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狐夜話  作者: 行待文哉
6/29

更待夜

「俺は、子供じゃない」

 土の里から戻ってきて、シロガネはいくらか冷えの緩んだ正午の日差しの中でフウエンに抗議していた。

急なつむじ風に目を閉じて、次に目を開けると、そこはもういつも修行をする森の中。フウエンが差し出した握り飯を手にして、シロガネは不満いっぱいの顔で強い口調で言う。

「子浚いにかかるような子供じゃない」

「はいはい」

「フウエンは、俺のこと、子供だと思って見下してんのか」

「見下してなんか、ないよ。ただ、もしもの時のためや」

 心底うんざりした様子で、フウエンは自分の分の握り飯をほおばった。

「大体、ハトバもあそこにおったやろ」

「ハトバ?」

「ハトバは確かあんたと同じ歳やったと思うけど…ジンサ様が、用心されてそれとなく御自分の傍においてらっしゃる」

「でも、ハトバは跡継ぎだからって」

「ほんでも、普通は四六時中、里の、しかもジンサ様まですぐのところにはおらんわ」

 かぷ、と大きく一口を齧ると、フウエンはもぐもぐと口を動かしながら指についた米粒を舐め取った。シロガネも、しぶしぶ自分の握り飯にかじりついた。無性に腹が減っていた。

「……俺にも、一人で土の里に行く方法、教えてくれよ」

「いつかな」

「フウエン」

「とりあえず、最低限全部の霊力が使いこなせるようにならんと」

 けらけらと笑うフウエンの言うとおり、シロガネの使える霊力は今のところ()だけで、それも使いこなせるというよりも使いはじめただけに過ぎない。辛うじて火を具現化できている、それだけだ。

 集中していれば思った形になるのだが、他のことを考えたり一気に大きな炎を出そうとすると、たちまち自分を焦がしてしまったり火がぷすんと消えてしまったりする。まだ自分の霊力が弱いのだということをはっきり感じてしまい、改めて腹が立った。

 さらに腹の立つことに、フウエンが用意する握り飯はうまい。素朴な塩にぎりなのだが、何故かとても速くシロガネの腹にすとんと収まっていく。

(うまいだなんて、絶対に言ってやるもんか)

 シロガネは黙々と握り飯を食べている。フウエンは、何事か考えながら森の中に円陣をいくつも描いていた。狐のままの足が冬草を踏むたびに草のにおいが立った。

(すい)の基本をやってみようか」

「え?」

「火の基本は分かったやろうからな」

 後の言葉はフウエンの口の中で小さく消えた。どうやら円陣は複雑になっていくらしい。小さな八つをすっぽり囲んでさらに余裕のあるような円を、また二つすっかり囲んでしまう大きな円。大人が四・五人横になっても寝られるほどの広さの地面が複雑な円でいっぱいになる。

 シロガネはそれを見ながら、フウエンにも子供の頃があって、こんな風に言いようのない不愉快さに苛まれたことがあるのか考えていた。

 シロガネ本人は、十二の歳の男子はもう大人の仲間入りをしていると思っている。現に金の里では十三になるの春の朔の日に大人たちの前で試験をし、それで認められれば武装して里や森を守る役割を与えられるのだ。

 タガネがシロガネをフウエンに預けているのも、その日が近いからに他ならない。木刀や素手を使った戦闘はタガネにみっちり仕込まれたので自信がある。だが、霊力の方がこのまま子狐よりも不安定となると…タガネの苦しそうな顔を思い出して、なんだか居心地が悪くなった。

「こっちおいで、シロガネ」

 居心地の悪さを悶々と感じていると、円陣を描き終わったらしいフウエンがちょいちょいと手招きをした。少しほっとして、今までのことを振り払ってフウエンの元へ駆ける。シロガネの黒い髪が、しゃんしゃんと鳴った。

「今から、うちとお前の霊力はこの大きな円の中に限られる」

「限られる?火の時はそんなことしなかっただろ?」

「水は、流れるやろ。火やったらすぐに消せるけど、水が暴発したら厄介」

 つまり、フウエンが描いた円陣の中を筒のように見立てるらしい。ほら、とフウエンが右手を片肩の高さまですっと挙げた。

 その右手の、手の平のどこかから、音もなく水が湧き出した。蛇のようにするすると水が一本の筋になり、地面に落ちて流れてゆく。その水の蛇は円陣の淵でぴたりと止まって、円に沿って這っていった。円から一滴も外へ漏れることはない。

フウエンの水は意志を持つようにぐるりぐるりと大きなとぐろを巻いて円陣の見えない壁を這っていった。やがて細い筋だったものがゆっくりと解けて、薄い大きな水の筒の中にシロガネとフウエンの二人は入っていた。

「この中で、お前の水を満たしてごらん」

 フウエンはもう右手を下げてしまっていた。それでも水の壁は消えることはない。シロガネは、今度は正直に言った。

「……できない」

「できひん?」

「水は、椀に入ったのを動かすくらいしかできない……」

 金の里でも、もちろん修行はしていた。それでも、火の時と同じく、やっぱりシロガネの霊力はなかなか言うことをきいてくれなかったのだ。

「うーん、そうか……うん」

 しばらく顎に手を当てて唸っていたフウエンだったが、ぽんと尾で地面を一度叩いた。その場所に小さなたき火が現れた。

「よし、シロガネ。ちょっとここあっためるわ」

「へ?」

「あたたかい、冷たい、をつかまえよう。今は、どっちや?」

「冷たい、いや、寒い、かな」

 季節は、冬である。森の中はしんと静まって、水の筒の中は流れる水の冷気で更に寒く感じられた。

 フウエンのたき火はするりと歩くようにシロガネの足元に寄ってきた。

「今は?」

「さっきより、あたたかい」

 火がぱちぱちいうのを聞いているだけでも少し体が温かくなる。フウエンの髪や目と同じ濃い橙色の炎で、シロガネの足元から冷気は去っていった。

「では、シロガネ。朝の、顔を洗う水は」

「えっ?」

「手に触ったとき、どんな感じがする?」

 季節に関わらず、朝一番に顔を浸す水は、きりっと冷たい。それは金の里のタガネの屋敷でもフウエンの家でも変わらなかった。特に、冬場は顔を洗うのが億劫になるほど冷たく、しかし、頭をすっきりと覚ましてくれる。

「冷たくて、しゃっきりする」

「うん。じゃあ、自分の手にそれを思い出して」

 言われるままに自分の手を水をすくう形にしてみる。今朝も、土間のたらいにはられていた水は大層冷たかった。それを思い出すと、手の平がちくちくする。

 そのちくちくはすぐに透明な水で満たされて現実の感触となった。シロガネの手から、泉のように水が溢れ出していた。

「お。火の時より随分霊力に慣れたな」

 楽しそうに言うフウエンを、シロガネは困ったようにおろおろと見上げた。はじめ手の平に留まっていた小さな泉はこんこんと湧き続けて、足元のたき火の中へぽたりぽたりと雫を落とすようになった。

 じゅ、じゅ、と水滴が火の中に落ちるたびに音がする。火が消える様子はないが、シロガネの水はどんどん手から流れていく。

「ほなー……川を流れる、魚を獲る時の水は」

 おろおろしながら、シロガネは懸命に昔のことを思い出した。まだ母が存命だった頃、臥していなかった頃、夏場はよく川へ行った。釣竿も何もなかったが、流れが緩く浅い川では手掴みで鮎が取れることもあった。

 (あの時の川の水は……ひんやりしていたけれど、心地よくて……)

 たちまち、シロガネの手の中の水はまろやかに温度を上げ、渦を巻き始める。魚の体温ほどの水は一筋の流れとなって静かに滴り落ちていった。

「フウエン、水が」

「うん。お前には火より水のほうが、向いてそうやな」

「そうじゃなくて、このままだと、」

「おう?」

 のんびりと答えたフウエンの狐の足元にまで、シロガネの水は届いている。それどころか、本当に川の流れがそこにあるかのようにとめどなく流れ落ちる水は円陣の底をあっという間に水浸しにしていた。

 フウエンの藤紫の袴の裾がじっとり濡れてきた。シロガネ自身の靴ももう水が滲みていて――このまま流れ続けると、フウエンの霊力でできた筒は水を満たして――

 (いつか溺れてしまう)

 ――シロガネの心に黒くぬるりとした恐怖が湧き上がってきた。

 溺れる、という経験がなくとも、水辺を生息地にしていない生き物は本能的に溺れることに危険を感じる。生命に直結しているからだ。まして、十二になった人間の子なら、もっとはっきりと恐怖を直視する。

「……シロガネ?」

 フウエンの声も聞こえないほど、シロガネの鼓動は早くなる。もう、自分の心臓の音で頭はいっぱいになっていた。恐怖で、両手を下げてしまうこともできず、どくどくと流れ続ける水は量を増してゆく。

 (駄目だ、どうしよう)

 そう思うと、シロガネの水はますます太い流れになる。脛当てがじっとりと濡れるのが分かった。止めようと思っても、手の中の水は嘲笑うように流れ出るばかりだ。

「シロガネ、落ち着いて」

 自分の声の聞こえていないことに、フウエンも気付いた。自身の霊力で作った筒はまず壊れることはないが、今の状況が良いわけではない。

 基本的に、霊力が効果を失うのは霊力を使っている本人が意思を持って止めた時だ。それは当然、本人が正常の状態で霊力を扱えている場合のこと。そうでない時は本人が何らかの理由で気を失うか命を落とすかしない限り、霊力は効果を及ぼし続けてしまう。

 その二つ以外で霊力の効果を失わせるには、もっと大きな霊力で封じていくしかない。

 フウエンはぱしゃぱしゃと足元の水を蹴り上げながらシロガネへと小走りで近付いた。シロガネはふっと自分の目の前に立った影を、大きな黒い目で見上げた。

「シロガネ、うちの声、聞こえるか」

 こくん、と頷いたものの、シロガネの喉からは声も出ず、目はフウエンをしっかり捉えているとは言いがたい。フウエンは、懐から、土の里に入るときに使った黄色い布袋を取り出して爪で裂いた。

 中に入っていた砂粒がきらきらと零れ、足元に溜まった水へと溶けてゆく。

「シロガネ、ほら、水が濁る」

 フウエンが言うとおり、たぷたぷと溜まっていた水は一瞬で土気色へと濁っていった。それだけではなく、ほんの少しの砂が溶けただけだというのに、水はたちまち粘土になってその自由を奪われていく。

「……あ、あしが」

 シロガネがかすれたような声で呟いた。靴と脛当ては何故かその粘土質な土に囚われることなくぽっかりと水から自由になった。

「よし、とりあえず、ゆっくり、そこに座り」

 言われたとおり、シロガネは腰を下ろそうと膝を折った。その瞬間、全身の力が抜けて、粘土の上へ思いきり尻餅をついてしまった。しかし、あまり痛くはない。べたりとはしているが、適度に反発のある粘土のおかげだった。

 その粘土は水の温度よりもシロガネ自身の体温に近く、手をついた感触も固すぎない。ふっと先程まで心に張り付いていた恐怖がはがれて、シロガネは大きく息を吐いた。

「フウエン、これは」

「無理やり、お前の霊力を封じさせてもろた」

 いつのまにか水はもう全て土色の泥水へと姿を変えており、やがて粘土から乾いた土へ、そしてさらさらとどこかへ風に乗って運ばれてゆく。そして、足元はおろか、フウエンの描いた筒の中には一滴の水も残らなかった。

「大丈夫か」

 ひょいと屈んで、フウエンはシロガネに手を差し出した。それに掴まりながら、シロガネはゆっくり立ち上がる。尻にも脚にも手にも大分水や泥がついていたはずなのに、フウエンの冷たい手に触れた瞬間に、どこも濡れても汚れてもいないことに気がついた。

「さっきの水……止め方が、分からなくて」

「ああ……止めようとしたんか」

「でも、川が止まるなんて、見たことないし分からなかった」

「うーん……そうやなあ……」

「フウエンは、今の、どうやって止めたんだ?」

 恐怖から解放されて、シロガネは普段どおりに口も体も動かせるようになっている。フウエンは、円陣を足で消して歩きながら答えた。

「今のは、五行の基本に沿ってお前の水の霊力を打ち消したんよ」



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