臥待夜
人の姿をしたそれは、丁度ジンサの座っている畳の一尺ほど手前に落ちた。シロガネが今度こそ木刀の柄にしっかりと手をかけると、その落ちてきたものは一瞬ですたっと立ち上がって間延びした声をあげた。
「なあんだ、フウエン様でしたか」
声変わり前の高い声に、ジンサとフウエンが二人同時に大きく溜息をついた。声の主はシロガネとあまり歳のかわらない少年で、暗い色の髪を眉の上で真っ直ぐに切りそろえていた。
「これ、ハトバ。客人になんという……」
ハトバ、と呼ばれた少年は、きゅっと目尻の釣りあがった細い目を、くるりと顔ごとジンサの方へ向けた。後ろ頭の髪は、さっぱりと耳の高さで揃えられている。
「だって、急に何かがジンサ様のお部屋に入ってきた気配がしたんですもん。急いで来たんですよ」
「急いだ、とは言うが、お主な……フウエンがここに現れてからもう結構な時間が過ぎておるぞ」
「……はい」
「もっと精進せんか。これがフウエンでなく真に敵襲なら土の里はどうなることか…」
「ごもっともです……」
一本しかない尾をしゅんと垂れてしまった少年に小言を言い始めたジンサは、先程までの張り詰めた緊張感など忘れてしまったようだった。その姿は、悪さをした孫を叱る祖父、という様相にも見える。
呆気に取られてそれを見ていたシロガネは、フウエンに尋ねた。
「なあ……俺は、どうすればいいんだ?」
「なんもせんでええよ。とりあえず、ジンサ様に会ってうちの家の中に居る間の安全は約束してもうたから」
「家の中?」
「うん。うちの家は、ジンサ様に取り計らってもうて、土の霊力の中に隠してるから。いちいち出入りは面倒なんやけど、滅多なことで壊れへんし他人も入らん」
シロガネは自分が寝起きしているフウエンの家を思い浮かべた。そういえば、あの家は森の中にある感じではなかったなと気付く。家を出るとき入るときは常にフウエンがあの円陣を描いて呪文を唱えていた。
土、という単語に驚いたが、今まで特に息苦しかったり圧迫感を感じたことはない。それは、埴狐が暮らしているのと同じようにしていたからだったのだ。
「今までは安全じゃなかったのか?」
「いやまあ、安全やけどね。けど……」
珍しく少し言い淀んで、フウエンはふっと視線をシロガネから外した。
「けど?」
「……最近、物騒なことが起きとるから」
曰く、シロガネがフウエンに預けられる少し前から、狐の里のいくつかで、子浚いが起きているというのだ。変化を覚えたばかりの幼い子狐から、里の中で修行に励んでいる少年少女まで、夕方から深夜にかけての闇に紛れて浚われてしまうという。
「用心するにこしたことはあらへんからな」
「……俺、子供扱いされてんのか」
「子供やろ。しかも、霊力の使い方もこの三日でやっと覚え始めた」
何の悪意も無くけろりと言われたことに、シロガネがぶすっと顔を背けた。分かっていても、はっきり言葉にされるとやはりシロガネの尊厳が傷つく。フウエンはそれを片眉を上げて眺めながら続けた。
「うちが居らん時、いざとなったらジンサ様がなんとかしてくれる」
「……」
拗ねて、それには答えなかったシロガネだが、そっぽを向いた先で、ジンサに絞られている少年と目が合った。少年は細い目をいっぱいに開いて健康そうな頬をぱっと緩める。
ジンサと同じ黄土色の水干に墨色の袴、手には短刀を握っていた。
「ジンサ様、あの子は新しい埴狐ですか?」
「ハトバ、話を聞いて……あれは、フウエンの弟子になった子だ。将来は鉄狐になることが決まっとる」
呆れた様子ながらもジンサは律儀に少年に答えている。そしてシロガネに目を向けると、向き直って居住まいを正して改めて少年を紹介した。
「シロガネや、これはハトバという。私の跡を継ぐべく傍に置いて修行させて……その成果があるかは、ご覧の通りだが」
「はじめまして、ハトバです」
ハトバは、人懐っこそうに笑った。先程まで垂れていた尾も、今は左右に揺れている。裸足の足で小走りに駆けてきて、シロガネに向かって手を差し出した。近くに寄ると二人の少年は背も全く同じくらいだった。
ぎこちない握手をして、シロガネもようやく口を開いた。
「シロガネ、です」
シロガネは、同じ年代の子にこんなに親しみを持って接されたことがない。目の前でにこにこして、「歳は?」「フウエン様って、怖い?」「どんな修行してるの?」と質問攻めにしてくるハトバにただうろたえるしか出来なかった。
「ハトバ、うちに挨拶は?」
「ああ!忘れてましたあ、フウエン様。お久しぶりです」
フウエンが苦笑しながら割って入って、シロガネはようやく大きく息を吸った。ハトバは今度はフウエンに色々と言い出した。
「フウエン様、こんな風に入ってこられたら、困ります!」
「ん?」
「するっと入ってきて、いきなりジンサ様の部屋だなんて、敵襲かと思うじゃないですか」
「ああ、悪かったな」
「大体、フウエン様はいつも連絡もなしに来られて……僕だって、連絡があればもっと近くで待機してました」
「敵襲は連絡なしに来ると思うけど」
「あ、そうか」
「ハトバは……変わってなくて安心したわ」
フウエンがそう言うと、ジンサが畳の上から苦く言った。
「フウエン、それでは困るのだがな。お前からももっと厳しく言ってもらわんと、ハトバはいつまでたってもその調子だ」
その言葉に、またハトバの尾が垂れてしまう。そのハトバの頭をフウエンはつんと指で軽く弾いた。
「がんばれ、ハトバ」
「……はあい」
ハトバが頷くのを待たずに、フウエンは少し後ずさった。帰るつもりらしい。ジンサにもう一度深く礼をして、口の中で「失礼致します」と呟くと、不意にフウエンとシロガネの足元から大きなつむじ風が巻き起こった。
「達者でな、フウエン。シロガネ」
つむじ風に呑まれて一瞬で消えてしまった二人に、ジンサは言った。ハトバは何やら首を傾げながらフウエンの居た場所に残された一枚の枯葉を拾い上げた。桂の葉である。ハトバがそれをジンサの元に持って行くと、ジンサはふっさりとした髭の間から低く呟くばかりだった。
「あのフウエンが、他人と関わるか……」




