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狐夜話  作者: 行待文哉
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十日月夜

 シロガネは、クヌギの指先を見返した。声はない。フウエンもタガネも、ただ頭上の宙に立ったクヌギを見つめている。幼さの残る声が語った事件の真相に、誰も何も言えずにいた。

 ずずぅう……

 地響きがして、森のどこかから切り落とされた龍の手が地を這ってシロガネに向かって突っ込んでくる。タガネがすばやく身を翻し、その龍の手を大刀で受け止めた。シロガネの黒い瞳いっぱいにタガネの大きな背が写り、強い衝撃に逞しい肩がどんとひとつ揺れた。

 すぐさまフウエンがひゅうっと飛び寄ってきて、タガネの刀に食い込んだ龍の手に触れる。触れたところからびきびきという冷たい音がして、見る間にそれは凍り付いていった。

「……むん」

 ぱきっ……ばらばら……

 タガネが大刀を捻ると、それは粉々に崩れ去った。フウエンがその欠片に向けて右腕を一振りすると、それは跡形も無く風になって消えた。

「クヌギ……」

 大刀を構えたまま、タガネはクヌギを見上げていた。その名を呼んだ声は、ほんの少し震えて夜に消えていく。フウエンは俯いたままシロガネに歩み寄り、同じくクヌギを見上げた少年の肩をしっかりと抱いた。シロガネの胸に、怒りも悲しみも憐憫も――今までに感じたことのないほどのたくさんの感情がないまぜになっている。叫びたいような、泣き出したいような気持ちだった。

「君は、なんでそうやって誰かに守ってもらえるんだ……」

 クヌギはふわりと地面へ降り立ちながら言う。タガネに斬られた龍の体にクヌギが触れると、それは不気味に動き出した。

 うぞ、もごもご……

 真っ二つになった龍の体が、見えないものに持ち上げられていた。頭はぶるぶると左右に揺れ、龍の腹はずるずると土や草をすり潰す。もぞり、と大きな二つの影がタガネ、フウエン、シロガネに向かって迫ってきた。クヌギが言葉を続ける。

「僕は、誰にも守ってもらえなかった」

 首を失った龍の胴は狂った動きをしながら三人に踊りかかった。タガネが、瞬時にその木の鱗の背中を刀のみねで防ぐ。タガネの大刀の先には龍は動けない。

 がつっ

 びゅるおうっ

 尾を振り回してタガネを潰そうと、龍はのたうち回る。その尾を跳んで避けながら、タガネは再び真っ直ぐに刀を振り下ろした。

 ぶつん……

 音と共に、胴は斬りおとされる。が、全く動きの止む気配は無く、輪切りになった胴を置いたまま尾はタガネに執拗に襲い掛かった。鱗に沿って刀の刃を滑らせてそれを避けながら、タガネが後方へ叫んだ。

「フウエン!そちらは、一人でなんとかなるか?」

「なんとかする!お前こそ、平気やろな?」

 フウエンは、龍の頭と対峙していた。背にシロガネをかばうようにすっくと立ち、タガネの声に大きく返事をした。首だけになった龍が、その口にめらめらと炎を噛んでいる。

 ごおうっ

 龍の口から勢いよく炎の流れが吐き出される。まるで鉄砲水のようなそれを、フウエンは左手に持った札一枚で押さえつけた。右手で印を結ぶと、その指先から太い水の柱が上がる。水の柱に龍の炎が呑み込まれるが、それを待たずに龍は頭のまま突進してくる。

「あぶなっ」

 フウエンがシロガネの背中をわっしと掴み、高く宙へ跳んだ。地上で進行方向を真逆に変えて止まり、龍の首は跳び上がってくる。喰らおうと開かれた口に、フウエンが石が一つ投げ込むと、それは小さく爆発を起こした。

「悪い、シロガネ!一旦降ろすで!」

 ぽわん、と間抜けた音がしてシロガネの体が柔らかく地面についた。尻餅をついたが、まるでつきたての餅を尻に敷いたような感触だ。がばっとフウエンの方を見ると、いつの間に抜いたのか、すらりとした細身の刀を龍の口に縦に抑えつけている。ぎりぎり、と音がしそうなほどの緊張が張り詰めていた。

「ねえ、どうして?」

 シロガネのすぐ隣で、クヌギの声がした。振り返ると、表情を失くしてシロガネを見据えるクヌギがいた。手には懐刀。シロガネの眼前に、その銀色に光る刃を突き立てていた。

「どうして僕だけが、苦しいのさ」

 シロガネの前髪と、懐刀の切っ先はわずか三寸。動けば斬られる。シロガネの手に、木刀はない。先程落として、そのままだった。ただ、その青みがかったガラス玉のような二つの瞳を、シロガネはじっと見た。

「君は……君はどうしてそんなに恵まれているんだ」

 は、とシロガネが息をのむと、クヌギの両目からつつうと水が細く流れた。

「霊力もまともに使えない!武術だって誰かの助けが要る!そんな何も優れていない君が、どうして優しくしてもらえるんだよ!」

 泣いていた。声を荒げ、涙で頬を濡らし、シロガネの顔に刃を向け、クヌギは泣いている。

「僕はどんなに頑張ったって優しくされない!君は、なんの努力もしないで守ってもらえる!」

クヌギの叫びで、森が揺れる。シロガネはそのクヌギの感情の爆発に思わず自分もつられていた。

「お前に俺の何が分かるっていうんだ!」

 シロガネの大きな声に、クヌギが一瞬びくりと肩を震わせる。それでも、刃は向けたままだ。

「かあさまが死んで、いきなり霊力がどうのと言われて、周りの奴にできそこないって言

われて、お前に俺の何が分かるっていうんだよ!」

 母の最期のときの事が鮮明に思い出される。目を閉じたらもう会えないと分かっていて、その痩せた胸にすがり付いていた。潤いも温度も失った母の手。幻のように消えてしまった、愛しい母。

そのあと突然連れてこられた狐の里はシロガネには馴染みやすいものではなく、子供たちのからかいの声は今も耳にこびりついている。そのとき、母がいてくれたら、と何百回思っただろうか。

「肉親がいない悲しさは、分かるさ」

 シロガネにも、父も母もない。二親を失った七つの子の心は、どれだけ心細かっただろう。夜、どんなに泣いても抱き締めてくれる腕はない。わがままを言って甘えることもできない。一歩タガネの屋敷の外へ出れば、シロガネは一人ぼっちだった。

「俺は、お前とは違って霊力はてんで駄目だ。里の奴らは、みんな俺を馬鹿にした。正直、誰に怒っていいのかも分からなかった」

 ――でも、誰かを傷つけていいなんて思わなかった

 シロガネは、黒い瞳に強い光を灯して言った。目の前の刃よりも月の光を反射するような視線だった。

 そこに、恐怖はなかった。

「お前が苦しかったこと。それと、誰かを傷つけていいことは違うだろ」

 クヌギはシロガネを睨んだまま黙っている。わなわなと唇が震えていた。そして、その唇はぐにゃりと歪んでつり上がる。

「……君には、タガネさんやフウエンがいるから、そんなこと言えるんだ」

 すっとクヌギが刃を振り上げた。シロガネは尻餅をついたままそれを睨んでいた。今、クヌギに恐怖は感じない。目の前にいるのは、ただの悲しい一人の子供だった。

「ねえ!フウエン!」

 空気がびくりと動く。龍の胴を相手に刀を振るっているタガネも、龍の口を抑えつけて呪文を唱えていたフウエンも、クヌギの方を向いた。

「フウエン、君が今その術を解いてヒバリに大人しく食われてくれたら……この子を逃がしてあげるよ」

 ただし、術を解かないのなら、僕はこのままこの子を斬る――……

 クヌギの声は笑っていたが、眼は真っ赤に腫れあがっている。泣いたまま、クヌギはフウエンに怒鳴った。

「君がその刀を納めたら、僕も刀を納めるよ!」

「フウエン、聞くな!そんなこと!」

 シロガネが叫ぶ。クヌギから目を逸らせないので、フウエンの様子は窺えない。タガネも、がっがっと続く重く鋭い衝突音の間から叫んだ。

「クヌギ!俺がフウエンに代わる!もうこれ以上、誰かを巻き込むな!」

 クヌギはタガネの声など聞こえていないようにフウエンに問いかけ続ける。

「さあ、早く刀を下ろして」

 フウエンの落ち着いた声が、夜の風に乗って響いた。

「……分かった」

 シロガネは、自分の肺の細胞が動く音をつぶさに聞いた。心臓が、爆発しそうに高鳴っている。

 しゃらん……ちいん……

 遠くで、刀を鞘に納めた音がする。クヌギが、ほっとしたように微笑んだ。

「さよなら……大嫌いだった、いつも気ままに自由を見せつけていたフウエン」

「そりゃあ、ご丁寧に、どうも」

 ぎゃおおん

 龍の歓喜の声。風を、大きなものが切っていく音。タガネの怒号。クヌギの笑い声。

「シロガネ、さいなら、やなあ」


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