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狐夜話  作者: 行待文哉
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近末夜

フウエン、僕の勘違いで、本当にごめん!」

 そう叫んだクヌギを、ウルシがすばやく抱えて葉の上に戻してしまう。詳しく聞き取れなかったが、クヌギはウルシから何か叱責されているようだった。二人の乗った葉がどんどん小さくなるのを眺めながら、シロガネは思わず呟いた。

「なんだ、あいつら」

 金の里でも、土の里でも、火の里でも、ああいう光景を見たことはなかった。土の里のジンサは確かにハトバを叱っていたが、誰が見てもほほえましい、温かみのあるやりとりだった。ハトバはしゅんとするものの、ジンサにおびえている様子はなかった。さっきの樹狐の二人は、それとは明らかに違う。

「なにって、木の里の長と、その従者……」

「そうじゃなくて、ウルシってやつはなんであんなに偉そうなんだ」

 首を傾げるフウエンの言葉に食らいつくようにシロガネは続ける。腹が立っていた。

「タガネやカガル様は、あんなことないじゃないか。そもそも、従者があんなに前に出ない」

「うーん……うちは慣れてたから気にならんかったけど……」

「クヌギが子供の長だからか?」

「いや、姿かたちは子供やけど、クヌギ様は多分ウルシよりも霊力は強いんやで」

 フウエンが落ち葉を一枚拾い上げてそっとひと撫ですると、それは一枚の真っ白な紙になった。シロガネと話をしながら、フウエンはそれに何か書き付けていく。指の先は白いままなのに、紙に触れたときだけ墨がひかれているようだった。

「どう見ても、子供だったぞ、クヌギ」

「樹狐はな、他の狐よりも血統を重んじるねん」

「血統?」

「クヌギ様の父、祖父、そのまた先代は、みんな樹狐の長やったんや」

「それが、霊力に関係あるのか?」

「やっぱり、長になる狐の霊力ってすごく強くて、ある程度は子に遺伝する。特にクヌギ様の家は、その時里の中で一番霊力の強い女を嫁にとって子を産ませる」

 つまり、一つの血筋だけがどんどん霊力の強い血族となって、樹狐を統べるようになるのだ。ちなみに、金の里では長は武術や霊力、人柄の全てを大人たちが相談して見極めて選ぶ。特に前の長の血族であったことは考慮されていない。タガネも、前の長が急逝したときに皆に選ばれて立った長だった。

 シロガネはそれを知っていたので、フウエンの語る樹狐の話がにわかには信じられなかった。霊力が強い血筋というだけで、長になる素質は十分だというのだろうか。

「で、生まれた子は長になるべく育てられるんよ」

「どういうこと」

「霊力の強さはもう分かりきっとるから、武術や知識、長としての心構えを物心ついた頃から徹底的に仕込まれる。本人が分からんうちに、樹狐の長として育てられるんや」

 東の国の木の里は、元来そうしてきたという。そして、クヌギの父は不幸にも若くして事故で亡くなってしまったので、二年前にまだ八つのクヌギが長に就いた。あまりに幼い、ということで、クヌギの母方のいとこにあたるウルシが従者として仕え、側近として仕事の全てを補佐している。そこまで聞いて、シロガネはやはり納得のいかない表情をした。

「じゃあ別に、ウルシが偉そうにする理由はないじゃないか」

「まあ、偉そうにふるまうことも、威厳のひとつやって思うとるんやないの」

 フウエンが、何か書きつけていた紙をふうっと息で吹いた。ひらひらと蝶のように舞い上がった紙はやがて空に溶けて消えていく。それを眺めて、フウエンはぽつりと呟いた。

「クヌギ様は……かわいそうかもしれんな」

 シロガネは、クヌギのおびえているような顔を思い出した。普通は長となれば衣食住の心配はなく、ある程度他の狐よりも裕福な暮らしができるはずだ。それなのに、クヌギはどこか不安に押しつぶされそうな表情をしていたのだ。それは確かに、少し哀れなほどだ。

 フウエンが、少し間をおいてその場に座り込み、シロガネにもそこに座るように促した。シロガネがすとんと座り込むと、フウエンは自分の胡坐の上にいつかの黄色い布袋を取り出して置いた。

「フウエン、何するんだ?」

「まあ、気分を変えるために、霊力の…土の気の使い方を教えとこうかなと思って」

 フウエンが布袋を開くと、甘い匂いと一緒に細かな砂がふわりと立ちのぼった。砂は意思を持つようにフウエンとシロガネの周りをくるくると取り囲んでまわっていく。それをきょろきょろと見ているシロガネに、砂はまとわりつくように忍び寄ってきた。

「え、これ……なんか、くっついてきたぞ」

「じっとしとって。土って、実は一番扱うん難しいんよ」

「どうしたらいい?」

「目を閉じて、今から、土の匂いだけに集中してな」

 言われるままに目を閉じて大きく深呼吸を一回。シロガネの額に、フウエンの指先が静かに触れる。ひんやりと冷たい感覚に、シロガネは少し背筋を伸ばした。

 匂いは、少し湿ったような重さのある匂いになった。雨が降る前の森の匂いだ。

 やがて、森の匂いは湿度を無くしていって、乾いた草の匂いになる。かさかさと風で擦れる夏草の匂い。

 次に、くすんだたき火の匂いがしてきた。灰の、焦げたさみしい匂いが残る。

 その匂いに、またしっとりと水気が含まれる。静かに、重く、春の芽吹きを待つような匂い。

 フウエンが低い声でゆっくりと話す。

「冬は、木や花の芽を守り、春はすべての命をはぐくみ、夏は風を通して熱を取り、秋は暖かさを溜めておく……」

 シロガネの頭の中に、それは染み込むように想像できた。人の里で暮らしていても狐の金の里で暮らしていても、森の自然と里の四季は変わらない。どこにいても、変わらない土がそこにあった。

 シロガネの額からフウエンの指が離れる。それと同時に目を見開くと、フウエンはゆったりと微笑んでいた。

「土は、全てと繋がっとる……だから、どんなけ離れとっても、土をたどれば必ず、」

 行きたいところへ行ける。最後はほとんど呟くほどの小さな声でフウエンは言った。シロガネが頷くと、黄色い砂袋の中に吸い込まれるように砂粒は帰っていく。フウエンがその口を縛ると、甘い土の匂いも消えた。

 シロガネの中に、何かはっきりとは言えないが、確かに変わったことがあった。この少しの間で、なんだか不思議と自分の霊力を今までよりも近くに感じるようになったのだ。今までは、自分とは全く別のところにある大きな力を無理やり手なづけようとしている感覚だった。しかし、今は、自分の霊力は自分の内部にあって、引き出すにしても治めるにしても、自分の意思できちんと動く気がする。

 なにか特別な施術でもされたのだろうかとフウエンを改めて仰ぎ見ても、三本尾の風狐は笑うだけだ。どのように尋ねてよいかも分からず、シロガネは自分の右手をぐっぐっと握ったり開いたりしてみた。

「どうやら、分かってきたみたいやね」

 すっと立ち上がったフウエンは、尾をばさばさっと振って思い切り背伸びをする。その頬を冬の風が撫でて、赤茶色の髪を揺らす。それを見て、シロガネもゆっくり立ち上がった。太陽は弱いが、正午の光を森に届けていた。



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