」顔は普通でいられたろうか。


「すごいよ、本当に蹴ってくるの!」


 興奮冷めやらぬ、とはこんな感じだろうか。物知らずな姉に世紀の発見を教えるかのようだった。


 もちろん亜希子に経験はないが、知識でなら知っている。

 赤ン坊はボコボコ動いて、ベコベコ蹴る。そして時々、臍帯に絡まる。


 お腹に赤ちゃんがいるって、どんな感じだろう?

 自分の下腹部を意識して、気持ち悪い、と思った。


 この子は、赤ン坊がどうやって腹の中に潜り込むのか知っているのだろうか。


 妹は半ば身を乗り出し、「お腹の中、ほんっと、すごい。ぽこって。ぐいぐい動くの。外が分かってるみたい。ううん、分かってる。話していることとか、音とか、分かってるよ、すごいよ、聞えてるんだよ。写真にね、映ってるんだ、男の子。すごいよ」


 ハイハイ、すごいすごい。

 なんと語意の貧困なことよ。

「なんで男の子って分かったの?」


「女の子だったら何もないよ?」


 あー。亜希子は思った。当り前だ。


「で、おヘソが出っ張っちゃって」ぶふうっと妹は物凄い音を立てて吹き出した。「ゴマ、取り放題だって」


「汚ねーなぁ」ご飯中だぞ。


「うん」美紗子は同意しながらも肩を震わせ、目尻を指で拭った。「汚いね」


 男の子、か。

 亜希子はお味噌汁の大根を齧った。

 ちょっと芯が残ってた。


 もりもり食べる妹を見遣る。

 二つ違いの姉妹。

 父がこだわる理由を垣間見た気がした。


 もしかしたら。


 祖父が折れた理由も同じなのかもしれない。

 胸の奥の苛々の根源が分かった気がした。

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