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第一話 「落ちてゆくもの」 

「……あッ!」


宙に舞った最期のとき、ぼくの眼に映ったのはこちらに手を伸ばそうとする佐伯の驚いた顔だった。

過去に何度も挑み、自分の庭のように感じていた雷神岳。雪も良く締まって天候にも恵まれ、すべては順調に進んでいた。呆気ないほど楽に山頂まで到達したことで気の緩みがあったのかもしれない。突風はあまりに唐突で、身構える間もなかった。どのみち対処など出来るものではない。無慈悲で強烈な自然の猛威は、ピッケルもアイゼンも関係なくぼくを岩肌からあっさりと引き剥がす。パートナーとの間を繋ぎ落下を止めるはずのザイルは何の抵抗もなく風に流され、ぼくは回転しながら吹き飛ばされて中空に躍り出る。眼下には遥かな渓谷。ほぼ垂直のまま七百メートル下まで続く断崖絶壁。

 手を伸ばしても何も触れず、ぼくはなすすべもなく落下を続ける。


 何かが起きたのだ。予想外の何かが。それが何だったのかを知る機会はきっと、永遠に訪れない。


「……終わった」


 真っ白な雪煙に視界を塞がれ、むちゃくちゃに翻弄されて上下もわからない。音も光も何も感じない。


 しばらく意識を喪っていたのかもしれない。何時間にも感じる浮遊の後、ぼくの身体はいきなり激しい衝撃を受けて止まった。


「!?」


 周囲を手で掻き分けるが、何も触れるものはない。ザックかジャケットのどこかが引っかかっているようだが、見渡しても何も見えず、その支持物が何なのかもわからない。ぼくは途方に暮れて空を見上げる。


 薄曇りの空。雲の流れが速い。かなりの高度があるのがわかる。


 どこかで轟音が鳴っている。山では聞き慣れない金属の軋みと唸り。幻聴か耳鳴りか、それともぼくは死んで天国にいるのか。

 天上の世界にしては、殺風景な場所だ。

 おまけに、ひどく寒い。


 風が通り過ぎ、急に視界が晴れる。


「……冗談、だろ?」


 そこは、戦場だった。

 一方から戦車の群れが隊列を組んで前進し、対する側の飛行機がそこに爆撃と機銃掃射を加えて飛び去る。呆気に取られたぼくの身体を戦車の砲撃が激しく揺さぶる。

 どことどこの軍隊が何のために戦っているのか、見ただけではさっぱり分からない。

 目下の問題は、ぼくがその戦場の真ん中に丸腰の宙ぶらりんで放り出されていることだ。そして……


 その戦いが“垂直に切り立った”、巨大な円柱の“壁面で”展開していること。


「なん……だ、これ……」

「おい、ちょっと待てよ! 何だこれ、何なんだよ、いったい!?」


 自衛隊員を除く一般的日本人の常として兵器に触れる機会など皆無だが、子供の頃から戦争もの娯楽作品などの二次情報として接してはいる。その知識だけでいえば、昇ってくる戦車は奇妙な形をしていた。全体にひどく小さいうえ、砲塔の後ろ側に装甲がなされていない。自走砲といった方が正しいのかもしれない。


 垂直の壁を移動するのだから、重量軽減が最優先事項になるのは誰にでもわかる。見たところ敵が情報にしか占位しないという前提もあるのだろう、前面装甲のみに比重を置くという思い切った設計も理解できなくはない。

 その当事者でなければ、だが。


 相手が航空機である以上、回り込まれることもある。機銃掃射を受けたときを考えると、あまり乗りたい代物ではない。

 砲撃の振動で壁が揺すぶられ、ぼくの身体を引っかけていた何かが動く。一気に数センチずり落ちて、思わず息を呑んだ。慌てて背後に手を伸ばし手掛かりを探す。何もない。


 ――落ち着け、そんなはずはない。いままで保持されていたんだ、何かがあるに決まってる。


 ギーッと嫌な軋みを上げて金属が揺れる。

 頭上を見たぼくの目に入ったのは、黒焦げの残骸。撃墜されて壁に突き刺さった、航空機の翼端だった。

 手が触れなかったのは、それが巨大な釣り針のようにぼくの頭上で弧を描いていたからだ。

 どんどん軋み音が大きくなる。ふわっと身体が浮き、恐怖に胃がせり上がる。周囲に手が届くものは何ひとつない。


 砲撃。

 狙ったものか流れ弾か、頭上にあった飛行機の残骸が吹き飛ばされる。落下しかけていたぼくの身体は機体ごと振り回され、振り子のようにスイングした後で壁に向かって投げ飛ばされた。


「うわぁああああ……ッ!?」


 空中を泳ぎながら放射線を描き、ぼくは網棚状になった狭い水平面にぶつかって転がり、なんとか墜落死を逃れる。

 揺れない足場を手に入れて、束の間の安堵とともに溜めていた息を吐き出す。全身の血がどっと落ちてくる気がした。眩暈を無視して周囲を見渡す。

 巨大な支柱は、見える範囲だけで他に三本。いまいる支柱と同規模だとすると、直径が五百メートルといったところか。林立する柱はお互いを細い橋のようなもので繋いでいるらしく、いまいる支柱も頭上数百メートルのところに連結部があって、数キロ先に聳える最寄りの一本に橋が伸びているのが見えた。

 そこまで行ければ別の支柱に渡れるのかもしれないが、雲間に霞む対岸も状況は変わらない。群れながら支柱を上昇する戦車が見え、周囲を旋回する航空機がそれに攻撃を加えている。

 誰が敵で誰が味方なのか、いや、当事者でない以上敵でも見方でもないことは明白なのだが、相手が自分をどう見做しているのかはまるでわからない。


 遮蔽物の陰で移動先を探す。空はまだ明るさを残しているが、日没までどのくらいあるのかは読めない。腕時計を見ると、十五時を回ったところだった。

 雷神岳山頂を前に佐伯と時間を確認してから、三十分しか経っていない。


 ぼくがまだ生きているのだとしたら、だが。


 山頂へのアタックを開始したあのときと、いまのぼくは連続した時間のなかにいる気がしない。正確にいえば、同じ世界にいるとは思えないのだ。


 ――これが、異世界への転生?


 そう呼ぶには、余りにも夢がない。空腹を抱えて寒さに震え、死に怯えて行き先に迷う。山にいるのと変わらないうえに、状況は何倍も悪化している。


 周囲に人影はなく、耳に入るのは風切り音と砲声と地鳴りのような支柱の震える音だけ。


「動かなきゃ。ここにいたって、いずれ凍死するだけだ」


 どこか遠くで、笛の音が聞こえた。長く尾を引いて続くそれは急速に近付いてくる。

 頭上から落ちてきた影が、ぼくの前を通過する。それが人間で音は悲鳴だとわかったとき、その瞬間ぼくは墜落してきた人物と眼が合ってしまった。


 きれいな顔立ちの若い――というよりもむしろ幼い、女性。白い肌に緑色の瞳、金色の髪が風に舞い、背後に不思議な薄布を開いて宙を舞う姿はまるで天使のようだ。スローモーションのように鮮明な映像として、ふと不思議そうな表情でぼくを見つめ、彼女はあっという間に足下へと消える。


「……!!」


 悲鳴はすぐに聞こえなくなる。見下ろす勇気はなかった。生きている筈がない。彼は死んだのだ。ぼくの眼の前で。


 墜死者を見てしまったことで、死への恐怖がぼくをがっちりととらえた。震えた脚は萎え、そこから一歩も動けなくなる。


「……動け、動け動け動け動け動け」


「おい!」


「ひゃい!?」


 驚くほど間近で聞こえた声に、ぼくはビクッと身を震わせる。


「ブツブツいってないでさっさと動け!」


 それは下から聞こえてきた。どう考えても、さっきの女の子だ。


「……ウソだろ、あんた死んだんじゃ!?」


「死んでない、がほっとかれたらすぐそうなる。急げ!」


 見下ろすと、階下数十メートルのところで彼女は支柱から延びる庇に引っ掛かっていた。彼女の背負った薄布のようなもの――どうやら投網に近い代物が、辛うじて落下を防いでいる。


 慌てて動こうとするぼくを手で押しとどめ、彼女は手ぶりでぼくの頭上を指差す。視線を動かしたぼくが息を呑んだ。ぼくの上にあった遮蔽物と思っていた物が何なのか、初めて意味を持って理解されたからだ。


 破壊された戦車の残骸。レールのようなものに固定されてはいるが、車体の上半分は引き剥がされて、風に揺れるたびパラパラと破片を落とす。いつ落下を始めてもおかしくない。


「静かに、支柱を回り込んで、ここまで来い」


 彼女の身振りによる指示を理解したぼくは、安全な場所だと思っていた網棚を離れ、恐る恐る移動を開始する。


 支柱に一定間隔で設けられた遮蔽物は掩体とハシゴを兼ねたような構造で、そこから空中に延びた庇には返しがつけられていた。例の投網のようなもので墜落した者を引っかけるようになっているらしい。

 遮蔽物の間を繋ぐ水平の網棚が通路を構成しており、緩い角度を付けられて支柱を巻いている。軽量化のためか目の粗い網棚は足下が完全に見渡せる。数百メートル以上も先まで続いている支柱は、高所恐怖症の悪夢を体現したように見る者の足を竦ませる。


「急げ……もう持たないぞ」


「待ってろ、いまそっちに……」


 数十メートルの水平移動の後、遮蔽物の陰で下のルートに降りる。彼女の引っかかっている構造物まではさらに二度の垂直移動が必要だった。

 彼女の姿が視界に入ったとき、ぼくは嫌な事実に気づいていた。軋む音が頻繁になっている。落下してくる破片が増えている。彼女と眼が合う。落下中に見たものとは違う。純粋な恐怖と絶望の表情。必死に駆け寄るぼくから目を逸らし、彼女は小さく手を振った。


「もう無理だ、離れてろ!」


「ふざ……けんな!」


 手を伸ばしても網棚からは届かない。庇の上に身を乗り出す。風が巻いて身体ごと持って行かれそうになる。上は見ない。知ったところで状況が改善しないなら、そんなもの時間を浪費するだけだ。落ちてきたら、そのときはそのとき。


 ――どうせ、一度は死んだ身なんだから。


 笑みを浮かべたぼくを横目で見て、彼女はまた不思議そうな顔になる。彼女のその表情が好きだ。場違いな自分の感情に、ぼくはなぜか勇気づけられる。


「手を伸ばせ、身体ごと勢いを付けて!」


「そんなことしたら、また」


「いいから!!」


「……ああ、くそッ!」


 ブランコでもこぐように彼女は身体を揺らす。指は寸前で空を切り、彼女はまた支柱から離れていく。戻るまで待つ余裕はない。彼女の顔がそう告げていた。

 風に煽られて背中の網が広がる。その端を咄嗟につかむと両手で巻き込みながら彼女の身体を手繰り寄せる。軋みは無視できないほどに高まり、落ちてくる残骸が破片とは呼べないサイズになってきていた。渾身の力を込めて投網の全てを抱え込み、彼女の襟首を確保した。


「いいぞ、捕まえた!」


 網棚通路の上に彼女を引き上げた瞬間、ゴッと風が鳴る音が聞こえた。

 巨大な鉄の塊が鼻先を掠め、庇の端を粉砕しながら空中に跳ね上がる。支柱に身を寄せて揺れが収まるのを待つ。収まらなければ、次に空中に躍り出ることになるのは、ぼくらの方なのだ。

 数秒の動揺の後、網棚はなんとか崩落を逃れた。


「助かった……」


 うずくまるぼくの前で、彼女は無邪気なまでの笑みを浮かべる。ぼくは背中からザックを放り出すと、ぐったりして転がった。

 装備に絡まっていたザイルを見る。それはもう別の世界の代物のように、どこか現実味がなかった。

 何か話しかけてくる彼女の声が、耳に入らなくなる。彼女はぼくの視線を辿り、また不思議そうな顔になる。


「これが、どうかしたのか?」


 ザイルの端は、鋭利な刃物で切られたかのようにスッパリと断ち落とされていた。

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