優月夜
「シロガネ、起きとるん?」
シロガネが立ち上がった瞬間、隣の間からフウエンの声が尋ねてきた。明かりの中に浮かび上がったぼんやり暗い影が手招きをしている。
「厠やなかったら、ちょいと晩酌に付き合って」
何と答えていいか分からなかったが、シロガネは二つの間を区切る障子をそっと開けた。八畳の居間には、今は小さな卓袱台が置かれている。それに小鍋と湯飲みが二つ載っていた。
「ほら、そこ座って」
フウエンは、あれからここへ帰ってきてからしばらく無言だったが、今はいつものように柔らかに笑っている。明かりになっているのは実はフウエン自身の尾だった。三本あるうちの一本の尾の先に、ゆらゆらと火が灯っている。
「甘酒、飲める?」
「うん」
「そりゃ、良かった」
卓袱台を挟んでフウエンの反対側へ座ったシロガネに、フウエンは湯飲みをすすめた。中には真っ白で濁った酒がたっぷり入っている。湯気がシロガネの頬を撫でて、温かい。フウエンは自分の分の湯飲みを両手で持ちながら、ゆっくりと甘酒をすすっていた。
「寒い日には、やっぱこれやね」
シロガネもそっと湯飲みに手を伸ばした。質素な湯飲みからはすぐに甘酒の熱が伝わってきて、指先からほっとした。口をつけると、金の里で飲んだことのある味とは少し違っていて思わず目をひとつ瞬かせた。
「あまい」
「ん、ああ。うち、甘いん好きやねん」
そういえば、金の里で冬の祭りに配られる甘酒はもっと濃くて酒の味が強かった。フウエンのこれは、薄めで甘い、酒というより蜜を湯で割ったような甘味だ。シロガネが黙って飲んでいると、フウエンはゆっくりと口を開いた。
「あんな……さっき怒ったんは、別にシロガネの出来の悪さを責めたんやないよ」
一番触れられたくなかったことに思い切り触れられて、シロガネは思わずぴたりと湯飲みを持った手を止める。甘酒の匂いで少し和らいでいた気持ちが、急にまた固く冷えていくのを感じていた。フウエンは、続ける。
「うちは、お前が他の狐より劣っとるなんて思うてない」
その言葉に、シロガネは頷けなかった。
「さっき、あかんと思ったんはな……基本を学んだのに疎かにしとって、しかもそれを言い訳にしようとしたことやねん」
フウエンの白い指が、卓袱台に揃えて置かれた。シロガネは、黙って俯いている。
「霊力が感覚としてなかなか分からんのは、もう、仕方のないことや。誰のせいでもない。誰かって生まれたときは知らんのやし、シロガネは生まれるんが皆よりちょっと遅かったって思ったらええだけや」
でも、とフウエンは卓袱台の上の指を固く結んだ。
「座学は、八つの歳にみんな一緒に始めたはずやろ」
「うん」
ようやく、シロガネが頷く。それは確かなことだったからだ。七つでタガネに引き取られ、すぐに読み書きを教えられた。シロガネの母は簡単な読み書きを自身で教えてくれていたので、それはさほど難しいことではなかった。
次の歳から、他の子狐たちと一緒に座学をするようになったが、読み書きで困ったことはない。ただ、シロガネの中で、座学の内容――つまりは、五行をはじめとする霊力や世界の成り立ち――が自分とは結びつかなかった。何故それを学ばなければいけないのか分からないうちに、二年間の座学の時間は修了してしまった。
が、同じ歳の子供たちと同じ時間の数の座学を受けたことは事実だった。
「ほんなら、それに関しては仕方ないとは、言えん……真面目に聞いてへんかった?」
「聞いて……た」
「まあ多分、タガネもちゃんと説明せんままに座学させたんやろうけど」
フウエンが甘酒をすする。シロガネは、ただ、湯気を見つめていた。フウエンはいつものように誰の味方でもないような言い方でぽつりと言った。
「確かに、霊力と座学とどう関係あるんか分からんかったら五行のことも覚える気も起こらんな」
ふと、シロガネは少し昔のことを思い出した。
タガネは、何も言わなかったわけではない。むしろ、座学で「理」が分かれば「霊力」のことも分かるようになると言っていたのだ。そうしたら、もっとお前も生きていきやすい。そう言って、シロガネを座学に連れて行った。引き取られて一年、食事も暖かい寝床も読み書きの時間も十分に与えられ、里での生活にも慣れてきた頃だ。
座学が優秀にできなくても、タガネに厳しく叱られたりしたことはない。が、霊力の実技でどうしても他の子供に劣るシロガネは、座学に関しても元からどこかで拗ねていたのだ。
「どうせ俺は何にもできない」
そう言って泣いて布団にこもってしまって、タガネを困らせたこともある。それでもタガネは黙っているだけだった。ただ、苦しいような悲しいような顔をする。それがまたシロガネの癪に障って、ますます霊力や座学に対して投げやりになる。それが、つい三年ほど昔のことだ。
「タガネは、悪くない」
「ん?」
「俺、色んな理由も、ちゃんと聞こうとしてなかった」
「理由って、座学と霊力のこと?」
「いや、それもだけど、色んな」
里で座学をしていたその時のことをこうして思い出すと、自分でも、幼かったと思える。母と死に別れたこと、突然狐の里に連れてこられたこと、同じくらいの歳の子たちに馬鹿にされること、その全てをひっくるめて自分以外の誰かのせいにしたかったのだ。
今とて、馬鹿にされるのは腹が立つし、自分がうまく霊力を使えないことに情けなくもなる。母が恋しいときもある。が、成長するにつれて、誰かのせいにしたいという気持ちは薄れていった。
どうやらタガネが自身の立場や生活を省みないでシロガネを引き取ったこと。世話をしてくれる屋敷の女房狐たちは皆事故や戦で家族を亡くした者たちで、母を失ったシロガネには特別あたたかく接してくれていたこと。タガネに仕えている従者たちも、シロガネのことをタガネの弟のように大事に扱っていること。里の中で小耳に挟むたびに、拗ねるような態度もとらなくなっていた。
今こうしてフウエンに諭されて改めて、あの時のつまらない拗ねた態度を後悔していた。
シロガネは自分の甘酒を一口飲んで、卓袱台に視線を落とした。フウエンは、少し黙っていたが、鍋からおかわりの甘酒を注いで静かに言った。
「まあ、お前は小さいうちに大変な目に遭うてるから、タガネも一度には説明できんかったんやな。けど、五行に限らず、世の中の全てには、必ず理由やら仕組みやら――「理」――がある」
ことわり、という言葉を使ったフウエンの頬は相変わらず真っ白で、表情もつるりとした仮面のようで何を考えているか、とてもはかりづらい。しかし、声音はどこか子守唄のようなぬくもりを含んでいた。
「理が分かれば、どんなにこんがらがったこともいつかは解けていく。難しそうなことも、実は単純なことの集まりや、って分かる。それは……霊力のこともやし、誰かと自分の間のこともや」
「誰かと、自分……」
「シロガネとタガネのことやったり、タガネとシロガネのお父上のことやったり」
フウエンのその言葉に、シロガネは目を伏せてタガネのことをそっと瞼の裏に描いた。あの頬の傷がたった数日会わないだけなのに随分と懐かしく思える。
そういえば、どんなに忙しそうな時でもタガネは必ず毎日シロガネに言葉をかけた。夜警や長の集まりや里の会合で屋敷を長時間留守にする時も、出掛ける前と帰ってきた朝にはシロガネに声をかけに部屋まで来る。そんな時、ただ「行ってくる」「留守中、何か変わりはなかったか」だけの短い言葉でも何故か安心した。
数日、タガネの声を聞いていない。それを少し寂しく感じていた。そこにも、何か理があるものなのだろうか、と残り少なくなった甘酒をすすりながらシロガネは思った。
「……シロガネのお母上は、」
「えっ?」
「お前のこと、本当に大切に、あったかく、育ててこられたんやね」
突然のフウエンの台詞に、シロガネは思わずばっと顔を上げて相手を凝視した。卓袱台を見つめるように伏せられたフウエンの目は、どこも見ていないようだった。ただ、口元だけが緩く笑っている。
座学や霊力や理の話から、どうしてシロガネの母の話になったのか、シロガネにはさっぱり分からない。が、何と言って聞いていいものか言葉が出てこない。しばらく無音が続いた。
「……お母上がシロガネを大切に思われた分、お前は、ええ子や」
フウエンは目を伏せたまま囁くように言った。シロガネがそれでも何も言わないでいると、フウエンは人差し指で宙にくるりと円を一つ描いた。その見えない円に吸い込まれるように二人の分の空の湯飲みが浮いてふわふわと消えていく。
「フウエンは、俺の母様や……父様を知ってるのか」
「いや。実は、お前のこともよお知らん」
「なのに、なんで、母様のこと、そんなふうに」
「大変な目に遭うても、うちに叱られても、逃げ出したり他人を傷つけたりせえへん。そんなええ子を育てるんはな、親のたっぷりの時間と手間とあったかい心が要るから」
フウエンが顔を上げる。微笑んだその顔は、先程までの面のような色はしていなかったが、優しそうでもあり、寂しそうでもあった。
「うちにも、そういう母親がいてくれたら良かったなと、ちょっと羨ましい」
そう言ってフウエンは立ち上がり、からりと障子を開けた。
「さあ、もうお休み」
促されるまま、シロガネは部屋へ戻った。甘酒のおかげか、手足が少しぽかぽかと温かく、ぐっすりと寝られそうだった。
(フウエンには、母様はいないのか……)
布団にくるまってうとうとしながら、そんなことを考える。自分の母が褒められたということと、タガネを少し恋しく思っていることと、フウエンの寂しそうな微笑みがシロガネの中でぐるぐると渦巻いていたが、すぐに眠りに落ちてしまった。




