蜥蜴夜
「君、そんなに強かったんだね」
頭上から、高い声が降ってくる。見上げれば、月を背にしてクヌギがシロガネを見下ろしていた。もう笑ってはいない。
「ヒバリ、おいで」
クヌギのその声に、大気が不穏な音を立てて渦巻きだした。シロガネが呆然と見ている先で、クヌギの足元には真っ黒で大きな雲が育っていく。ばちばちという音と黄色い稲妻。クヌギの足元の雲が、雷を伴っていた。
「ヒバリの出番はないと思ってたんだけどな」
ぶつぶつと何か唱えながら、クヌギがその雷雲に膝をついて片手を突っ込んだ。その瞬間、ひときわ大きな雷鳴が響いて、雷雲から太く長い影が這い出てきた。
ずうる、ずうるり
龍である。体長は、一丈にもなるかという大きさの、二本の角と長い髭を持つ龍。それが雲から地上へ向けて産み落とされていく。樹齢千年の杉の巨木ほどの太い体が、ゆっくりと腹を地面に擦りつけた。シロガネは、三間ほど離れたところに大きな龍の頭がある事態にすっかり声を失っていた。
(木の、龍だ)
龍の鱗は、紛れもなく一枚一枚が木の皮だった。龍が動くたびに、ぎしぎしと木時が擦れあう悲鳴のような音がする。顔や背に並んで生えた毛はふっさりとした緑の木の葉であり、ぎょろりと辺りを見回してる二つの目玉は磨き上げられた石である。瞳孔は、真っ青な菫の色だ。
「ヒバリ、あの子を捕まえておいで」
クヌギは依然高いところにいる。木の龍は、クヌギの言葉を解しているように吼えた。
うおぉん……
周りの物言わぬ木が震え上がるような雄たけびに、シロガネも身を震わせた。木刀を握った自分の手の感覚が分からないほどに、底知れない恐怖に襲われている。雄たけびが終わって龍が首をもたげて突進の姿勢をとっても、動けなかった。
そのシロガネに向かって、龍は飛び込んでくる。土人形とも、今までシロガネが手合わせをした大人たちとも、比べ物にならない。本当の風のように龍は空間を滑ってきた。
頭では、早く避けなければと分かっている。一回の瞬きの間に、龍は牙が並んだ大きな口を開けてシロガネの眼前に迫っていた。
(だめだ!)
思わず目を閉じた。全身が、極限まで緊張している。もうどうにもならない、と、シロガネは十二年の命の中で初めて死を意識した。
「……んー?」
「え……?」
クヌギの不満そうな唸りと、シロガネの掠れた声が、月夜の中に同時にこぼれた。龍は大きな突進を終え、体を捻ってぎょろぎょろと対象を探している。龍の体が通った跡は、全ての木がなぎ倒されて更地になっていた。シロガネは、それを自分の足元越しに見下ろしていた。
「……え、な、なんだ?」
シロガネは今、クヌギと同じ高さの宙に浮いている。木刀はかろうじて握っているが、手足の力は完全に抜けていた。水干の首の後ろの襟を、誰かが掴んでいる。恐る恐る後ろを振り返ると、そこにいたのは
「……俺……?」
黒いばさばさの髪、同じ色の丸く大きい目、桔梗の紋の水干姿。鏡を見るように、全く自分と同じ顔がすぐ傍にあった。背丈も体格も同じその少年は、にっこりと笑いながらシロガネを宙へと引っ張り上げていた。
「……護法童子か」
クヌギが、搾り出すような声で言う。それを聞いていない素振りで、シロガネと同じ顔の少年はシロガネに笑いかけている。少年がゆっくりと手を離しても、シロガネの体は浮いたままだった。
「本当に、厄介だな……」
ぎりり。シロガネに聞こえるほどに、クヌギが歯軋りをする。ここで初めて、クヌギの表情と声色が一致しているようにシロガネには見えた。瞳には怒りの色を湛え、口元は大きく歪んでいる。明らかに、苛立っていた。
「君を守るために、フウエンが護法童子をつけてるなんてね」
シロガネは何も覚えがないのだが、どうやらこのシロガネそっくりの少年はフウエンの術らしい。ぴったりとシロガネに寄り添うように立っている少年に、シロガネが小さく問いかける。
「お前……フウエンの、何か、なのか?」
少年の笑顔は、どこかフウエンに似ていた。しいっと唇に人差し指を立てて少年は唇だけで言った。
“とかげ、と、およびください”
その声は耳には聞こえずに、シロガネの頭に直接響いた。声というよりも、灯火の燃える音のような、微かな音だった。それにぱちくりと瞬きをしていると、足元から雄たけびが昇ってきた。龍が、再び口をばっくりと開けてシロガネを飲み込もうと体を突進させてくる。
今度は、難なくその太い龍を避けられた。顔の横を疾走していく木の鱗から、ぷうんと青臭い草の汁が匂った。シロガネは木刀を握りなおして龍の頭の方を睨む。とかげと名乗った少年は、龍の体を挟んでシロガネの反対側へ飛び退いていた。
龍はすぐに宙で頭を翻し、体を大きくくねらせながら今度はとかげに向かって一気に下降する。
「とかげ!」
シロガネの叫びと同時に、とかげの体に龍の頭が襲いかかった。とかげはひらりと身をかわして、龍の木の鱗に手を伸ばした。トカゲが触れたところに、ぼっと火がついた。
“さあ、そのぼくとうを、へんかさせてください”
龍が、火のついたところを震って怒っている。ぎゃおお、とたけり狂う鳴き声を全く気にしないでとかげはシロガネに笑いかけた。変化、という言葉にシロガネが固まっていると、また頭の中に小さく火の音がする。
“このりゅうは、もく”
龍は、再びとかげを呑み込もうとごうごうと頭で夜風を斬っていた。物凄い速さで龍が向かってくるのを、とかげは遊ぶようにひらひらかわす。シロガネは、とかげの言葉でハトバとやったばかりのことを思い出した。
(……鉄は、姿を変える源素……)
目の前の木刀を、ゆっくりと撫でる。脳裏には、幼い頃から見慣れた鍜治場の風景と鉄の焼ける独特の熱いにおい……
(俺の霊力で、刀になれ)
木刀は橙に色を変え、発光している。そのみねをとんとんと叩くと、静かに光は止んだ。その光の後に残ったのは、すらりと銀色に輝く刀だった。
ぐお、ぎゃおおおん
龍が、木の鱗のあちこちに小さな火事を作りながら暴れている。その鳴き声が、急にシロガネの近くへ飛んできた。見れば、ほんの二間のところに龍の手が伸びていた。手の先には、木の根がよりあわされて尖った鋭い爪がある。
びゅおうっ
龍の爪がシロガネに襲い掛かった。シロガネは、反射的にその爪を叩き落すように刀を振りきる。まきを割ったときのような感覚が手にじんじんと伝わってきた。
龍の爪は、手の途中からすっぱりと斬り落とされていた
「ヒバリ!」
クヌギの声が高く響く。龍の背に、とかげがちょこんと立っていた。手には、子供の頭ほどの炎の塊を持っている。龍の背に生えた木の葉に、その火をぼたりと落とす。みるみるうちに炎は龍の背を包み込んだ。
それに仰け反っていななく龍の首元に、シロガネは迷わずに斬りかかった。この龍は、本物の木。火で燃えるし、刀で切れる。体は大きいが、弱点はあるのだ。
めきめきっ
シロガネの刀が龍の首元に深く斬り込んで、鱗が何枚も剥がれ落ちた。それを見て、とかげはにっと笑って龍の背から飛び降りていった。指が、地面を這う龍の尻尾を指している。
“あなたは、あたまのあいてを。おは、わたくしが”
龍の尾も、じきに宙をぐねぐねと動き出した。今や木の龍は森の上に完全に浮かび上がり、夜の中を二人の少年を追って泳いでいる。
シロガネの体を呑まんと吼えれば、尾をとかげに焼かれる。とかげを叩き落とそうと手足を振れば、シロガネに体を刻まれる。がつん、がつ、とシロガネの刀は確実に木の龍の鱗を斬っていった。クヌギはそれを見ながら、憎悪のこもった怒号を飛ばした。
「ヒバリ!どうしてそんな奴らにやられてる!お前は僕の龍だろう!」
その声に応えるように、龍がぐおんと大きくなく。シロガネは負けじとまた龍の首めがけて刀を振り下ろした。ばらばらと音を立てて木の鱗が落ちていく。が、その先ではまだ切り落とされていない方の手が、ひらひらと舞っていたとかげを捕まえていた。
龍が、その手に掴んだとかげを握りつぶした。かのように見えた。龍の手がぐっと締まった瞬間、とかげは一枚の紙になってくしゃりと皴だらけになっていたのだ。
「と、とかげ!」
“ざんねん、でも、もうごあんしんください……”
ふふふ、と笑うような音と共に、とかげだった紙は龍の手の中で粉々になった。シロガネがかっとなって思わずむやみに刀を龍に突き立てると、まだちろちろと炎の残る尻尾に横から叩かれた。ぐらっと頭が揺れて、周りの景色が全て止まったような速度で流れていく。
(ああ、ここで、死ぬかもしれない)
シロガネを宙で支えていたのはとかげの力だったらしく、今は足元に踏ん張りが効かない。今、自分の体は木のこずえより何間も高いところにある。強い力で叩かれた体は、ここから地上へ叩きつけられれば生きてはいないだろう。
落ちていく。耳元で、ひゅうひゅうと風が唸っていた。視界には、大きな月とにやりと笑ったような龍の顔があった。




