秘密夜
シロガネは、土の里にいた。ハトバの部屋である。土の天井と土の壁に囲まれた十二畳の部屋には、小さな天球儀や読みかけの草紙が転がっていた。その中央に御座を敷いて、二人は碁を打っていた。
「ハトバ、いつもずっとここにいるのか?」
「うん、最近はね。すぐ傍にジンサ様の部屋があるし」
シロガネが黒、ハトバが白である。ぱち、ぱち、と緩慢な音がしていた。
(俺、こんな風に同じ歳のやつと過ごすのは初めてだな)
シロガネが何故此処にいるのかというと、ジンサの強い薦めだった。本来ならばシロガネは金の里に帰るべきだ。しかし、タガネが金の里にいない今、もしも何か起こったときに誰がシロガネを守るか未知である。もちろんタガネの従者はシロガネを守ってくれるであろうが、長が重傷を負わされるような異能の物が相手だ。それに、従者たちは里全体の警備にあたらねばならず、もしシロガネが一人になることがあれば、何の保障も出来ない。
フウエンは、長たちの話し合いに加わるよう言われて火の里に残ることになった。そこでジンサが、シロガネにハトバと一緒に土の里で待機することを薦めたのだ。土の里のハトバの部屋にはジンサの結界が張ってあり、よそ者が簡単に侵入することはない。何かあれば即座にジンサに知れ、瞬時に誰か駆けつけることが出来る。
ぱち、とシロガネが自爆するような手を打った。
「……楽しい?」
「……ごめん」
二人の十二歳は、一緒に溜息をついて碁盤を片付けた。伸びをしながら御座の上にごろりと横になったハトバにならって、シロガネも胡坐を崩して伸びを一回。
土の里の者は元々がほとんど外へ出ないため、ハトバがジンサの触れを伝えてからは更に静かに静まり返っていた。モグラか蟻の巣を髣髴とさせる土の中の里は、暗く、平穏である。それが、午前に目にした火の里での惨状とあまりに違っていて、なんだか心がギクシャクしていた。
「シロガネはさ、どういう修行してるの?」
ハトバは肘をついてそこに顔を乗せながらのんびり聞いてきた。シロガネはもう冷めてしまった茶を飲みながら答える。
「霊力の使い方だな、だいたいいつも」
「あれ?武術は?」
「しないこともないけど、フウエンがあんまり得意じゃないからって」
それに、金の里では毎日ずっと木刀振ってたから、とシロガネが付け加えると、ハトバは目を瞬かせた。
「すごいなあ、僕なんて武術が嫌でよく逃げてたのに。偉いんだな、シロガネ」
きらきらと音がしそうな目でじっと見られて、シロガネは少し戸惑った。偉い、などと言われたことがなかったのだ。ハトバはシロガネの返事を待たずに喋りだした。
「でも確かに、タガネ様ってものすごく強いもんね。前に、カガル様と稽古して勝って…」
そこまで言って、ハトバがはっと言葉に詰まった。シロガネも、ぴたりと動きを止めた。どうしても、カガルの痛ましい姿が脳裏をよぎった。二人の間にしばらく沈黙が訪れたが、めげずにハトバが続ける。
「フウエン様って、どんな感じのお師匠様なの?」
「え……えっと、そうだな、いつもなんか笑ってる」
「それっていつもと同じじゃない」
「うん。あ、俺が話聞いてなかったりすると怒るけど。でも、失敗しても怒らないな」
「いいじゃない。ジンサ様なんて、すぐに怒るんだから」
ハトバが投げ出した足でちょんと転がっていた天球儀を軽く蹴った。シロガネは、そういえば、とずっと疑問に思っていたことをハトバに尋ねてみた。
「ハトバは、フウエンのこと、色々知ってるのか?」
フウエンは、ほとんど自分のことを話さない。時折、ほんのちらりと、その全体の尻尾の先が見えるくらいだ。狐なのだから、二親や故郷などの背景があるはずだが、フウエンはまるで風の中から産まれたような雰囲気があった。
「色々って……そうだなあ……ああ、元は西の国の炎狐だったって」
「うん」
「フウエン様が今、東の国で風狐をしてるのは、ジンサ様がね、関わってるんだよ」
「どういうことだ?」
ハトバ曰く。フウエンは西の国から傷だらけで逃れてきたらしい。勿論ハトバが生まれる随分前の話だ。どうやら、百年ほど昔の話らしい。体も傷つき生きる気力も失くしていたフウエンが森の中で死にかけているのをたまたま見つけたのがジンサだったという。
東の国に入った時点で変化する霊力も残っていなかったようで、人姿の時の髪と同じ赤茶色の毛をした狐が尾に炎を灯して木の根にうずくまっていた。
「あの時のフウエンは野生の狼のようで、手に負えんほど荒れておったわ…」
と、今でもジンサはよくハトバに漏らすという。保護しようとしても口から火を吐き、牙をむく。傷だらけだった理由も西の国から逃れてきた理由も詳しくは言わないまま、フウエンはジンサに向かってこう叫んだらしい。
「あんたでいい。さっさとうちを殺してくれ」
ジンサはその時既に土の里の長であった。ぼろぼろの若い狐は、ぎらぎらと瞳だけが燃え盛っている。フウエンは、今ここで自分を殺さないのならお前の里の狐を手当たり次第に殺してやる、と言う。ジンサはそれを時間をかけて説得し、風狐として東の国で生きてみてはどうかと持ちかけた。
ジンサの元に保護され幾日か養生し、傷が癒える頃、フウエンはぽつりと言った。どこからか、桜の香のする風が入ってきていた。
「……ここは、良い風が吹く国やな」
「うむ。深くにある土の里ですら、風が吹くのだ。外は、もっと心地良かろう」
ジンサがこう言うと、フウエンはひとり言のように問うた。
「ここなら、うちは自由やろうか」
ジンサに、その真意は分からない。ただ、ジンサは自分が何百年生きてきた中で知りえたことを話した。
「お前が望むなら、いつでも自由はそこにあるであろうよ。安寧や繋がりなどとは疎遠になるやもしれんが……なあ、若いの。死ぬ覚悟があったんじゃ……もう一度だけ、生きてみる覚悟もできんか。お前の生きたいように、自由でも、なんでも」
黙ってそれを聞いていたフウエンは、長い間目を閉じて考えていた。次の日の朝には、世話になったという文を一通残して消えていたという。
「それから、森を渡り歩いて暮らしながらちょこちょこジンサ様の部屋に顔を出したり、何十年か前の戦ではタガネ様と共に戦ったり……フウエン様は、この百年で今のような風狐になったって。僕が初めて会ったのは五年ほど前だけど、僕が知っているのはいつも笑ってらっしゃるちょっと不思議な感じのフウエン様だったよ」




