ふりかけとおぼっちゃん 家族と友人
友人編【今日から二人は僕達の友人です】
大学から徒歩十五分の場所に喫茶店がある。
駅に近く、どれも手頃な値段なため、学生に人気だ。
約束の時間からは五分も過ぎていた。
俺は店内に入り、待ち合わせをしていた彼を探す。
彼は一番奥の窓際の席で文庫本を片手にコーヒーを飲んでいた。
そういえば、彼は中学生の頃にもよく本を読んでいた。
少し早足でそのテーブルに向かう。
「すまない。少し遅くなったのだよ」
軽く頭を下げて、謝罪した。
「いや僕も今来たところだよ。とりあえず何か頼む?」
彼は感情の読めない淡々とした口調で、俺にメニューを渡す。
「ありがとう」
彼の正面に座り、メニューを受け取った。
特に飲みたい物はなく、彼と同じコーヒーにした。
今回、待ち合わせをした彼の名前は佐藤良平。
以前、俺が落ちこんでいる時に飲みに連れて行ってくれた男だ。
見た目は少し顔が整っていることの他には特徴のない男だが、彼は高校二年生の頃まで首席の座を競ったよき好敵手だった。
目の前にコーヒーが運ばれてきた。
一口飲み、心を落ち着かせてから口を開く。
「恋人と同棲したいと考えているのだが、どう切り出せばいいのだ?」
と、俺が切り出すと佐藤は酷く驚いた顔をした。
彼のこんなにわかりやすい表情を俺は初めて見た。
「……呼び出した理由ってそれのこと?」
佐藤は信じられないといわんばかりの顔をしていた。
「ああ。そうなのだよ」
「どうして僕の周りにいる男は恋人がいない人間にに相談するんだろ……」
佐藤は項垂れ額に手を当て、小さな声で何やらぼやいた。
そんなにおかしいことをいったのだろうか?
「何かいったか?」
「なんでもないよ。それよりなんで同棲したいと考えたの?」
「恋人の名は都環紫というのだが、とても繊細で俺が側にいてやらないと、死ぬような女なのだよ。だから、側にいたいのだ」
目を離したらいつまた血まみれで倒れているかわからない。
次こそ死んでしまうのではないか。
「都環ってまさか……前に明道院くんを振った女の子の親族?」
「そうなのだよ。だが、妹と紫は全く違う。紫は浮気などしないし、俺を振ることもない」
「……僕の考えをいわせてもらうなら考え直した方がいいと思う。姉と妹が繋がっていないという証拠はないんだよね?ならまた同じことの繰り返しになる可能性がある。それに……」
「紫は俺を貶めるような女ではない!それになんだというのだよ!」
俺はテーブルに拳を叩きつけた。
佐藤であっても彼女を貶めるような発言は許せない。
周りにいた人達の視線を感じたが全て無視する。
「君のいっていることが本当なら君達の関係は良くない。僕には“君は振られた辛さを、姉は別の辛さを一緒にいることで、現実逃避をしている”ように聞こえるよ」
「違う!俺達の関係はそんな物じゃない!」
「納得できないというのなら僕に会わせてよ。それで君のいうことが本当なら僕は君の味方になる。でももし違うならもう二度と君とは会わない」
佐藤は真剣だった。
これほど真剣な顔は彼の友人がいじめられているという噂を耳にした時以来だ。
「……わかったのだよ」
「なら待ち合わせは日曜日のこの時間でいい?」
それで話は終わった。
肝心の話は出来なかったが、仕方ない。
俺はその日の内に紫へ話すことにした。
夕食後、ゆっくりしている紫に切り出す。
「今週の日曜は空いているか?」
「うん。空いてるけどどこかでかけるの?」
「会わせたい奴がいる」
「え?会わせたい人って?」
紫は眠たそうな目を少し見開いた。
不安なのか目が泳いでいた。
「俺の友人だ」
「こうちゃんって友達いたの?」
まるでお手をする猫を見たように、紫は驚いていた。
「お前は俺をなんだと思っているのだよ」
「いやーなんとなくいなさそうだなーって思って?あ、友達のいないあたしがいえたことじゃないね。ごめん」
紫は罰の悪そうな顔で頭を下げた。
「謝るようなことではないのだよ。それにいないのならばこれから作っていけばいい」
「こうちゃんって時々すごい無茶なこというよねー。ちょとつもーしんみたいな?」
紫は四字熟語やことわざを使うがほぼ全てが間違っているか、意味をよく分かっていない。
今もそうだ。俺は猪突猛進するような男ではない。
「俺は日々考えて行動しているのだよ」
「嘘だー。ご飯食べている時とか何も考えてないでしょ?どんだけあたしが話しかけても無視しするし」
「それはお前の料理が美味しいからで……今はそんな話をしたいのではない!」
失言に顔が熱くなる。
だが、紫は嬉しそうに顔を緩ませた。
「へえ、いつもそう思ってくれてたんだー。嬉しいな。明日はこうちゃんの好きな鯖の味噌煮にするね」
「なぜ好物だとわかった!?」
好物をずばりといい当てられ、動揺してしまう。
そんなことは一度もいったことはない。
「こうちゃんってすぐ顔にでるから誰でもわかるよ。前に出した時なんかすごく嬉しそうに食べてて、おかわりも多かったし」
祖母に同じことをいわれたことを思い出し、いたたまれない気持ちになった。
同時に紫がそれだけ俺を見てくれていると思うと嬉しかった
というやり取りがあった一週間後。
俺と紫は先週訪れた喫茶店に来ていた。
「こうちゃんの友達か。どんな人なんだろー。真面目な人ってことだけはわかるけど」
「そうでもない。奥の席に座っている男がそうだ」
今日もまた佐藤の方が早く来ていた。
俺達に背を向けているから顔は見えない。
「そうなんだ。何か見覚えのある人なんだけど気のせいかな?」
二人で佐藤の座るテーブルの側に行く。
近づき足音に気づいたのか、読んでいた本から俺達の方へ顔を上げた。
「え?」
俺が声をかける前に、佐藤と紫が顔を見合わせて驚いていた。
二人は知り合いだったようだ。
なぜだが靄のような物が胸の奥で広がる気がした。
「明道院くんの恋人って都環さんだったんですか?」
「そうだよ。え、ちょっと待って!こうちゃんの友達って比良吉さんだったの!?」
紫は眠そうな目を見開いて、俺を見上げた。
聞いたことのない名前に眉に皺が寄る。
「比良吉?誰なのだ、それは?こいつの名前は佐藤良平なのだよ」
「ああ。明道院くんにはまだ話してなかったね。僕は高校二年の頃から『比良吉不二介』の名前でいくつか本を出してるんだ。だから都環さんとは書店で何度かサイン会をさせてもらった縁で知り合ったんだよ。そうでしたよね?」
「そうだよー。こうちゃんの友達って聞いてたのに比良吉さんがいたからからびっくりしたよ」
納得したという顔で紫は笑った。
紫の笑顔に靄のような物は綺麗になくなる。
一体何だったのだろうか?
「都環さん、すみません。一応僕が『比良吉不二介』だということは秘密にしているので、今は良平と呼んでもらえませんか?」
「苗字じゃなくていいの?」
「苗字で呼ばれるのはあまり好きじゃないんです。他の人にもそう呼ばれています。明道院くんもそう呼んでほしいんだけどいいかな?」
「わかったのだよ」
「そういうことならしかたないよねー」
佐藤と向かい合うように座り、コーヒーとアイスティーを注文する。
「ほんとびっくりしたー。二人とも大学違うでしょ?どういうきっかけで仲良くなったの?」
「幼小中高の同級生です。腐れ縁ともいいますね」
「おい。そのいい方はなんなのだよ。まるで嫌だと思っているようではないか」
「本当に嫌だったら会ってくれないでしょ?」
紫はからかうようにいった。
「ええ、まあ。都環さんこそどういうきっかけで明道院くんと付き合うことになったんですか?同じ大学とは思えないんですが」
俺の通う大学は偏差値七十から八十以上で日本でもトップクラスの大学だ。
残念ながら紫は勉強が嫌いで、偏差値はかなり低い。
一応、高校は卒業しているらしいが。
佐藤も初対面の人に対し、ずいぶんと入りこんだ質問をするものだ。
もう彼の審査は始まっているのだろう。
「そうだよ。同じ大学じゃないよ。きっかけは……なんだろ?あたしが自殺しようとしたから?」
紫の衝撃的な告白に佐藤の表情も固まった。
「なぜそういういい方をするのだよ!誤解されるではないか!」
「でも事実じゃん?」
「違う。きっかけは居酒屋で再会したからなのだよ」
「そうだったねー。酔いつぶれたこうちゃんのインパクトすごかったよー。あたしの特等席を取ってマジむかついたし」
自分達のことであるにも関わらず、紫は他人のように話す。
「酔いつぶれた日ってまさか明道院くんがフラれた日?」
「あ、そうなの?フラれた当日に酔いつぶれたの?っていうことはヤケ酒?こうちゃんってばチョーださーい!」
紫は俺の肩を叩き、大笑いをする。
笑い上戸のこいつはいつも些細なことで爆笑するのだ。
今の話のどこがおもしろいんだ。
同情するか慰めるところではないのか?
「う、うるさいのだよ!」
紫の手を払い、叩くのを止めさせる。
「どっちにしてもすごいきっかけですね」
リョーヘイは明らかに引きつった顔をしている。
「でしょー。こうちゃんって物好きだよねー。ダテ食う虫の好き好きだっけ?」
「蓼食う虫も好き好きだといいたいのか?お前は一々俺に失礼なのだよ」
「だってそうでしょ?リョーヘイくんもそう思ってあたしと会いたいっていったんでしょ?」
「いつからわかっていた?」
「最初からだよ。まあ似たような経験を何度もしてるからっていうのもあるし。それでリョーヘイくん的にはあたしはこうちゃんにふさわしいの?」
「もし相応しくないといったらどうするんですか?」
「今までなら『はいそうですか』って物分りのいいふりをして別れてたよ。でもこうちゃんだけは特別。だからあたしは誰がなんていおうとこうちゃんと別れたくないし、こうちゃんがあたしのことを嫌いになるまで別れない」
「都環ひかりさんからそういうように指示されているんですか?」
妹の名前に紫の表情が凍りついた。
「おい、リョーヘイ!なぜそこで都環ひかりが出てくるのだよ!」
「失礼ですけど都環さんに会う前に調べさせてもらいました。妹さんのこともです。妹さんの男性関係はあまりよくないですよね?」
「都環ひかりのことはもう俺には関係ないのだよ!」
「明道院くん、僕は都環さんに聞いているんだ。都環さん、明道院くんと“どんな手を使ってでも付き合う”ようにいわれたんですか?」
リョーヘイの目は冷たく、詰問していた。
「違う!あたしはそんなこといわれてない!」
「でも以前同じようなことをしたんですよね?」
「あたしはそんなことしてない。それはあの子が自分で流した噂」
「本当にそうですか?」
リョーヘイは観察するような目で紫を見る。
「……ちょっとトイレ」
紫は無表情でいい、席を立つ。
「紫!」
「大丈夫だよ、こうちゃん。すぐに帰ってくるから」
紫は痛々しい笑顔を見せて、席を離れて行った。
「なんのつもりなのだよ!」
俺は掴みかかる勢いでリョーヘイに真意を問いただした。
「僕なりに都環さんを試したんだ」
リョーヘイは悪びれるこもなく、そういった。
「知り合いなら紫の傷を抉るようなことをいわなくともどんな人間か知っているはずだろう!」
「仕事とプライベートじゃ違うよ。僕はプライベートの彼女を知らない。それに僕の友人が都環ひかりから嫌がらせを受けていた。今はもう解決したけどまた誰かが似たような状況になるのは許せない」
そこまでいわれてようやく気づいた。
いや最初から気づいていて、見てみぬふりをしていたのだろう。
「最初から紫を疑っていたのか?」
「そうだよ」
リョーヘイは淡々いってのけた。
信頼出来ないのは分かる。
だが、その件は紫は関係ない。
むしろ紫は妹の被害者だ。
紫の過去をリョーヘイに話すべきだろうか
いや彼女がいない場で、ましてや俺の口からいうことでもない。
何より紫を信用していない男にこれ以上話す必要はない。
帰ってきたらすぐに家へ帰る。
冷え切った空気が二人の間に流れる。
リョーヘイは大して気にした様子はなく、変わらない表情でコーヒーを飲んでいた。
冷え切った場の雰囲気を壊したのは予想外の人物だった。
「ゲッ!?誰かと思えば明道院じゃねえか!リョーヘイ、なにこいつとお茶してんだよ。そんなに仲良かったっけ?」
聞き覚えのある声と見たことのある顔に首を傾げた。
誰かにかなり似ているが思い出せない。
「いや、最近仲良くなったかな。アキも一緒にどう?」
リョーヘイは俺達とのやり取りなど全くなかったかのように気さくに話し出した。
心なし俺と話す時より楽しそうだ。
「いや遠慮しとく。俺はこいつと性格が合わないしな」
アキと呼ばれた男が肩をすくめて俺を見下ろした。
まるで以前交流があったかのような態度で、俺はますますわけがわからなくなる。
こんな男と面識はない。
ただ、『アキ』という名が引っかかった。
リョーヘイが『アキ』と呼んでいたのは一人だけだ。
「まさか……君は黒野原くんか?」
辿り着いた答えにまさかと思いつつ、男に尋ねてみた。
「そうだよ……ってなんつー顔してんだ。そんなに驚くことかよ?」
男だと思っていた人物が同級生の女だと知り、驚きが隠せなかった。
腰まであった髪はバッサリと切られ男のように短く、服装もV系とやらが着るような過激なものだ。
極めつけに両耳にピアスまでしていた。
今の彼女は黒野原家の御令嬢として育てられていたとはとても思えない。
「これほど変わっていれば誰でも驚くに決まっているのだよ!髪はどうした?切ったのか?それにそのピアス!親御さんは何もいわないのか?」
「グダグダうっせえな。生徒指導の教師かっつーの!だいだいお前に関係ねえだろ!」
不機嫌そうな顔をさらに深め、俺を指差した。
「同級生が不良の道に走っているのを見逃すほど、俺は冷徹な人間ではないのだよ!」
「不良になってねえし!ファッションだ!」
ファッションとはいえど、両耳で六つのピアスは多すぎるだろう。
そのピアス自体も大きく、髑髏や十字架、王冠のようなデザインだ。
「親にもらった体をそのような理由で傷つけるとは俺は許さんぞ!」
「お前は俺のなんなんだよ!?」
急に店の中が騒がしくなった。
声の方を見ると人混みをかき分けながら、一人の男が俺達の前に現れた。
「許す許さないってなんの話?僕にもわかるように詳しく教えてくれる?」
室内の証明で輝く銀色の髪、血のように赤い目、一つ一つが精巧に作られた目や鼻に唇が小さな顔に絶妙な位置に並び、石像のように白い肌、スラリと長い手足。
一点の文句のつけようのないほど容姿の整った美青年だ。
だが、その目は一切笑っていない。
「新も一緒だったんだ」
リョーヘイは少しだけ引きつった顔をしている。
どうやらこの男と知り合いらしい。
それも名前を呼ぶほど深い仲のようだ。
「何いってるの、リョーヘイ?僕は起きている時間のほぼ全てをアキと一緒に行動してるんだよ?」
新という男は黒野原と同棲でもしているのだろうか?
よくあの両親が許したものだ。
「……知ってるよ」
「ところでそこの男は誰?会話から察するに二人の同級生だと思うんだけど違う?」
いつから聞いていたのだろうか。
「そうだぜ。リョーヘイによくつきまとってたんだ」
「人聞き悪いことをいわないでくれ!俺とリョーヘイはよき好敵手だったのだよ!」
「だからそういうのがうざかったんだ!リョーヘイもかなり嫌がってたぞ」
「そうなのか?」
リョーヘイに視線を送ると気まずそうに顔をそらされた。
「あー……今だからいわせてもらうけど、少しうっとおしく思ってたよ」
黒野原のいっていたことは事実だった。
今さらながらかなり凹む。
「そうだったのか。今さら謝ったところで許されるとは思わないが、すまなかった」
俺はテーブルに頭を押し付けるようにリョーヘイに謝罪した。
「いやもういいよ。あの頃の僕も君に失礼なことをしてたからね」
「なるほど。三人はそういう関係だったんだ」
なぜだか新は納得したように頷いていた。
「すごい人混みが出来てると思ったらここだったんだー。こうちゃんの友達に見えないからリョーヘイくんの友達?」
戻ってきた紫がのんびりとした口調でそういった。
どうやら気分は落ち着いたようだ。
「ご明察です」
「やっぱりー。二人ともチョーかっこいいねー。モデルっていうかアイドルみたい。あ、立ってるのもなんだし座って座って!」
紫は近くから空いた椅子を持ってきて、渋る二人を座らせ、注文させた。
新は紅茶、黒野原はオレンジジュースを頼んだ。
飲み物を持って来たウェイターは新の顔をずっと見ていたが、本人は完璧に無視していた。
「よくいわれます。でもこんな風に騒がれるのはあまり好きじゃないですね」
新は少しだけ困ったような顔をする。
これだけ綺麗な男なら騒がられるのも無理のない話だ。
「そうなんだー。意外。でもよく考えたら知らない人からいきなり騒がされても嬉しくないよね。むしろウザイだけだし?」
新は驚いたように目を見開いた。
何も考えていないように見えて、紫は人の気持ちに敏感だ。
「紫をそこらの女と同じだと思わない方がいいのだよ」
俺は誇らしい気持ちになる。
「何それー。偉そうにしちゃって。こうちゃん何様のつもり?さすがおぼっちゃまだねー」
「なっ!それは今の話と関係ないのだよ!それに俺はおぼっちゃまでもない!」
「えー?そう?こうちゃんは相当なおぼっちゃまだと思うなー。リョーヘイくん達もそう思うでしょ?」
「そうですね」
「リョーヘイと同意見。つーか典型的なやつだよな」
「僕にもそう見えますね」
三人は息を合わせたように答える。
「お前ら……!」
俺は思わず握った拳を震わせた。
「こうくん!」
鈴の鳴るような声が俺を呼んだ。
「都環!?なぜお前がここにいる?」
突然現れた都環ひかりに場の空気が再び凍りついた。
紫から表情が消え、人形のように微動だにしない。
「たまたまこの近くに来てて、こうくんが見えたから。一ヶ月ぶりかな?元気だった?」
「……元気だったのだよ」
自分でも驚くほど不機嫌な声だった。
「よかった〜!私ね、こうくんにひどいことたくさんいっちゃったから心配してたの……」
ひかりは紫に気づくと一瞬だけ蔑むような顔を見せた。
「こうくん、お姉ちゃんと付き合ってるの?いつから?」
「お前には関係ないのだよ」
俺は突き放すようにいった。
俺と紫のためにもうひかりとは関わりたくない。
その態度が彼女のプライドを傷つけたのだろう。
くしゃりと歪めた顔を両手で押さえた。
指の隙間から目に涙を溜めているのが見えた。
「こうくんはお姉ちゃんのどこが好きなの?本当はこういうことはあんまりいいたくないけど……お姉ちゃんは病気でちょっとおかしいの」
「どこが好きと聞かれると困るのだよ」
ひかりは嬉しそうな笑みを浮かべ、紫は絶望したように表情から生気が抜けていった。
「俺は紫だから好きだ。他に理由などない」
俺の言葉に紫とひかりだけではなく、良平や千秋も驚いていた。
なぜそこまで驚くのだ。
俺は常日頃から思っていることをいったまでだ。
場の雰囲気を変えたのは押し殺すような新の小さな笑い声だった。
集まった視線に顔をあげた彼はなぜか嬉しそうだ。
「都環さん、そういうことらしいよ。だからお姉さんに嫉妬してるのか知らないけど、これ以上二人の邪魔をするのは止めたら?」
彼は挑発的な笑みすら美しかった。
「なっ……!?邪魔なんてしてないよ!私は」
新の核心を突く言葉にひかりは言葉をつまらせ、怒りで顔を赤く染めた。
「誰がどう見ても邪魔しているよ。どうして君からお姉さんが病気だって聞かされなくちゃいけないの?もし君が本当に心配してるなら僕達がいない場所で話すべきだよね?」
「だから、それは」
「もしアキにしようとしたことをするなら止めたほうが賢明だよ。次は容赦しないから。ねえ、リョーヘイ?」
すっと細められた目がひかりに向けられた。
先ほどまでの穏やかな雰囲気はどこにもない。
今の新は血に飢えた凶暴な化物に見えた。
「そうだね。いつでも使えるように証拠は全て押さえてあるよ。これが表沙汰になったら都環さんは大学を辞めざるおえなくなる」
リョーヘイはひかりを追い詰めるように言葉を重ねた。
「え……?」
「もしかして知らなかった?女の子ってお喋りで残酷な生き物なんだ。ちょっとお茶をしただけで君のことをなんでも教えてくれたよ」
さらに新が追い詰めた。
「まさかあいつらが喋ったの!?」
「さあ誰だろうね?心当たりが多くて困るなあ」
新は楽しそうに嘲笑った。
美しい悪魔が人間を地獄へ引きずり込もうとしているように見える。
「わ、私は帰るわ!だから誰にもいわないで!」
立場のなくなったひかりはそれまでの態度を一変し、泣きそうな顔で懇願し始めた。
「謝罪ともう二度と近寄らないって誓ってくれる?」
「お、お姉ちゃん、ごめんなさい!もう二度と近寄りません!」
都環ひかりは俺達の言葉を聞くことなく立ち去った。
「言質確保っと。これだけ証人がいたら誤魔化せないね。よかった。これでまた弱みが増えたよ」
目まぐるしく変わった事態に皆が黙り込む中、新だけが満足していた。
「リョーヘイくん達も妹を知ってたの?」
冷静になった紫がゆっくりとリョーヘイ達に尋ねた。
「はい。僕が好きだったらしく告白されたんです。でも僕はアキ一筋だから君を好きになれないってはっきり断ったんです。そしたら僕ではなくアキに嫌がらせをし始めたので、色々話し合って和解しました」
新は笑ってそういうが、先ほどの態度から和解といわれても信じられなかった。
一体、どんな手を使ったのだろうか。
「嘘つけ。ぜってぇリョーヘイと脅しただろ?」
黒野原は胡散臭そうに新とリョーヘイを見つめた。
「やだなぁ。そんなことしてないよ。アキがどれだけ素晴らしいかをざっと三時間程度教えてあげたんだよ」
心外だといわんばかりに新は弁解する。
だが、それは一体どんな拷問だ。
その場にいた全員が同じことを思った。
「本当はあと五時間は教えたかったんだけど途中で逃げられたよ」
心底残念そうな呟きに俺は恐怖しか浮かばなかった。
彼は絶対に怒らせてはならないと頭に刻む。
「リョーヘイくん、新くん、アキくん。妹が御迷惑をお掛けしてすみませんでした」
紫はテーブルにつくほど深く頭を下げた。
無関係の彼女は何も悪くはない。
「お前は何も悪くはないのだよ」
紫は顔を上げないまま首を横に振った。
「あの子が私のことを嫌いでも家族だから謝るのは当然だよ」
泣きそうな声だった。
あれほど酷いことをいわれても紫は家族だと思っている。
本当に紫は強い。
俺だったら憎んでいただろう。
「“紫さん”、顔を上げてください」
紫は恐る恐る顔を上げた。
入れ替わるように今度はリョーヘイが深く頭を下げた。
「僕の方こそ先ほどまでの失礼な数々の発言すみませんでした。紫さんが妹さんと関係ないとわかってましたが、信じられなくて試すような真似をしました」
誰もが紫の言動に注目した。
彼女は目を閉じて深呼吸をして。
それから目を開け、じっとリョーヘイを見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「リョーヘイくん、顔を上げて。あたしのことは本当にもう疑ってないの?」
「はい。紫さんは妹さんと違います。紫さんの方が素敵です」
リョーヘイは顔を上げて、真剣な顔でいった。
「ありがとう。それだけで十分だよ」
それまで強ばっていた紫の顔がほころんだ。
体に入っていた力も抜けている。
「図々しいお願いだと思いますが、僕達と友人になってくれますか?」
本当に図々しいお願いだ。
紫は困ったような顔をして、俺を見る。
だが瞳の奥の喜びは隠しきれていなかった。
彼女はある日、突然独りぼっちになった。
信じたいのに誰もことも信じられなくて独りで今まで生きてきた。
俺と再会して彼女は少し人を信じられるようになった。
他人に知られたくなかった過去を知った上で、紫と友人になりたいといってくれる人が現れたのだ。
嬉しくないはずがない。
正直にいってしまえばリョーヘイが紫にいったことは許せない。
ただ俺が紫を守りたいように、リョーヘイも黒野原と新を守りたかったのだろう。
一つ信じられるのは、リョーヘイは信じた人間にはとことん尽くして、決して裏切らないことだ。
俺は大きく頷いた。
選ぶのは俺ではなく紫だ。
紫がリョーヘイ達と友達になりたいというなら、俺が止めるわけにはいかない。
紫は安心したような顔を浮かべて、リョーヘイ達に向き直った。
「こちらこそ。お願いします」
紫の出した答えは簡潔だった。
「ありがとうございます。今日から二人は僕達の友人ですね」
二人といわれ、俺にも問われていたことに気づく。
意味を改めて考えてみるが、どちらにせよ俺の答えは変わらなかった。
「紹介が遅れてすみません。黒野原千秋と多福新です」
そこでようやくリョーヘイは黒野原と新を紹介した。
今まで紹介しなかったということはリョーヘイにとってそれほど大切な友人なのだろう。
だが紹介してくれるということは俺と紫もリョーヘイの“大切な友人”になったのだ。
「黒野原千秋です。明道院とは同級生で、アキって呼んでほしいっす」
黒野原は歯を見せて笑う。
同じ学校にいた頃には一度も見たことのない顔だった。
彼女はいつも不機嫌そうに眉を寄せ、リョーヘイの他の人間に対しては近寄ることさえも嫌がっていた。
あの学校は彼女にとって檻のようなものだったのかもしれない。
今の姿に驚きはしたが、こうして話しているとずっとそうであったようにしっくりとくる。
「多福新です。今日でアキと付き合って八ヶ月と七日目になります。新と呼んでください」
新は先ほどまでの恐ろしい笑顔ではなく、幸せそうに笑った。
「新、それは今関係ねえだろ!」
照れた黒野原が真っ赤な顔で新を睨みつけるが、全く怖くはない。
「僕にとっては何より重要なことだよ」
よほど黒野原が好きなのだろう。
新が黒野原を見る顔は穏やかで優しい。
俺はどんな顔で紫を見ているのだろうか。
「はいはい。惚気るのは後にしてよ」
リョーヘイは呆れたような顔を浮かべた。
二人はいつもこんなやり取りをしているのだろう。
「惚気けてるのは新だけだ!」
黒野原だけが不機嫌そうに叫んだ。
それが照れ隠しでしかないことは俺や紫にもわかった。
「仲がいいんだねー」
黒野原と新のやり取りを見る紫の顔にはもう影はなく、心から楽しそうに笑っていた。
リョーヘイ達と別れ、二人で紫のアパートへと向かう途中で彼女が立ち止った。
「突然立ち止ってどうしたのだ?」
「こうちゃん、ありがとう」
何のことだがわからずに俺は紫を見つめる。
紫は照れくさそうに笑いながら、俺を見上げた。
「あたしと付き合ってくれてありがとう。こうちゃんのおかげであたし、変われそうな気がする。だからこれからもよろしく」
俺は衝動的に紫の腕を引き、華奢な体を俺の腕の中に閉じこめる。
ここが外であることなど頭にはなかった。
ただ紫が愛おしくて、もう二度と離れてほしくなくて、側にいることを確かめたくなった。
「俺の方こそ礼をいう。お前のおかげで今の俺がいる。だからこれからもずっと隣にいてくれるか?」
「え?それってなんかプ、プロポーズっぽいけどあたしの勘違いだよね?」
耳まで赤くした紫が顔を上げて、俺に真意を問う。
特に深く考えていったわけではなかった。
常日頃から思っていることをそのまま口に出してしまったのだ。
「そう考えもらっても構わない。いや違うな。これはプロポーズだな」
いつものように言葉を否定しようと思ったが止めた。
こういう機会でもない限り俺はずっといえないままだろう。
母が聞けばもっとロマンチックなシチュエーションでやり直しと怒られる。
だが知ったことか。
ドラマであるような夜景の綺麗なレストランでプロポーズなど俺には出来ない。
ロマンなどないプロポーズの方が俺達らしいではないか。
「もう一度だけ聞くのだよ。紫はこれからも俺の隣にいてくれるか?」
紫の答えは酷く小さくて聞き取りにくかったが、しっかりと俺の耳に届いた。
腕の中の愛おしい存在を強く抱きしめる。
お前を絶対に幸せにする。
と、心の中で呟いた。
〜後日談『女子会?』〜
※千秋→秋
秋「男だって何度もいってんのに、新は俺を女扱いするんすよ!紫さん、どう思います!?」
紫「例えばどんな感じ?」
秋「買い物に行った時は荷物は絶対に持たせねえし、道を歩く時は車道側は絶対に歩かせねえ!酷い時には学校から家に帰ってきたら夕飯も風呂も用意して裸エプロンで出迎えてきたんすよ!あん時はマジでキモくて一発ぶん殴ってやったんですけど、なんか喜んでさらにキモかったんです!」
紫「そうなんだ(アキくん、愛されてるなぁ)」
〜『男子会?』〜
※リョーヘイ→良
煌「紫にす、すす、好きだというにはどうしたらいいのだ?」
新「それは思った時にいえばいいんだよ」
煌「紫に見られると恥ずかしくていえないのだよ!」
新「なら後ろから抱きしめて耳元で囁くようにいうといいよ。照れて赤くなっていつもより可愛い顔が見れるよ」
煌「手もまだ繋いでいないのに後ろから抱きしめて嫌われないだろうか?」
新「大丈夫だよ。アキは後ろから抱きしめられるの好きだから」
煌「後ろから抱きしめるのだな。よし。今夜試してみるのだよ!」
新「慣れてきたらいわせるのもありだよ」
煌「い、いわせるだと!?俺には無理なのだよ」
新「焦らなくてもいいよ。二人には二人のやり方があるんだから。でも煌なら出来るよ」
煌「新……いや師匠!一生ついて行くのだよ!」
良「…………(この二人はなんで僕を呼んだんだろ?)」
家族編【準備出来てるのよね?】
「紫、同棲しよう」
それはいつもと同じような日でこうちゃんは家に夕飯を食べに来て、食べ終わって二人でのんびりしてた。
こうちゃんは真剣な顔でいってくれたけど、あたしは信じられなくて、固まってしまった。
「え?こうちゃん、今なんていったの?」
落ち着くためにもこうちゃんに質問する。
「同棲しようといったのだよ」
こうちゃんの顔は変わらない。
空耳じゃなかったんだ。
嬉しいというよりはどうしてという気持ちが大きい。
「え?ええ?なんで同棲?こうちゃんはお母さんと二人暮らしでしょ?一人暮らしでも始めるの?」
「三人で一緒に暮らそうといっているのだよ」
「こうちゃん、なにいってんの!?ムリムリ!ゼッタイムリ!明さん達のこと知ってるでしょ?」
新しいお母さんの明かりさんと妹のひかりの間には絶対に埋まらない溝がある。
そうなったのは二人だけのせいじゃなくて、あたしにも原因があった。
だからこうちゃんのお母さんと仲良くなれる自信がない。
「お前なら大丈夫なのだよ。母もすぐにお前のことを気に入る」
あたしの不安をよそにこうちゃんは自信たっぷりだ。
その自信はどこから来るんだろ。
「なにを根拠にいってんの!?それにおばさんだって忙しいでしょ?」
こうちゃんのお母さんはあたしの通っていた病院の看護師で、前に会ったことがあるらしい。
あたしは全然覚えてないけど。
だからすごく仕事が忙しいって、こうちゃんから聞いた。
「もう母には話を通しているのだよ。明日の夕方に連れて行くといっておいた」
明日の夕方っていくらなんでも急すぎる。
明日はバイトが休みで暇だけど、色んな準備が出来てない。
「マジ信じられない!なんでそんな大事なことをもっと早くいってくれないの!?」
近くにあったクッション(こうちゃんが買ってきてくれた)を手にとって自慢げな顔に投げつけた。
「遅かれ早かれ会うのだから早い方がいいのだよ」
こうちゃんはそれをなんなく受け取って、あたしの手の届かない場所に置いた。
「親に彼女を紹介するなんて結婚しますっていってるようなもんじゃん!」
というよりそれ以外考えられない。
ベットの上の枕を手にとって大きく振りかぶって、もう一度投げた。
「最初からそのつもりなのだよ」
またもこうちゃんはそれを受け取った。
だけどそんなことは頭にはない。
「はあっ!?」
こうちゃんの言葉に思わず可愛くない声が出た。
いや元々可愛い声してないんだけどね。
えっと……今の言葉はつまりアレだよね?
結婚前のカップルが両親に挨拶するてきな?
それこそありえないし!
こうちゃんはまだ学生で、それ以前にこんなあたしと結婚するとか絶対反対されるでしょ!
「明日の夕飯は俺の家で作ってくれないか?もちろん買い物にも付き合うのだよ」
あたしの葛藤なんて知らないといわんばかりにこうちゃんは話を進めていく。
こうなったら何をいっても無駄だ。
日時を変えてでもこうちゃんは実行する。
「あぁもう!こうちゃんの好きにしてよ!あたしはどうなっても知らないから!」
あたしはやけになって叫んだ。
近所迷惑?
そんなこと考える余裕ない!
「心配無用なのだよ。では明日の四時頃に迎えに行くからそのつもりで待っていてくれ」
「こうちゃんのバーカ!」
いいとはいってないのにこうちゃんは嬉しそうに笑った。
こうちゃんは頭がいい癖にこういうところはバカだと思う。
将来がかかっているんだからもっとちゃんと考えてよ!
こうちゃんが帰った後、ソッコーでドラックストアに行って一番暗い茶色の染髪剤を買った。
今の髪色は一番明るかった時よりはかなり暗いけど普通の社会人の髪色に比べたらまだまだ明るい。
だからといって染髪剤の黒色で染めると不自然な髪色になるから茶色。
あたしがなんていわれてもジゴージトクだから気にしない。
けどあたしのせいでこうちゃんが家族から悪く思われるのはいやだ。
明日は休みだし、久しぶりに服を買いに行こう。
いつもバイトに行く時の長袖Tシャツにジーパンで会うのは、さすがにダメだと思う。
丁寧に体と髪を洗った。
特に髪はトリートメントを念入れにした。
二時間くらい早く眠って次の日に備えた。
朝から少し遠出をして、ショッピングモールでノースリーブの白地に花柄膝下ワンピ、水色の長袖サマーセーター、ベージュのパンスト、セーターと同じ色のパンプス、クリーム色のハンドバッグを買った。
うちに帰ると買ってきた服に着替え、いつもより濃くメイクをした。
寂しい首元にはこうちゃんからもらった紫色の花をモチーフにしたネックレスをつけて華やかに魅せる。
鏡の前でおかしいところはないかチェックしていると、家のチャイムが鳴った。
玄関に行き、扉を開けて出迎える。
「こうちゃん、お疲れ様〜」
「……来る家を間違えたかと思ったのだよ」
こうちゃんもけっこうあたしに対して失礼なことをいう。
他の女の子だったら怒っていただろうなあ。
でもあたしは普段の格好が恰好だけに納得してしまう。
「その女らしい格好も……に、似合っているのだよ。だからたまにはそういう格好をするも悪くないと思うぞ」
こうちゃんは耳まで真っ赤になって、口元を片手で押さえながらそういってくれた。
多分新くんに何かいわれたんだろうなってわかるのに、こうちゃんに褒められたのが嬉しくてつい頬が緩んでしまう。
さっきの言葉は忘れてあげよう。
「あはは。褒めてくれてありがとう!こうちゃんのために頑張ってみましたーっ!みたいな?」
冗談めかしてそういったら、こうちゃんはちょっとだけ目を見開いた後に優しく笑った。
「お前はいつも頑張っているのだよ」
せっかく整えた髪を乱暴に撫でられて、ぐしゃぐしゃにされた。
「こうちゃん、ひどーい!せっかく綺麗に髪をセットしたのにぐしゃぐしゃじゃん!」
あたしは怒ったようなにこうちゃんに文句をいう。
けど本当はそんなに怒ってない。
こうちゃんが触れてくれることが嬉しいから。
「すまない!」
こうちゃんは弾かれたように手を離した。
「嘘だよ。そこまで怒ってないし。ちょっと早いけどもう行く?」
気まずくなる前に声をかければ、こうちゃんは頷いた。
あたしは鞄を取りにいったん部屋に戻り、中身を確認して家を出た。
鍵もしっかりかけたし、後はもうなるようになれだ。
スーパーに寄ってからこうちゃんの家にいった。
今日のメニューはこうちゃんの指示でご飯、味噌汁、肉じゃが、焼き魚、酢の物だ。
こうちゃんは本当に和食が好きだなあと思った。
穏やかな気持ちも家の扉を開けた瞬間に遠くに行ってしまった。
適当にまとめられたごみが適当につまれている。
たまたま見えた部屋の奥に洗濯物が散らかっているのが見えて、絶句した。
足の踏み場もないほど散らかっているって聞いてたけど、謙遜していると思っていた。
こうちゃんは見慣れた光景らしくて、躊躇いなく部屋の奥に進んでいく。
その後を勇気を出して進む。
「こうちゃん……家事はいつも誰がしてる?」
「週に一度家政婦を頼んでいる」
週一でこんなに散らかるものなんだ。
何をどうしたらそうなるんだろ?
「夕御飯の前に洗濯とかしてもいい?あたし、ちょっとこれは耐えられない」
初めて来た人の家でそんなことをいうのは失礼なことだってわかるけど、これは耐えられない。
今すぐにでも片付けたい。
幸いにも軽く掃除しても夕ご飯を作る時間はあるし。
「俺に出来ることはあるか?」
こうちゃんはあたしの提案に嫌な顔をせずに了解してくれた。
本当にこうちゃんは優しいな。
「洗剤と掃除用具の場所を教えてくれる?」
あたしは遠慮なくこうちゃんの行為に甘えた。
洗濯機の隣のかごから服が溢れていた。
これは予想通りだったからそこまで驚いてはない。
でも二、三回は洗濯しないといけないかな。
服を色物、下着、白い物に分けて、白い物からスイッチを入れた。
後は洗剤を入れるだけ。
「確かこれとこれを使っていたのだよ」
こうちゃんが渡してくれたのはどっちも有名な柔軟剤だった。
「こうちゃん、それどっちも柔軟剤だよ。洗剤はこっち。裏に書いてあるでしょ?」
柔軟剤の隣に置いてあったものが洗剤だった。
パッケージは少し似てるけどね。
「本当だ。いつも両方入れていたのだよ」
こうちゃんは二つのラベルを見つめていた。
世間の常識なんだけど本当にお坊ちゃまだな。
「それ汚れ落ちないよ。肌触りは良くなるけど」
「なるほど。そういう効果があるのか」
こうちゃんはおもむろにキャップを外して、そのまま入れようとした。
「こうちゃん、ちゃんと分量計って!キャップにメモリがあるでしょ!?」
多分だけどどれだけ入れるかわかってないでしょ!
入れればいいってもんじゃないよ!?
逆に入れ過ぎたら生地がダメになっちゃうんだから!
こうちゃんは科学の実験みたいに真剣な顔で分量を量っていた。
そんなちまちまやってたらおばさんが帰ってくるよ!?
「こうちゃん、もう何もしないで。掃除用具の場所教えてくれる?」
「ここなのだよ」
こうちゃんは物置みたいな場所の引き戸を開けた。
中には様々な掃除用具があった。
「よかった。掃除機と雑巾、モップまである」
「何かすることはないか?」
「うーん。テレビでも見てて」
こうちゃんがせっかくいってくれたんだけど、特に思いつかなかった。
「だが」
「これからこうちゃん達にお世話になるかもしれないんだしこれくらいさせてくんない?」
こうちゃんの言葉を途中で遮った。
本当は手伝ってもらいたいけど、こうちゃんがやると逆にあたしの仕事が増えそうだ。
「わかった。何かあればすぐに呼ぶのだよ」
一緒に暮らす様子でも想像したのか、こうちゃんは少しだけ嬉しそうに笑った。
ごめん。あたしは同棲する気はさらさらないよ。
「うん。ありがとう」
本音を隠して返事をして掃除を始める。
こんなことでもこうちゃんが喜んでくれるならあたしも嬉しいし。
そんなやり取りから三時間後。
なんとか掃除と洗濯、お風呂の用意に夕ご飯まで済んで、あたしは壁掛け時計を見上げた。
時刻は八時になろうとしている。
「こうちゃん、夕ご飯出来たよー」
律儀にニュースを見ていたこうちゃんに声をかけた。
「美味しそうだな。紫もお腹が空いただろう?母の帰りがいつになるのかわからないから二人で先に食べるか?」
あたしの手元を覗きこみながらこうちゃんはそんなことをいってくれた。
嬉しくなって顔が綻ぶ。
「せっかくだからもう少しだけ待ってみようよ」
「わかったのだよ」
噂をすればなんとやら。
ちょうどいいタイミングでこうちゃんのお母さんが帰ってきた。
「ただいま。ちょっと煌。家が綺麗なんだけど今日は箕田さんが来る日……その子、誰?」
こうちゃんはあたしを見て、少し驚いていた。
話を通してあるって聞いたんだけど?
横目でこうちゃんを見る。
「昨日、紹介するといっていただろ。付き合っている都環紫なのだよ」
ちょっと変なこうちゃんらしい紹介の仕方だ。
フツー彼女の○○っていうのに。
「え?この子が紫ちゃん?綺麗になったわね!おばさんのこと覚えてる?」
昔に会っているというのは本当らしい。
だけどやっぱりあたしは覚えてない。
こんな美人で優しそうな人なら一度見たら忘れそうにないんだけどな。
ちなみにこうちゃんにはあんまり似てない。
「え、あの……すみません。覚えてないです」
素直に頭を下げた。
「いいのよ。私、紫ちゃんとあんまり会ったことないもの。仕方ないわ。それより夕御飯にしましょう?何か頼むわね」
電話の受話器を取ろうとしたおばさんをこうちゃんが止めた。
「今日は紫が作ったのだよ」
「紫ちゃん、お料理出来るの?」
おばさんはさっきよりも目を見開いた。
驚いた時のリアクションはこうちゃんと一緒だ。
「ええ、まあ。それなりにですよ。大したことないです。準備しますので着替えでもしていてください」
「じゃあ甘えちゃうわね。わざわざありがとう」
こうちゃんと一緒に盛り付けて、テーブルに運んだ。
テーブルは洋式の背の高い物だ。
こうちゃんが先に座って、あたしはなんとなくその隣に座った。
「遅くなってごめんなさいね。じゃあいただきましょう」
おばさんはこうちゃんの目の前に座った。
二人は手を合わせて、箸を手に取る。
あたしはそんな二人を見つめる。
美味しくできたと思うんだけど、口に合うかな。
「……煌、婚姻届はまだ早いけど婚約指輪くらいは準備出来てるのよね?」
全て一口ずつ食べたおばさんは真剣な顔でこうちゃんに問いかけた。
とんでもない言葉が出てきたけど聞き間違いでしょ?
「え?あの……今なんていいました?」
「しまった!何も準備していなかったのだよ!」
こうちゃんは顔を青ざめさせた。
なんで顔を青ざめてるの?
こうちゃん、学生でしょ!?
いやそれ以前の問題!
「煌、あなたは何をしているの!こんないい娘があなたが卒業するまで待ってくれるなんて思い上がってはダメじゃない!」
「明日の朝一で準備してくるのだよ!」
「当り前よ!いいわね!給料三ヶ月分よ!」
二人はあたしを置いて盛り上がっていく。
ちょっと待って!
現実に頭が追いつかない。
「二人とも落ち着いてください!」
「あらいやだ。ついつい熱くなっちゃったわね。紫ちゃん、私のことはお母さんって呼んでね」
おばさんは可愛らしくウィンクした。
一気にどっと疲れを感じる。
こうちゃんが時々猪突猛進なところはおばさんから来ているんだろう。
あたしのどこが二人の琴線に触れたんだろう?
混沌とした部屋に電話が鳴り響いた。
「俺だ。ちょっと席を外す」
こうちゃんはあたしを置いてさっさと部屋を後にしてしまう。
二人きりにしないでよ!
心の中で叫んでもこうちゃんには届かなかった。
「紫ちゃんは私のことを覚えていないみたいだけど、私は紫ちゃんのこと知っていたわ」
「それはどういう意味ですか?」
「紫ちゃんが煌と始めて会った日を覚えてる?私はあの病院で働いているの。だから紫ちゃんが入院していたことも知ってるわ」
心臓が激しく鳴り出した。
あたしのことを全部知っていたんだ。
ならあたしがどんな人かも知ってる。
「だから私は煌に紫ちゃんを諦めるようにあなたのことを話したわ。でも煌は紫ちゃんのことがずっと好きだったの。最近煌の帰りが遅くて夕飯もいらないっていうから彼女が出来たことはすぐにわかったわ。でもそれが紫ちゃんだとは思いもしなかった」
きっとこの後に『別れろ』といわれるんだろう。
こうちゃんのいる手前でそんなことはいえないからいない時にって考えてくれたのかもしれない。
でもわがままかもしれないけど、もう少しだけあたしはこうちゃんと一緒にいたい。
こうちゃんに他に好きな人が出来るまで側にいさせてほしい。
「勘違いしないでね。私は煌と紫ちゃんが両思いになって嬉しいの。それに紫ちゃんが私の理想の娘でもっと嬉しかったわ」
「え?理想の娘ですか?」
「私はこの通り家事ができないでしょう?だから煌のお嫁さんは家事が上手な人がいいと思ってたの」
さっきからあたしに都合のいい言葉がばかりが聞こえる。
これはあたしの夢なのかな。
「私からお願いするのはおかしいと思うけれど……紫ちゃん、煌と結婚してくれるかしら?もちろん今ずくにとはいわないわ。煌が学校を卒業して、医者になった時にもう一度プロポーズさせるからその時にちゃんと答えてあげてほしいの」
嘘だ。
こんな……こんな幸せなことがあるはずがない。
「あたしなんかでいいんですか?」
「何をいってるの。紫ちゃんだからいいのよ」
おばさんはあたしを優しい目で見つめる。
こうちゃん以外の女の人にそんな顔を向けられるのは何年振りだろう。
あたしは嬉しすぎて何もいえなかった。
そんな言葉をいわれたのは初めてだったから。
涙が次から次へと溢れて止まらない。
今日はなんて幸せな日なんだろう。
帰ってきたこうちゃんがぎょっとした顔をして、あたしの側に駆け寄ってきた。
あんまりにも早い動きにびっくりして涙が止まった。
「なぜ紫が泣いているんだ!?まさか母が何かいったのか!?」
こうちゃんはおばさんを睨みつけた。
とんでもない勘違いをしている。
「違うわよ。紫ちゃんは嬉しくて泣いているの」
「嬉しくて?どういうことだ?」
訳を知らないこうちゃんは首を傾げる。
「煌、本当に結婚する気があるのなら紫ちゃんを幸せにしなさい。じゃないとお母さんはあなたを許さないわよ」
今度はおばさんがこうちゃんを睨みつけた。
「何をいっているのだよ。当然だ」
こうちゃんは強気に一笑した。
それにあたしは感動してしまってまた泣き出して。
こうちゃんは慌てて、おばさんはなだめてくれた。
あたしのせいで夕ご飯が冷めてしまったけど、二人は美味しいって食べてくれた。
夢みたいな一日は目が覚めても続いてた。
それから一週間後に引っ越すことになった。
こうちゃんとお母さんに次の日にでも一緒に住もうといわれたけど断った。
あたしのバイトの都合もあるし、荷造りにも時間がかかし、電化製品をリサイクルショップに売らないといけないしね。
大した荷物は持ってないし、こうちゃんだけじゃなくて新くんとアキくんも手伝ってくれたから引っ越しは昼前には終わった。
多少のお手伝い料を渡そうとしたら断られたから、二人に引っ越し蕎麦を振るまった。
二人は美味しいっていってくれて、食べ終わってからそのまま帰った。
それからもう一か月が過ぎた。
こうちゃんとお母さんと一緒に暮らすことにも慣れてきた。
家事はあたしの仕事になったけど辛くない。
時々お母さんも手伝ってくれるし、皿洗いもしてくれる。
何より二人ともなんでも褒めてくれるからもっと頑張ろうと思う。
あたしはなぜかこうちゃんと同じ部屋だ。
いや結婚を前提に付き合っているんだから同室なのは当たり前だってわかっているんだけど、改めていわれたみたいでなんだか恥ずかしくなった。
「おやすみ~。煌、ゆかちゃん」
最近お母さんはあたしのことをゆかちゃんと呼ぶ。
昔母がそう呼んでいたと話したらそう呼んでくれるようになったのだ。
「おやすみなさい」
こうちゃんと一緒に返事をして、同じ部屋に入る。
背後からお母さんの引き止める声がして振り返った。
「二人とも結婚するまで避妊はちゃんとするのよ?」
こうちゃんが何も飲んでいないのに盛大にむせていた。
動揺しすぎじゃない?
毎晩一緒に寝ているけど指一本あたしに触れてないの知ってるよ。
「まさか煌やったの?」
お母さんは反対の意味に捕らえたらしく声が冷え切っていた。
「す、するわけないだろう!だいたい息子にそんなことを聞くものではないのだよ!」
こうちゃんは真っ赤な顔で反論していた。
前からまさかとは思っていたけどこうちゃんってどう……何でもないや。
うん。これ以上は男の尊厳ってやつに関わるし。
お母さんも察したらしく少し可哀想な子を見る顔をしていた。
「そう。それならいいのよ。それじゃあ二人ともおやすみ」
お母さんはそういい残して自分の部屋に去っていった。
「あたしたちも寝ようか?」
深い意味はなかったんだけど、こうちゃんは大げさなほど肩を揺らした。
ちょっと面白い。
隠語をたくさんいったらこうちゃんはどんな反応をするんだろう。
悪戯心が沸き上がるけど、実行するのはやめよう。
本気で怒られそう。
部屋に入って窓際置かれたベットの端と端に横になる。
いつもと同じ距離。
そう思っていたけど、毛布の動く気配がして後ろから抱きしめられた。
「こ、こうちゃん!?」
びっくりして声が裏返った。
いきなりどうしたんだろう?学校で何かあった?
「これ以上何もするつもりはない」
いやそこは疑ってないよ?
こうちゃんだし。
「急にどうしたの?」
「特に理由はない。ただお前に触れたくなったのだよ」
理由あるじゃん、ってツッコミは野暮だから心の中でする。
こうちゃんの体温が暖かくて心地いい。
「そっか。あたしはこうちゃんとこうしていると幸せな気持ちになれるよ。ありがとう」
胸の前にあるこうちゃんの手を取って触れるだけのキスをした。
こうちゃんの手がびくりと動く。
いちいち反応が面白いなあ。
「おやすみ、こうちゃん」
「おやすみ、紫」
こうちゃんはあたしの頭のてっぺんにキスをした。
きっと仕返しのつもりなんだと思う。
悔しいけど効果抜群だよ。
きっと今のあたしの顔は真っ赤だ。
そのうち静かな寝息が聞こえてきた。
それにつられるようにあたしも眠った。
夢の中でお母さんとこうちゃんとこうちゃんそっくりの小さな男の子があたしを呼ぶ。
それが数年後に正夢になるなんてその時のあたしは知らずに、幸せの中で眠り続けた。
【嫁と姑のお料理教室?】
※由利子(煌母)→由
由「ゆかちゃん、今夜は手作りの餃子が食べたいわ」
紫「わかりました。中身は何にします?」
由「お店のようなひき肉がいいわ」
紫「じゃあ定番のやつですね」
由「あたしも作ってもいいかしら?お料理は苦手だから大したことはできないけど」
紫「ありがとうございます。じゃあ具を餃子の皮で包むのを手伝ってくれますか?」
由「それくらいなら私にもできそうね」
紫「お母さん!何持ってるんですか!?餃子を包むんですよね!?」
由「何って接着剤よ?これね、なんでもすぐにくっついて便利なのよ」
紫「それ瞬間接着剤じゃないですか!それ食用じゃないですよ!餃子の皮をくっつける時は皮の外側を水で濡らすんです」
由「あらそうだったの。簡単ね」
紫「(箕田さんがいない時の食事はどうしていたんだろう?)」
それから一時間後。
由「煌、おかえり!今日はね、お母さんとゆかちゃんで夕食を作ったのよ!」
煌「母さんが作っただと!?」
由「見た目は少し悪いけど大丈夫。味は同じよ」
煌「皮が破れて中身が出ているが少しなのか?」
由「つべこべいわずに食べなさい!」
煌「う、美味い!?」
由「だからいったでしょ?ゆかちゃんと一緒に作ったから大丈夫って」
煌「紫、いつもありがとう」
紫「うん、どういたしまして(もしかしてこうちゃんが一緒に住みたがったのって、お母さんが家事が出来ないから?)」
疑わずにはいられない紫だった。
リョーヘイに引き続き、新とアキも登場しました。
新のアキへの愛が怖い(笑)
煌は容姿は父親似で性格は母親似で、童〇です。
なので(?)その手の話には男子中学生並みに免疫がないです。
紫はそれなりに経験があるので煌ほど動揺しません。
これで二人の話は終わりですが、また別のキャラの話で出演予定です。
余談ですが、結婚で紫の家族と一悶着あったとかなかったとか。