二十日夜
五行、とは、この狐の世界で最も重んじられている考え方である。人でもそれを扱っている者はいるが、時代が進むにつれ数はぐんと少なくなった。
が、狐たち、とりわけ五つの里に住む者たちはこれを世界の源素として扱っているのだ。木・火・土・金・水の五つの源素はそれぞれに影響しあい、調和を保つことで存在している。特に、それぞれの源素には、相性の良し悪しがあり、時にその対立をもって相手の霊力を押さえ込んだり封じたりすることにもなっていた。
相性の良しということでは、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずるというのが基本だ。木は燃えて火になり、火は灰になり土へかえり、土の中では金属が生まれ、金属の表面には知らぬうちに水滴が生じ、水は木を育てる。これがうまく循環することで世界は保たれているという。
それとは逆に、木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つ。勝つ、とは、克つこと。すなわち、優勢に立つということである。木は地中から栄養を奪い、土は水を吸って濁らせ、水は火を消し、火は金属を溶かし、金属は木を切り倒す刃となる。この関係を使ったとフウエンは言っているのだ。
「五行の基本」
シロガネは口の中で復唱した。タガネに何度か教えてもらっていたことだ。里では五行についての座学の決まった時間まであり、同じ歳頃の子狐たちと一緒に学んだ。しかし、身近にこうやって使うものだとは、今日初めて知った。正直なところ、シロガネは元々座学が苦手で、文字をつらつらと並べ立てられてもあまり頭に入ってこなかったのだ。
「そう、基本……まさか、お前、全く知らんで霊力を使おうと……」
「し、知らなかったわけじゃ……でも、ちゃんと考えてなかったというか……」
「そりゃあ、霊力も出てきにくいはずやわ。火の時は、単に不器用なんかと思った」
フウエンはつかつかとシロガネに歩み寄り、ぴんとその額を弾いた。
「痛いっ」
「どうやら、霊力を高めるんと同時にここで座学もちょっとやった方がよさそうやな」
「……なんで」
「さっきの水の件、あれも基本が分かっとったらある程度自分でなんとかできたはずやから」
「だって、あんなこと初めてだったし」
「基本が頭に入ってたら、初めてのことでも、考えてみたらそれなりに筋道を立てることができるんや。言い訳するんやない」
珍しくフウエンがぴしゃりとシロガネを叱った。その声こそ大きく荒立てられていたわけではないが、厳しさが突き刺さる。シロガネは、何も言えずに黙っていた。
「タガネは、五行や源素について何も言わんかったんか」
「……言ってた」
「ほな、明日からは座学も復習やな」
「……」
なんと答えてよいか分からず、シロガネはぐっと唇を引き結んだ。悔しいような悲しいような苦い気持ちが、口いっぱいに広がる。そこへカラスが一羽鳴いて、フウエンははあ、と溜息をついた。
「もう日が暮れる……とりあえず、今日は帰ろう」
いつの間にか空は茜色に染まりつつあり、シロガネの修行中最も長かった一日が終わった。
フウエンの家は、外が真冬だというのに火鉢一つない。それでも不思議と寒くもなかった。シロガネは疲れと悔しさでなかなか寝付けず、薄い布団の中で寝返りを打って一人昼間のことを考えていた。
いつもシロガネが眠るときにはまだフウエンは起きていて、シロガネが起きたときにはフウエンはもう起きている。今夜も、まだフウエンの部屋には明かりが灯っていた。そういえば、シロガネはフウエンが眠っているのを見たことがない。
(……俺は、やっぱり、出来損ないなのかな)
ぐっと苦い感情がまた込み上げてきた。フウエンは、この四日間の修行の間、一度もシロガネを叱るようなことはなかった。シロガネが火をうまく操れなくてフウエンの三本の尾をうっかり焦がしそうになっても、ひらりと避けては笑って、もう一回やってみな、と言う。
何が悪かったのか、どうしたら良いのか。具体的ではなくとも、シロガネの頭で想像しやすいように言葉をくれていた。おそらく、タガネがやるよりも教えるのは上手いのだと思う。それだけに、夕暮れの中で厳しい顔をしたフウエンを見てから、シロガネは落ち込んでしまっている。
「はあ……」
仕方ないとは思いつつ、溜息が漏れる。フウエンを怒らせたことに対してか、座学をおざなりにしたことに対してか、とにかく苦しい気持ちがシロガネを押しつぶそうとしていた。できそこない、の一言が鮮明に子供たちの声で蘇る。
金の里に来た始めの頃は、里の子供たちや大人の狐たちがひそひそと陰口を叩いていたことをタガネに言ってみても、「そんなことは気にするな」と返ってくるだけだった。確かに、タガネと、タガネの屋敷に仕えている数人の狐はシロガネに対してそんなことを言ってはこない。が、それは皆大人であり、うまく感情を隠しているだけかもしれない。だから、「気にするな」という言葉をいまいち信用できずにいたのだった。
シロガネに、できそこない、という言葉は冷たく尖った硝子の破片のように突き刺さる。自分が、出来損ないではなかったら、と考えてしまうことは何度もあった。
(フウエンも、心の中では、そう思っているのか)
シロガネはフウエンを信用しかかっていた。からかったりふざけたりすることは多いが、フウエンの言う通りにすると失敗はしなかった。当然のように三食の飯も用意してくれるし、さりげなくシロガネを補助してくれている様子もあったからだ。
(でも本当は、迷惑だと思って、出来損ないの俺を仕方なく面倒見ているんだろうか)
答えのない問いだった。誰が答えてくれるわけでもなく、フウエンにしか分からない。シロガネが考えても仕方のないことだ。それでも、思考はどんどん悪いほうへ冴えてゆく。
いっそ、逃げ出してしまおうか。本当にできなくても、と、シロガネはおもむろに布団の上へ立ち上がった。横になっていると、涙まで出てきそうな気がした。




