2(ちょっかい)
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誰が悪いと云うわけではない。
亜希子はそう思っている。
理解と納得は別である。
亜希子はそう思っている。
父と妊婦が悪い。煮え切らない美紗子が悪い。子供みたいに意地を張っている自分が悪い。彼岸の祖父母は除外とする。
あえて云うなら間が悪い。
小さな悪いが重なって、大きな悪いに発展した。
「許してやれ」
夢枕に立った祖父が云った。
久しぶりに会いに来てくれたと思ったらそんなことを。祖父から一歩下がった後ろに立つ祖母も心配そうな顔をしている。
無理だと思った。
許す許さないじゃない。
ならどうすれば?
袋小路に嵌り込んだ亜希子に、祖母が助け船を出した。
暫くこっちに来ないかと。「今日の明日の云う事でもないでしょう」
えっ。
さすがにそれには驚いた。
夢なのは分かっていた。
それでもやっぱり驚いた。
そっちってどっち? 川の向う?
すると祖母は、慌てて「家よ、家の方」
ああ、なんだ。ほっとした自分が可笑しかった。
「お父さんには私たちから云っておくから」
ゆらゆらと、祖母の姿が滲んでいく。
祖父も同じく消えていく。
ぱっと目覚めた。
時計を見遣れば午前二時。
ため息一つ。
亜希子は顔を枕に沈めた。
翌朝、父は何も云わなかった。
亜希子は母屋に移った。
祖父は許せと云った。
認めろとは云わなかった。
洋間から畳の部屋へ移った。
母屋は、何年も前から日常的に使われなくなった。
折々に空気を入れ替え、年に一回、人手をいれて掃除をし、家電も火を入れ、必要ならば補修した。
とは云え、住居とするにはやはり準備が必要だった。
八重子さんがいてくれなかったら、祖母の提案も実現しなかったろう。
意地っ張りの、引くに引けない問題と常に対峙しなければならなかったろう。
母屋に移ったのは問題の先送りでしかない。
分かっている。
それでも亜希子は感謝している。
畳の感触は悪くなかった。むしろ心地よかった。座卓や布団を上げ下げする生活にも慣れた。
不便はないと云えば嘘になるけど、ベッドって実はヒトを堕落させるものなんだな。
通学鞄を置いて、脱いだコートと制服をそれぞれハンガーに通し、鴨居に引っ掛けた。
大家族の時代に建てられた家は、一人、二人増えたところで問題ない。維持が大変なだけだ。
当世、開かずの間もある。うっかりしたら廃虚と変るまい。或いは、お化け屋敷。
世相に合わせて手が入り、水周りはそっくり入れ替わった。
すっかり電化され、建てられた当時には、とうてい想像もされなかった、たくさんケーブル類が引き込まれた。
けれども、建物の自体は太く硬く、重たい作りには違いない。
それでも、陽当たり良く、風通し良く、相応にしていれば春夏秋冬、楽しめる。
しかし、そんな近代化の恩恵も充分に享受することなく祖父は急逝した。
父は多忙を極めた。
祖母がおかしくなった。
子供の目にも父がひどく大変なのは分かった。
祖母は施設に入った。
小さな娘ふたりに加え、面倒を見るのは無理なことだった。
晩年の祖母は、自分の息子も、孫娘たちも、そしてたぶん、自身のことも分からなくなっていたと思う。
施設から病院へ移った。
昨年、他界するまで一度も家に帰ることはなかった。
秋だった。
冬を間近にしたその朝、電話が鳴った。
学校を休み、残った祖母の身体と対面した。
自分の祖母は、ずっと前にいなくなっていたのだと思った。
悲しくは思ったが、泣くほどではなかった。
病室の祖母は、ベッドが大きすぎて、身体が傾いでいた。
肌は紙みたいにかさかさに乾いていて、頬の筋肉が緩み、口がぽっかり開いていた。
焼かれて小さな骨になった姿の方が、本物の祖母だと思った。
今や名実ともに空っぽになった母屋を、こうして孫娘が巡り巡って使うだなんて、なんとも皮肉な話じゃないですか。
女が出入りをはじめたのは、祖母を送って暫くのことだった。
夏の終りには、父が迎え入れた。
スウェットに着替え、ドテラを羽織る。
居間のコタツに身体を沈め、背中を丸めて天板に片頬を付けた。
ひんやりして気持ち良い。
だらしない姿のまま、テレビのリモコンをちゃかちゃか押して、興味を引くものがないのを知り、電源を切った。
「退屈そうだね」対面にちゃっかり座った黒尽くめが云った。髪をポニーテールにまとめていた。
コートくらい脱げ。
黒尽くめは、にこにこ笑って馴染んでる。
「お嬢さま」
ペットボトルから湯飲みにお茶を注いでると、八重子さんが云った。「お構いなく。帰りますから。そうですね、九郎?」
しかし黒尽くめは、にこにこと、「ひどいなぁ」同意を求める。
「帰りますから」ダメ押しのように八重子さん。
変な姉弟。亜希子は湯のみを傾けた。
玄関の引き戸が開いて、「お姉ちゃーん?」美紗子がやって来た。
八重子さんは黒尽くめの腕を取り、「ほらほら」と引き立て、「呑気にしてるんじゃありません」
「ひどいな」
「お嬢さまにちょっかいかけるような真似はさせません」
きっぱり云った。
八重子さん、頼もしい。
姉に引きずられるように黒尽くめは、やぁやぁなどと、よく分からぬことをを云いながら、暗い廊下の向うに消えていった。
亜希子もコタツから抜け出て台所に向かった。
エプロンを着けていると、「お姉ちゃん?」家用の赤いジャージに着替えた妹が顔を出した。
シャワーを浴びたのだろう、こざっぱりとして、髪がほんのり湿っていた。
美紗子は姉の姿を見て、「晩ご飯?」
「こっちで食べてく?」冷蔵庫の取っ手に手をかけ、訊ねれば、「ひとりで食べるの?」と妹は応えた。
「手伝えよ」
姉の言葉に、うん、と妹は頷いた。
さてさて、冷蔵庫には何があるかな、「なに食べたい?」
「なんでも良いよ」
そっか。
カレーにしようと思って、給食がシチューだったのを思いだし、肉じゃがにした。
「ピーマン入れようよ」美紗子が云った。
「苦いからやだ」亜希子は拒否した。
「苦いは美味いだよ」
「そんな格言、初めて聞いたわ」
「身体に良いって!」
「苦味は毒味だ」
すると妹は、芝居がかった風にハッと鼻で笑った。「ゴーヤは栄養満点ですのよ、お姉さま」
何を偉そうに。「わたし、知ってるよ」
「何?」なになに? お姉ちゃん?
「あんたが赤ちゃんコーヒーしか飲めないの」
「コーヒー、関係ないよ!?」
「コーヒーは子供に飲ませないでしょ」
カフェインとかカフェインとかポリフェノール。
ほら、苦味は毒味だ。
すると美紗子は。「お姉ちゃぁん」情けない声を出した。「好き嫌いばかりしちゃいけないよぅ」
知らん。
「毒味って、お殿様が食べる前に家来が確かめることだよね?」
妹よ。そろそろお口にチャックして、お黙りなさい。姉は、わたしだ。故に、絶対。
肉じゃがは、普通の普通で出来上がった。
大根のおみそ汁と小松菜の胡麻和えを食卓に並べた。
妹が炊飯器から五穀米をお茶碗によそってくれた。「はいどうぞ」
「ありがと」
見れば、美紗子のお茶碗の中は、その半分も入っていない。「それだけでいいの?」
妹は申し訳なさそうに、「うん」ごめんね、と小さな声で謝った。
「いいよ」
胸の奥が、ちくりと、痛い。
「いただきまーす」
ことさら朗らかな美紗子の声が、胸に痛い。
「あんたまでわたしに付き合うことはないよ?」
すると妹は、「そんなんじゃないよ」これでお終い、と云わんばかりに、がつがつ食べる。
優しい子だと思う。
けれども、全方位良い子ちゃんが許されるのも場合によりけりだ。
先見の明がない。
思慮分別に欠けている。
必然の板挟み。
どうあれ、安易な選択をしたには違いない。
妹に求めすぎ? わたしは意地悪な姉?
どちらでもあり、妹もまたしかり。
「向うはどう?」汁椀を手にして、亜希子は何気ない体で訊いてみた。
「怒らない?」
妹の声に、幾分の躊躇いを感じた。
だから、「怒らない」きちんと言葉にしてやった。
「順調だよ」美紗子は云った。
「ふーん」声は普通に出せたろうか。「どの辺が?」
「お腹、触らせて貰った」
「へぇ」顔は普通でいられたろうか。
「すごいよ、本当に蹴ってくるの!」
興奮冷めやらぬ、とはこんな感じだろうか。物知らずな姉に世紀の発見を教えるかのようだった。
もちろん亜希子に経験はないが、知識でなら知っている。
赤ン坊はボコボコ動いて、ベコベコ蹴る。そして時々、臍帯に絡まる。
お腹に赤ちゃんがいるって、どんな感じだろう?
自分の下腹部を意識して、気持ち悪い、と思った。
この子は、赤ン坊がどうやって腹の中に潜り込むのか知っているのだろうか。
妹は半ば身を乗り出し、「お腹の中、ほんっと、すごい。ぽこって。ぐいぐい動くの。外が分かってるみたい。ううん、分かってる。話していることとか、音とか、分かってるよ、すごいよ、聞えてるんだよ。写真にね、映ってるんだ、男の子。すごいよ」
ハイハイ、すごいすごい。
なんと語意の貧困なことよ。
「なんで男の子って分かったの?」
「女の子だったら何もないよ?」
あー。亜希子は思った。当り前だ。
「で、おヘソが出っ張っちゃって」ぶふうっと妹は物凄い音を立てて吹き出した。「ゴマ、取り放題だって」
「汚ねーなぁ」ご飯中だぞ。
「うん」美紗子は同意しながらも肩を震わせ、目尻を指で拭った。「汚いね」
男の子、か。
亜希子はお味噌汁の大根を齧った。
ちょっと芯が残ってた。
もりもり食べる妹を見遣る。
二つ違いの姉妹。
父がこだわる理由を垣間見た気がした。
もしかしたら。
祖父が折れた理由も同じなのかもしれない。
胸の奥の苛々の根源が分かった気がした。




