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狐夜話  作者: 行待文哉
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十六夜

 今、季節は冬。東の国の中では比較的暖かいこの西の森も、森中の植物から静かに水分が失われ、人が素足で歩くには足元はひんやりと冷たすぎた。

そのしっとりと冷えた森の中に、人影は三つあった。一人は、フウエンである。三本の尾をゆらゆらと揺らし、その足はやはり狐のもので、一見性別もいくつの歳になるのかも分からない顔も相変わらずだった。雪色の狩衣に藤紫の袴、そして若緑の長羽織を肩に引っ掛けている。

その正面にそびえるように立つのは、黒髪短髪の大男―名を、タガネといった。ごつごつとした右頬には古い刀傷があり、おそらく見えないところにも多くの傷があるだろうと想像できる武人風の男であった。こちらは改まった真っ白な褐衣姿で、胸と両袖には濃い紫で染め抜かれた桔梗の紋がある。鼠色の袴に脛当てと革の靴、そして腰には大小の刀。まるで今から戦にでも、という格好だが、その顔つきは少し困ったような―特に、フウエンの鋭い視線から逃げているような―なんとも微妙な劣勢の色があった。

仁王立ちで対峙した二人の内、溜息を吐いて話し出したのはフウエンであった。

「……はあ」

「う……」

「タガネよ……お前、本気で言うてんのか」

「うむ……」

タガネに比べて、フウエンは一尺ほど背が小さい。しかし、その差を感じさせないほどにタガネは精神的に押されている。フウエンの問いにはっきりとは答えず、目は宙を彷徨っている。そんなタガネを、フウエンは眉根を寄せながら見ていた。小さな子に確認するようにゆっくり、しかしはっきりと彼女は言葉を紡いだ。

「つまり、その子をうちに預かれ、と。春の朔の日までに、足りひん霊力(ちから)を付けてやれと」

「う、うむ」

「言うとくけど、うちはそもそもこの東の国の狐やないし、お前ら鉄狐(てっこ)の一員でもない」

「うむ」

「うちは風狐(ふうこ)で、しかも、子供の教育なんかしたことない」

「……分かっている」

「それで、なんでうちに頼む」

「……」

「答えられへんのやったら、お断りや」

「待ってくれ、頼む」

ひらりと長羽織の裾を翻そうとしたフウエンを、タガネは声で止めた。何度か視線を落とし、諦めたように長い溜息を吐いてぼそりと呟いた。

「少し、ややこしい事情がある」

そのタガネの後ろに、少年が居る。大人二人の会話には入らず、ただ、じっと足元を見つめたきりだった。きりりと大きな目、よく光を反射する黒い髪を前髪で分け、きちんとした水干を身につけている。深緑の水干にはタガネと同じ桔梗の紋があり、白の水干袴に脛当てと靴、肩に風呂敷包みを一つ背負い、木刀を腰に一本下げている。寒さで少し赤くなった頬は、五年前よりも随分ふっくらとし、血色も満ちていた。

この少年が、あの満月の夜に泣いていたシロガネである。


現代より何百年か昔。人が今よりもっと自然や動物と近しい暮らしをしていた時代。人と同じように、狐もまた、独自の社会と文化を持ち各々の里に分かれて暮らしていた。

狐たちは人よりも更に森羅万象に深く溶け込んだ生活をしていた。人里から離れた森の奥深く、狐の国はある。

大きくは、西の国と東の国。その中の、(もく)の里、()の里、()の里、(こん)の里、(すい)の里。それぞれの里に暮らす狐は樹狐(じゅっこ)炎狐(えんこ)埴狐(しょっこ)、鉄狐、涌狐(ようこ)と呼ばれ、万物の基礎となる源素(もと)を司っている。五つの源素が互いに補完し合い牽制し合い、里及び国の中の霊流(ながれ)がたゆまず正しくあるように、狐たちは霊力を使って均整を保っているのだ。

タガネは、東の国の鉄狐の中の(おさ)である。それぞれの里にそれぞれの掟や役職があるが、一匹の長に数匹の長候補、そしてその下に数百匹の狐が仕えているのが普通である。木の里は東の森の奥、火の里は南の森の奥、金の里は西の森の奥、水の里は北の森の奥にあり、土の里は霊力のある狐しか知らない深い場所にある。

そのどれにも入らずにふらりふらりと森から森へ飛び暮らしているのが風狐。狐たちのほとんどが里で生まれ里で職務を全うし里で死ぬのに対し、風狐たちはどこからやってきてどこへ行くのか分からない。

フウエンは、それである。風狐の全てがそうであるように、どこかに定住することもなく、誰の味方にもならず、誰の敵にもならない。どの里とも、どの狐とも、深く関わらない。フウエンの訛りから、彼女がどうやら西の国で生まれた狐であることは分かっても、それ以外のことはつかめない。風狐とは、そういうものであった。

フウエンとタガネは、風狐と長という立場の前から、共にうまい酒を嗜む友であった。百年ほど昔、人の戦に巻き込まれた際に、たまたま戦場で協力することとなって以来の友である。しかし、特にタガネが長となってから風狐と里の長という立場に触れるような付き合いはしたことがない。今、タガネがフウエンに頼まんとしていることは、互いの立場に大きく関わってくるものだった。


「あの子は、シロガネは、俺の友である狐と人の間の子だ」

タガネが、意を決したように空気を大きく含んで言った。フウエンはその細い目を少し見開き、首を傾いだ。

「この子、狐なんか?」

この時代、人の姿に変化(へんげ)できるほど霊力を持った狐であれば、人とのあいだに子をもうけることもさして少なくなかった。人の里へ降りていき、何食わぬ顔で人として暮らす風狐もあったし、どうしても子がほしい里の狐が人に成りすまして子を産むこともあった。が、そうして生まれた子は大概が人の子であり、狐として生まれるものはごく稀である。シロガネも、見た目は狐がむりやり変化した子供というよりも、普通の人の子であった。

タガネも今は里の外にいるので人の姿をしているが、元の姿は狐である。狐たちは普通、子狐の頃より変化の術を何度も練習し、人に見られても心配のないように姿を使い分けるのだ。

タガネは言う。

「狐身にもなれるのだが、その姿を保てない時がある。かと思えば、危険が及んだ時、感情を抑えきれなくなった時、反射的に反対の姿へ戻ってしまう」

典型的な、霊力の足りない子供なのだな、とフウエンは心の内で呟いた。それでは、人の里ではまず暮らしていけない。もしも何らかのときに狐の姿が見えてしまえば、化け物扱いされて殺されたり捨てられたりするのが落ちだ。

人の姿を保つには、安定した霊力が必要になる。狐であれば、歳を経て霊力が高まり安定するに連れて、変化も滅多なことでは解けなくなる。シロガネの場合は長く人の姿で暮らしていたので普通の狐と逆になっているだけで、変化した姿を保てないのはまだ霊力の低く不安定な子供にはよくあることだった。

「父は早くに死に、七つの時に母が死んで、この子の道は決まった」

タガネの視線はだんだんと力を帯び、今はフウエンを真正面から見据えていた。

「俺は、この子の親代わりだ。きちんとした霊力を持った狐にして、生かしてやりたい」

はっきりと言い切ったタガネの目は、真っ直ぐフウエンに届いている。フウエンはしばらくその意志の強い目と、俯いたままのシロガネを交互に見やっていた。そして、タガネの後ろでじっとしているシロガネに向かって問いかけた。

「シロガネ、あんたはどうしたい」

 不意に水を向けられて、シロガネが黒い髪をぱさっと揺らして顔を跳ね上げた。その顔には、不安と不満が入り混じっている。一呼吸置いて、シロガネは口を開いた。

「霊力があれば、馬鹿にされないのか」

 凛と、まだ声変わりのしない声が響く。タガネは一瞬驚いた顔をして振り返ったが、フウエンは緩やかに微笑んで返事をした。

「程度にもよるけどなあ……狐は、特に里生まれの狐は、霊力のある奴には逆らわん」

「人の子、できそこない、と笑われるのは、もう嫌だ」

篭手をした両手をぐっと強く握り締め、シロガネは噛み付くようにフウエンを見た。タガネは、唇を噛んでいた。

「あんたが俺に霊力をくれるなら、欲しい」

少年の強い眼差しを楽しそうに見つめる風狐は、ゆらりゆらりとその三本の尾を揺らして言う。

「霊力は、あげたりもらったりやない。自分で高めるもんや。鉄狐の里では高まらんかったもんが、風狐と一緒に森で生活することで高まる可能性はある。けど、確実に、とはいかん。それでもええんか?」

 フウエンの透明な赤茶色の目が一瞬だけ鋭くなった。試すように、シロガネを見据えている。子供相手というよりも、大人相手に商談を持ちかけているような雰囲気があった。シロガネも、大人びた様子でその静かな問いに答える。

「俺は、霊力が高まる可能性があるなら何でもやりたい」

 タガネが、その様子を目を見開いて見ていた。シロガネの意志は大きな黒い目と、くっと引き下げられた口元に溢れている。フウエンはますます笑みを深くし、その視線をタガネに戻して言った。

「気が変わった。預かる」

 つい先程まで気の進まない様子で怪訝そうにタガネに向けられていた目が、今は笑っている。新しい玩具を与えられた子供に似たそれに、今度はタガネがいぶかしがる番だった。

「おい、本当にいいのか」

「この子にどこまでホンマの霊力がつくかどうかはやってみな分からん」

「それは……」

「が、この気の強さは見込みあると思うで」

 フウエンは、経験論だが、と付け加えた。

 曰く、風狐になろうという狐を沢山見てきたが、それには完全に独力で生きるためにかなり多くの霊力が必要となる。生まれついて莫大な霊力を持っているためにそれを持て余して風狐になるというのはごくわずか、あとはほとんど自らの霊力をひたすら修行で高めた者たちばかりだ。その孤独で先の見えない修行の間で、諦めて里へ帰る者と最終的に風狐になる者の違い。

それは、自身のふがいなさにまで向けられる気の強さだ、とフウエンは言う。

「結局、自分の低い霊力に対する怒りみたいな精神が大事」

 それを、この三本尾の風狐は知っていた。タガネはその話を聞いても微動だにせずフウエンを睨みつけるシロガネに、問うた。

「フウエンに、世話になるか」

 シロガネは、その言葉に小さく頷いた。腹をくくった顔をしている。それを確認して、タガネは大きくひとつ息を吐く。

「頼んだ、フウエン」

「おう」

 さらに頭を下げようとするタガネを手で制し、フウエンは短く笑って答えた。


「さて」

 タガネが霞のように去り、森の中にはフウエンとシロガネの二人である。包みを背負ったままの子供を前に、フウエンはひょいっとその場でかがんだ。足元に落ちていた枯れ木を拾い上げると、その小枝で地面になにやら描きはじめた。

「今から、家に案内する。ちょっと、そのまま動かんといてや」

 ぐるりとシロガネと自分を囲むように、大きな円を描く。およそ半径一間の円の周りに、等分に四つ小石を置く。小枝を笏のように胸元に抱えてその円の端に立ち、フウエンは口の中で何か小さく唱えてからほんの少しだけ中空に浮かんだ。

 一歩はごく小さく、片足ずつ。

 左足を一歩前に。

 左足を一歩前に。

 右足を一歩前に。

 右足を一歩前に。

 左足と右足を一歩ずつ前に。

左足を前に、右足と左足を一歩ずつ前に。

 そして最後に、「乾坤元(けんこんげん)(こう)()(てい)」と唱えながら六歩前に。

 円の中でその様子に目を奪われていたシロガネは、フウエンが「貞」を唱えた瞬間、目の前がかっと白く光るのを見た。思わず目を閉じる。反射的に顔を覆った両腕をそっと外してみると、そこは元いた森の中ではなく、闇の中に障子が一組ぼうっと浮かんでいるだけの空間だった。

「入っておいで」

少し不気味に闇に響くその声に、シロガネはごくんと息をのんだ。恐る恐る障子に手をかけてみると、からりと軽く開いた。障子自体が、蛍のようにうっすらと光っているのだった。

敷居をまたぐとそこはすぐ小さな土間で、奥に八畳ほどの居間があった。フウエンはいつの間にかその居間の中央に円座を敷いて胡坐をかいていた。そのそばにはゆらゆらと明るく火のともった灯台があり、積み重なった草紙や行李が部屋の奥に見える。

「まあ、そこに座り」

 フウエンが指差した先に円座がもう一枚。シロガネは靴を脱いで上がり、フウエンの正面の円座へ正座した。風呂敷包みを体の横に置いて、大きな目を何度も瞬かせている。

 タガネのところにいた時、家というものは里の中に建っているものであった。霊力の鍛錬でこういう魔法のような現象を見ることは珍しくなかったが、狐たちと暮らしていて、衣食住に関して霊力を使うことはなかったのだ。里の長であるタガネでさえ、シロガネの前で霊力を使うのは長距離を移動する時と戦闘の時のみ。何もないところから家を一軒出してみるなどということに、少年は呆気にとられるばかりだった。

「うちは、こうやって寝る場所を作っとる」

 顔色一つ変えないでフウエンは言う。灯台の橙色に照らされて、その顔はほんの少し柔らかく見えた。シロガネは腹の底に息を溜めて大きく吐き出し、胡坐の風狐を見て訊ねた。

「こういうことも、霊力があればできるのか」

「それどころか、もっと大きい、悪いようなこともできるわな」

「俺にも、できるか」

「いくつか道は見せてやれる」

 けど、とフウエンは不意にその目を細くして声を低くした。

「全部、お前自身や。シロガネ」

 そう言われて、シロガネは膝の上に乗せた両の手を強く拳にした。フウエンの目は、夕焼けが固まってできた琥珀のようにとろりと濃く光っていた。

「今日から、この部屋で休んだらええ」

 フウエンが立ち上がり、何もない部屋の土壁に手を当てると、滲み出てくるように襖が現れる。それを音もなく開ければ、六畳の畳の部屋。促されてシロガネが入ってみると、布団が一組と衣桁が一脚用意されていた。

「うちはこの襖からは入らん。用があったら、襖開けたって」

 入方、出方、厠のこと、湯のこと、一通り家の説明をして、後ろ手にフウエンが襖を閉めようとしたとき、シロガネが声をあげた。

「あの、フウエン」

「ん」

「……あ、あの」

「なんや」

 躊躇うように視線を右往左往させるシロガネに、フウエンは首を傾げる。はて何かいい忘れていたろうか、と襖を閉める手を止めた。

「……よろ、しく。たのむ」

 眉を歪ませ、苦いものを口に含んだような顔をして言葉を搾り出したシロガネに、フウエンは思わず声を出して笑いながら答えていた。

「おう」



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