春緩夜
ある、肌寒さの残る春の夜。
「うまい」
フウエンが酒の注がれた猪口を一舐めして満足そうに笑う。タガネも、同じく酒の注がれた猪口を手に頷いた。二人は大きな桜の木の、特に太く伸びた枝に並んで腰掛けていた。
「うむ。今年も、良い酒が出来た」
そう言って、タガネが手にしていた提子を軽く持ち上げた。それに入っているのは、金の里の酒。二人が今嗜んでいるものである。桜の枝から見る夜空には、細い三日月がかかっていた。それを肴に、二人は久しぶりにゆっくりと酒を酌み交わしている。
あのクヌギの子浚いの件より、幾週かが過ぎていた。季節は、あの時から一つ進んでいる。狐の里の事態も、大きく変わっていた。
あのあとすぐ、クヌギは事情を話すためにフウエンに連れられて火の里へ行った。そこには、タガネが呼んでおいた者たちが待っていた。ジンサ、ミナト、ウルシ、そして各里の狐が数名ずつである。そして、カガルの眠っている広い間で、イブルとカガルの前で、クヌギは自身で事の経緯を話したのだ。
一同、初めは何も言えずにいた。ただ、イブルだけが、真っ赤に泣き腫らした目で小さく言った。
「だからって、許せない」
それに、クヌギは深く首を垂れた。話を聞いた皆が、そう思っているのは明白だった。
ミナトの進言で、クヌギの身柄は一旦ジンサが預かり、しばらくは土の里の奥深くに幽閉されることになった。何度か長同士で話し合い、処遇を決める――これからどうするのか、わずか十の少年の将来を決めるのにはたっぷりとした時間が必要だった。
木の里は一時的に長の座が空くことになるが、クヌギの兄弟に再び争わせるわけにはいかない。根本から、濁った制度を立て直さなければ、今回のようなことは必ず起こるのだ。暫定的にウルシが引き継ぐことになったが、その顔は真っ青で、力なくただ一言。
「僕には無理だ……」
生まれて十八年の彼もまた、犠牲の一つかもしれなかった。
「イブル殿は、よくやっている」
タガネが猪口を膝に置いてぽつりと言った。カガルの意識が戻らない間、火の里の長はイブルが代役を勤めている。歳は十五、まだ幼さの残る真っ赤な髪の少女は、兄の代役としてかなり気を張って仕事をしているらしい。タガネもジンサも、できるだけの助力をしている。
ミナトの看病の甲斐あって、眠っていたカガルの意識も三日ほどで戻ってきた。しかしそれからしばらくは全く四肢を動かせず、季節の変わった今も、ようやく一人で立ち上がって庭まで出ることが出来るようになったばかりだ。確実に回復はしているようだが、本調子に戻るにはまだ多くの時間がかかりそうだ。カガルは目が覚めてからクヌギのことを聞いたが、
「そりゃあ……もっと早く、気付いてやればよかったなあ」
と、そっと目を一つ瞬かせただけだったという。
浚われた子は、ミナトが手配した風狐によって多くが戻ってきた。木の里から浚われた子三人は人間の里の近くの森で震えているのを発見され、火の里の二人も水の里の二人も、人間の里で人買いに売られていたところを助け出された。カガルが大怪我を負う前の日にフウエンがミナトに出していた文は、そのことを相談する文だったのだ。
タガネがフウエンと繋がりがあるように、ミナトにも幾人か風狐の知り合いがいる。特に世話好きで治癒の能力の高いミナトを慕う風狐は多い。風狐はいつもふらりふらりと漂っており、狐の里と人間の里を行き来する者もいる。フウエンはその風狐たちに里や森を越えて浚われた子を探してもらうようにと、文にしたためたのだ。そしてその文に、
――今回のこと、どこかの里の長が関わっているやもしれません
とはっきり書いた。ミナトに、フウエンが考えていたことのあらましを伝えてあったのだ。どうやら、火の里を出たとき、ある程度のめぼしをつけていたらしかった。
フウエンは、クヌギが幽閉された後にタガネとシロガネに理由を語った。金の里、タガネの屋敷の居間だった。
「今回の子浚い、金や財宝を目的にされたことではないわな。身代金も脅すような文もない……ただの子供が、何か特別なもん持ってたとも思えん。ということは、目的は子供を浚うことそのもの。ここで、貧しいもんは犯人から除外。そして、犯人は明らかに霊力を使うとる。人や、ただの狐が、短い間隔でたくさんの子を誰にも見られんと浚うんは不可能や。霊力がないもんはここで除外――……」
黙って聞いていたタガネが険しい顔をして口を挟む。
「それが、なぜ、長だということになる?」
出された茶を一つすすって、フウエンが続けた。
「浚われた子が三つの里にまたがっとる。里と里の間を移動するだけでもかなりしんどい、普通に霊力のある大人の狐でも大仕事。なんぼ霊力が強い風狐でも連続しては無理や。となると、今回のようなことができるんは霊力が特に高いもんに限られる」
「……長は、俺も含めて五人いるぞ」
「まず、お前みたいな思うとることを隠せんような男に、あんな器用なことは無理」
シロガネが思わずくすっと笑う。タガネはむっとしたようだったが、フウエンは構わずに続ける。
「カガル様もジンサ様も、やろうと思えばできると思うけど……二人とも、いつも傍に家族がおる。三ヶ月の間何度も子浚いに出かけるために近くの人間をその度に騙すんは、ちょっと、対価が大きすぎる」
真っ赤な長い髪に強い目をしたイブルと、黒い髪を切り揃えてふわふわと笑うハトバ。二人の顔がシロガネの頭に浮かんだ。
「で、ミナト様にはもう直接揺さぶりをかけてみた」
「その最中に、あんなことが起きた……」
うん、と一つ頷いて、フウエンはちょっと片眉を上げた。
「ミナト様なら、命を確実にしとめるか、あんな悲惨な怪我にせんともっと綺麗にやる」
フウエンは恐ろしいようなことをさらりと言ったが、タガネもあっさり頷いた。シロガネは、あの美しい人形のような黒髪の女性がそんなことをするのかと半ば信じられなかった。だが、大人二人はミナトの本当の姿を知っているようだ。
「となると、クヌギ様かなと思ってるうちに、クヌギ様はカガル様の屋敷から姿を消して」
フウエンは焦ったらしい。屋敷の中にクヌギの姿がないと気付いた瞬間、自分の持っていた護法童子が暴れだしたのだ。
護法童子は、一枚の紙を二つに裂いて、一つをシロガネの襟に、もう一つをフウエンの懐に忍ばせていた。どちらかが危機にあれば、もう一つはそれを救うためにそちらへ向かおうとする。フウエンの持つ護法童子が暴れるということは、シロガネの身に何かあったということになる。
フウエンが護法童子を追って森をいくつか跳び越していくと、あの場面に出くわした。一緒についてきたタガネは、フウエンが言うことをにわかには信じられなかった。が、実際にクヌギが木の龍を伴ってシロガネに攻撃を加えているのを目の当たりにすれば、そう飲み込まざるをえなかった。
ミナトは、カガルの容態が落ち着いたらすぐに知り合いの風狐たちに子狐たちを探してほしいと頼んだ。真冬の風の中をびゅうっと吹雪が去るように、風狐たちはすばやく駆ける。一人、また一人、と子はそれぞれの里へ帰ってきた。
「残るは、水の里から浚われた子が一人……」
その子だけが、まだ見つからなかった。一番初めに浚われた、母の魚を楽しみに待っていた子であった。
そんなことをぽつりぽつりと語り合いながら、フウエンとタガネは酒を飲んでいる。ゆっくり、喉にしみこませるように、三日月夜を味わっていた。
「そろそろ来るかな」
フウエンが猪口を膝に置いて大きく背中を伸ばした。
「いや、もう来たようだ」
タガネは足元を指差して、厳つい顔にほんの少し笑顔を見せた。指の先に、シロガネが不満げな顔をして立っている。二人の下から、少年が叫ぶ。
「二人とも、人を呼ぶときは自分がどこにいるか知らせろよ!」
ばさばさの黒い髪、大きく丸い目、引き締まった口元。違うのは、いつもの緑の水干ではなく、タガネと同じような真っ白な褐衣を身につけていることだった。胸と両袖には濃い紫で染め抜かれた桔梗の紋、そして腰には真新しい刀。
シロガネは、二日前の新月の夜に、正式に大人の鉄狐として里に認められたのだ。




