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狐夜話  作者: 行待文哉
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満月夜

 月夜の中に、懸命に走る草履の音が流れていく。踏まれた草がちぎれて、微かに若緑の匂いがする。

春とはいえ、闇を走れば頬が冷たい。走っている草履の主は、それも気にせず森の中を必死に駆けていた。それは、一人の少年だった。少年と幼児のちょうど間くらいの年頃に見える。黒い髪が揺れる度、短い息が吐き出される。はっはっ、と全身を使って駆けている音がしていた。時折、ひらりと夜着の着物の裾がひるがえる。

その握り締めた小さな両の拳には、確かな意志がこもっていた。

(かあさま、かあさまに会いたい)


少年は、名をシロガネという。一本一本がしっかりと真っ直ぐに伸びた黒い髪は父から、黒曜石のように光る真っ黒な目は母から受け継いだ。父は、もうない。シロガネのまだ歩けないほど幼い頃に亡くなったという。母の言うには、細面の、目元の涼やかな人であったらしい。

父の話をする時、母はいつも少女のように頬を染めて笑っていた。鈴の音の声を持つふんわりとした朧月の雰囲気のある人で、シロガネは、母が過剰に怒ったり悲しんだりしたところを見たことがない。その母は、つい五日前に粥すら受け付けなくなるほどに寝付いてしまった。二日前には、目を開かなくなった。母子二人きりの貧しい暮らしで、小さなシロガネができることは、只、泣くことだった。

母の枕元で泣きに泣いて、空腹と疲労でいつしか泣き疲れて眠ってしまった。次に目が覚めると、シロガネは見たことのない天井の下にいた。柔らかで真っ白な布団がかけられ、痩せて汚れていた手足は綺麗に拭われている。その寝室は畳敷きで広く、枕の傍には、薬箱と、朱塗りの盆に乗った急須と白湯の入った湯のみが一つ。母の姿も、暮らしていた破れた障子の家もない。シロガネは、驚きと不安のあまり、その大きな瞳を凝らしていた。見れども見れども、そこはどこか、自分がいたのとは違う世界のようだ。

寝具のすぐそばに置かれた、古めかしい几帳。その向こうから、不意に声がした。

「起きたか」

ぬっ、と知らない男が顔を出す。灯りが揺れるのも見えた。硬そうなごつごつした額や鼻に、シロガネは小さく悲鳴をあげた。その岩のような大きな顔をした男が呆気に取られている間に、反射的に布団を跳ね上げ、小さな体は一番近くにあった妻戸から飛び出していた。しばらく何も食べていないように思ったのに、不思議と体は軽かった。

ほとんど転がり落ちるようにして庭へ出る。縁側には草履が一足置いてあって、シロガネはそれを引っつかんで目の前の生垣へ体ごとぶつかっていった。がさがさと、木の枝や葉に揉まれながら外へ出る。すぐ先には鬱蒼とした森の入り口が見え、真っ暗な夜の中でも一層濃い闇色をしている。

迷うことなく、その中へ飛び込んだ。後ろを振り返っても誰もいないことを確認して、手にした草履を足へ履いた。何故そうしたのかは、分からない。ただ、かかとがきゅっきゅっと鳴るほどの新品のそれは、ぴったりとシロガネの足に合っていた。

夜空を見上げると、まるまると太った満月が出ている。それに向かって突進するように、シロガネは走り出した。とにかく、この見慣れない場所から逃れたい気持ちと、母に会いたい気持ちが脚を動かす。昔、まだ元気だった母は

「道に迷ったら、お月さまの方へ歩きなさいね」

と言ったのだ。

「そうしたら、かあさん、シロガネを見つけるからね」

その柔らかで温かい響きを思い出して、シロガネの瞳は潤んできた。最後に見た母は、枯れ木のように痩せ細っていた。その細くて折れそうな指がまだ両の手の中でまだ生きている気がしている。雫になって後ろへ後ろへこぼれていく涙を拭わずに、只、走った。走っている間に、何度も転びそうになった。それでも、シロガネは力の限り月に向かって走っている。このまま走り続ければ母に会えるかもしれないという希望を握り締めていた。


「なんや、坊、迷子か」

 不意に、森の中を走り続けていたシロガネに話しかける者があった。今日二度目の悲鳴をあげて思わず立ち止まると、急に自分の心臓の音が大きくなって聞こえだした。走っていたからか、突然のことに驚いたからなのか、小さな体いっぱいに鼓動が響いている。頭のてっぺんまでじんじんと痺れ、手足も血が沸騰しているように脈打っている。懸命に首を動かし目を見開いてみたが、周りに人影らしいものはない。

「ここや、ここ。上、見てみい」

見上げるとそこには大きな満月――その中に、人の姿がくっきり黒く浮かんでいる。月に届かんばかりに大きく育った樹のこずえに、その人は立っていた。

あっ、と声を出すと同時に、シロガネはその場にぺたりと座り込んだ。その人影は一瞬ふわりと宙に浮かんだかと思うと、まるで階段でも下りるように、何もない夜の空中を歩き出したのだ。

(人じゃ、ない)

普通の人間が、何もない空中を歩けるはずがない。それどころか、夜中に高い高い樹のこずえに立つこともできないだろう。月の光を背に受けて、人影はどんどん近くなる。近くなればなるほど、それが人ではないことがはっきりしてくる。背中には、ふっさりと春の夜風に揺れる大きな狐の尾が三本。裾を絞った白い袴から伸びているそれも、黄金色の毛に包まれた狐の足だった。顔や体のおおよその形は人であったが、これは間違いなく妖物(あやし)に違いない。

音もなくシロガネの前に降り立った半人半狐の妖物は、薄桜色の狩衣をまとっていた。宙を歩く度にふわふわと揺れていた赤茶色の髪は、柔らかく月光をまとっている。めざし髪をくしゃくしゃと下から空気でかき回したような髪の下で光る目は薄い茶色。きゅっとつり上がった目尻とつんと通った高い鼻筋に薄い唇は、ますます狐を思わせる。優男風なその妖物は、座り込んでしまったシロガネを見て問うた。

「あれ……坊は、人かいな。なんで、こんなとこに居るん?」

のんびり低く響くその音は、母のものとはまるで違う。月の先にいると思った母の代わりに妖物が現れて、シロガネは訳の分からない悲しさで今度こそ声をあげて泣きだしてしまった。それを見て、妖物は少し眉尻を下げる。

「ああ、坊、泣かんといて。おうちは、どこなん?」

泥まみれの草履と夜着で泣いているシロガネの前に、妖物が膝を付いてしゃがみこむ。そして、シロガネの黒い髪をゆっくりと撫でた。撫でたその手は、しっかりと人間のそれである。

人でないものに頭を撫でられても抵抗できないほどに、シロガネは泣きじゃくっている。妖物が何か言おうと口を開きかけた時、低く張り詰めた男の声がした。

「その子の家は、うちだ」

妖物が声のした方へ首を向けると、水干姿の大男が立っている。先程、シロガネの寝具のあった部屋にいた男だった。黒く逆立った短い髪は、岩のような顔の厳しさを際立たせている。その男が、仁王立ちでシロガネと妖物をじっと見てとらえていた。背は一間を優に超えるだろう男は、その頑丈そうな肩を一度大きく上下させてため息をついた。

「なんでお前がいる、フウエン」

フウエン、と呼ばれた妖物がその細い目を見開いて答える。

「いつもの散歩。それよりお前、いつの間に子供できたんや」

「俺の子ではない。俺の友の子で……今は、身寄りがない」

「さよか。けど……」

二人の大人の目が小さな子に注がれるが、シロガネはまだ泣いている。大男は、静かにその体を抱き上げて先のフウエンと同じようにふわりと宙に浮いた。もう、シロガネはその動きに反応もせず、ただただ泣き続けていた。

「大丈夫なんか?」

立ち上がって、自分の袴についた土をはらっていたフウエンが聞く。大男は、それには何も答えなかった。ただ、フウエンに向かって軽く頭を下げた。

「お前が見つけてくれていて助かった。礼を言う」

決まり悪そうにふわふわの髪をかき、フウエンは苦く笑った。泣きじゃくり、泥まみれの草履を履いたシロガネをじっと見つめている。しばらくして、自分は何もしていない、と早口に言うとフウエンはそのまま春の夜に溶けるように姿を消してしまった。

大男はもう一度大きく息を一つ吐き出して、満月の中へと高く高く跳んだ。

 これが、五年前のことである。


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