居待夜
「さて、ほんなら次の段階にいこうか」
火を扱う修行が始まってから四日目、いつもの広場の真ん中でフウエンはシロガネの足元を指差して言った。今日のフウエンは、若紫色の羽織に身を包んでいる。
「次って?」
「土の里に行く」
土の里。どのさと。シロガネは口の中で呟いた。これまで、金の里と西の森以外に出向いたことがないシロガネにとって、初めて行く他の狐の里だ。
「どっちの方角にある里?」
フウエンは、シロガネの問いに足元をもう一度指した。
「……ふざけてる?」
呆れた、とシロガネは溜息をついた。
シロガネは、この三日でほんの少し、フウエンという狐のことが分かってきていた。
おそらく、この風狐はかなり霊力があって、しかも食えない性格をしている。案外優しいのかと思いきや、シロガネをからかって大笑いしてみたり、自分が聞かれたくないことは上手くはぐらかしたり。
霊力の修行以外のことには基本的にシロガネを大人の客人扱いするのだが、まるで昔から知っているかのような馴れ馴れしさがある。シロガネは、この風狐相手にあまり肩肘を張るのは馬鹿らしいと思いかけていた。
今も、フウエンはシロガネの足元を指差して緩やかに微笑んでいる。
「ふざけとらんよ」
「でも、地面だぞ、ここ」
「土の里は、うちらの立っとるこの地面の奥にある」
そう言うと、フウエンは左手をくるりと一回まわした。その手には、ひとつかみの桂の葉が握られている。黄葉し終わったのだろう、見るからにかさかさと乾いて、黄土色に固まっていた。
「掘る、ってことか?」
「いや。行き方にはコツがあってなあ」
フウエンがその落ち葉を自分とシロガネの間へばらばらと巻いて、懐から短い杖を取り出した。その杖で、二人と落ち葉をすっぽり包むくらいの円を地面に書いていく。地面に円を描き終わったら、杖を懐にしまって代わりに小さな布袋を取り出した。
「それ何?」
「土の里の、匂いや」
フウエンの手に乗った黄色い布袋は、錦織の巾着だった。シロガネがそれに顔を近づけて、くんと嗅ぐと、甘い蜜のような匂いがした。
「よし。ほな、行こうか」
フウエンがシロガネの鼻先を摘むと、円の中にごうと風が吹いた。思わず目を閉じたら次の瞬間には二人は暗い洞穴の中にいた。
「なにするんだよ!」
「あはは、痛かった?」
「痛いし、驚くだろ!」
そんなシロガネの抗議を片手で抑えつけ、フウエンはひらりと身を翻した。
「でもほら、土の里、着いたで」
大人二人がやっと通れるくらいの洞穴の中に、重たそうな鉄の扉があった。フウエンはそれに手を乗せ、何事か口の中で呟いた。シロガネにははっきりと聞き取れなかったが、フウエンが「鎮星」と唱え終わったき、扉がひとりでにゆっくりと押し開かれた。
扉の向こうから、湿った風が吹いてくる。フウエンに続いて扉をくぐると、シロガネの黒くて真っ直ぐな髪がぞわりと逆立った。暖かくも冷たくもない、しかし心臓を直接撫で付けるようなしっとりとした風。そして光のない土壁に包まれた洞窟。恐怖をそそられるには十分すぎるほどだった。
自分の水干の袖を掴んで気を落ち着け、前を行くフウエンについていく。フウエンの赤茶色の髪と若紫色の羽織はまるでそれ自身が光るようにぼんやりと洞窟の中に浮かぶ。シロガネは、思わず口を開いた。
「狐は、いないの?」
「ん?ああ……土の里はな、ちょっと変わっとってな」
狐の脚でふとふとと歩いていたフウエンがいつも通りの暢気な声で返す。それに少し安心して、シロガネは少し歩調を速めた。フウエンの三本の尾には器用にその三本それぞれの先にちろちろと小さく火が灯され、シロガネの前を照らす。
「土の里のど真ん中には大きな洞穴があって、その横道にある小さい洞穴に何匹かで住んどる。仕事するときは大きい洞穴まで皆出てきて、それ以外はあんまりお互い行き来せんみたいや」
「この、今、俺たちが歩いてるのは?」
「長の洞穴に続いとる道」
「ちょっと待て、いきなり、埴狐の長に会って、どうするんだ」
「うん。長に用事があるから」
答えになっていない答えを返したフウエンの姿が、一瞬眩しい光に包まれた。目がくらみそうなその光は、フウエンとシロガネの行き先から発せられている。咄嗟にシロガネが左腰に下げた木刀に手をかけると、その光の中から低くしわがれた声がした。
「…なんだ、突然敵襲かと思いきや……フウエン、お前か」
その声が終わるか終わらないか、しゅうと光が収まって、秋の夕方ほどの明るさになった。改めてよくよく周りを見ると、いつの間にか二人は広い場所に出ていた。
二間ほどの天井に、天球儀や運天儀がいくつも置かれた木の棚。二十畳は優に超える土の床の奥、鈍い金色に輝く屏風を背に、ぽつんと畳が一畳分だけ敷かれている。その上にまるで土の塊のように、こんもりと老人が一人座っていた。
「お久しぶりです、ジンサ様」
「息災であったか」
「ご覧の通り、おかげさまで」
老人は黄土色の重そうな衣にうずもれる様に座っている。衣の中央には白の刺繍で麻の花が多きく一輪咲いており、老人が喋るたびに微かに揺れた。その背中にはふさふさとした狐の尾が八本。それが扇のように広がっている。
「ジンサ様もお変わりなさそうで、なにより」
その存在感にもシロガネは圧倒されていたが、何よりも今まで聞いたことのないほど丁寧な物言いをしているフウエンに驚いた。
「ちょっとシロガネ、どうしたん?」
木刀の柄を半端に握ったまま動けなかったシロガネだが、振り返ったフウエンにいつもの調子で話しかけられて我に返った。フウエンが少し体をずらしたことで老人の顔がはっきりと見える。が、ふさふさと衣の裾まで垂れた豊かな白髭と目を隠してしまうほどの白い眉毛に覆われて、表情はうかがえない。ただ、屏風の前で揺れる尾の数とわずかに見えた肌色の部分に深く刻まれた皴が、老人の長命を物語っている。
「あ……えっと、」
シロガネが何を言うべきか迷っていると、老人が片眉をぴくりと持ち上げて言った。
「フウエンお前、いつの間に子など産んだ」
「ぷっ……はは……違います、ジンサ様。これは、私の友からの大切な預かり物でして」
こらえきれないといった様子で笑いながら老人に答えたフウエンは、口をぱくぱくさせているシロガネをずいっと自分の隣へ立たせた。
「金の里の、シロガネにござります」
「ほう」
「タガネの養子ですが、故あって、しばらく私の元で修行する運びとなりました」
「ふむ」
言いながら、老人は眉をもう少し上げる。闇夜の黒猫のごとき金色の瞳がぎらりと見えて、シロガネはますますどうしていいか分からずに立ち尽くした。
「ほら、シロガネ、挨拶」
フウエンに肩をつつかれて、シロガネはどぎまぎしながらぺこりと首を垂れた。
「シロガネ、です。お初に、お目にかかります」
タガネも礼儀作法には厳しかった。金の里でタガネよりも位の高い狐はいなかったが、常に年長者には礼儀正しくあれと言われている。フウエンに会ってからは使っていなかった敬語は、久しぶりに使うとちょっと舌がもつれる感じがする。
「ほう」
ジンサが、シロガネに向かって金色の両目を向ける。もぞりもぞりと衣の裾から枯れ枝のように細い老人の腕が一本出てきた。その皴だらけの腕はシロガネの方を目指して、肘まで衣から出たところで止まった。
反射的にくっと身を緊張させたシロガネに、フウエンは静かに言った。
「何もされん。力抜きな」
フウエンの言うとおり、ジンサは骨と皮だけの手指を閉じたり開いたりしているだけだった。三度・四度それを繰り返すと、やがて老人の腕は衣の中へと帰っていった。
「ふむ。人と狐の子か」
シロガネは、目を見開いた。先程、フウエンはシロガネの出自については何も言わなかったはずだ。ジンサは目を閉じ、小さく浅く一つ息をした。
「霊力はまだ不安定なのだな」
ジンサが次に見たのはフウエンで、フウエンは薄く笑みを浮かべながら答えた。
「はい。それで、私とあの家で暮らし、森で修行しております」
「ああ……ここ二・三日、お前の家の方から妙な重みを感じていたが」
「しばし、お願いいたします」
フウエンが腰を曲げてジンサに頭を下げた。慌ててシロガネもぺこりと礼をする。ジンサは髭を震わせて低く地を這うような音で笑った。
「ほっほっ……心得た、心得た」
フウエンも頭を上げてにっこりと笑い、では、と踵を返そうとしたその時、急に高い天井からどさりと何かが落ちてきた。




