2-004
◇
《血の衝動》は、吸血鬼にとって抗えない発作症状だ。
血の乾きを満たすために、吸血鬼はどんなことをしても人間の血を啜ろうとする。
そう、どんなことをしても。
俺たちがクロスリードに向かう途中の町に立ち寄ったときだった。
食糧の補給をするために、ミリアを残して商店を巡り、町に置いていた荷馬車に戻ったときだった。
ミリアが、三人組の男に言い寄られているところを見たのは。
彼女の容姿は、単純に言って絶世の美女という一言に尽きる。俺が会ってきた女性の中でも飛び抜けて容姿が良い。……良い、というレベルじゃないか。
だから、こういうこともあるよなぁ、と覚悟はしていたのだ。
三人組の男に言い寄られ、俯いたままじっとしているミリアに助け舟を出そうとした時だった。
男の一人が、ミリアの肩に触れたのだ。
流石にこのままではまずいと思って駆け寄ろうとしたその刹那。
俺の真横を謎の黒い塊が通り過ぎる。
一瞬何が横を飛んでいったのか分からなかった。だが、その正体が何か、数秒遅れて理解する。
いつの間にかミリアの肩に手を置いた男がいなくなっている。
恐る恐る後ろを振り向いてみれば、その男が道脇にある通路壁に上下逆さまになったまま気を失っていた。
残りの二人組も、何が起こったか理解できぬまま棒立ちになっていたが、それを成した張本人が目の前の女性であることを理解したのは、自分が気を失って目覚めた時だったのだろう。
ゆっくりと振り向くと、蠱惑的な笑みを浮かべてこちらを見つめるミリアが目の前に立っていた。
「アルトぉ……!待ってたんですよ♪」
普段のミリアから発せられない猫撫で声と、彼女の瞳から漏出する、真紅の輝き。
一体なにをしたんだ、と問いただしたら……
「アルトに会いに行くのを邪魔したので、仕方ないですよね?そうですよね?私はただアルトに会いに行きたかっただけだったんです♪それなのに、あの人たち、私の言葉も聞かずにずっと同じことを言ってきたので、ちょっと突き飛ばしただけなんですよ?って、そんなことはもう良いんです。我慢の限界なんですっ。こんなに我慢しているのに、ほんと意地悪なんですから……。でも、もう良いですよね?では失礼して♪」
早口で捲し立てられた後に首筋に牙を突き立てられ、冷や汗が止まらなかった。
……あの時のミリアは怖すぎた。
確かに、兆候はあった。
その日まで、やけにチラチラとこちらに視線を送ってきたり、夜になるとなにやらブツブツと言いながら寝ているところを見ていたし……。それまで血を与えていなかった俺にも責任はあるが、ミリアが血の受容を断固として拒否し続けていたのだから、これはどうしようもなかったと言える。
《血の衝動》が起こる周期は、およそ三日といった所だろうか。
その三日経つ前に俺の血を与えればその発作を抑えることができる。
……まあ、発作が起きていないからといって、俺の血に対する執念は、通常時でも同じであり……
―――
浮上する意識。
俺は重い瞼をゆっくりと開けて―――
私近距離で、きょとんと俺を見るミリアと目が合う。
「………」
「………」
無言で目を合わせ続けていると、徐々にミリアの顔が青ざめていく。
そのミリアの両手の行き先に視線を這わせると、
俺の上着のボタンが、全て外されている。
「………おい、何してる」
「……い、いただきまーす?」
「ちゃんと返答しろ、おい。ってやめろ!そのまま続けようとするな!」
むぅ、と小さな声を漏らして、ミリアは俺と距離を取った。
両手で握り拳を作って、ぶるぶると震えだす。
「どうして起きちゃうんですか!!!」
「どうして俺が怒られるんだよ!?」
解せない。
「お前、俺が寝てるうちに血を吸おうとしただろ!?」
「それでもまだやってません!!」
「まだってなんだ、まだって!?」
やろうとしていたことは否定しないのかよ。
「うぅ……珍しくアルトが起きないから、この隙にって思ったのに……ひどいです」
「……お前が男だったら即効アウトだからな」
いや、女でもどちらにしろアウトだが。
というか、ひどいという台詞はこちらが言いたい。
しょんぼりとするミリアを見ながら、俺はため息を吐く。
俺の血に対する執念は、《血の衝動》時でなくても同じだ。どんなことをしても、俺の血を啜りに来る。
たとえ、俺がどんな状況であろうとも、だ。
上着のボタンをかけなおして立ち上がり、おや、と辺りを見回す。残り一匹がいない。
遠くを見れば、眩く光る朝日が地平線から顔を覗かせているところだった。どうやら、魔女の領域に入った後、そのまま熟睡していたらしい。
「あの狼はどこにいったんだ?」
「……血を……」
「あの狼は?」
「む、無視ですか!?……あのオオカミさんなら……」
昨日あれだけ血を啜っていて、今日も血が必要とは全く思えない。全く。
と、森の奥から、土を踏みならす音が聞こえてくる。
後ろ足に包帯をした狼が、その口に白い生き物を咥えてこちらへと寄ってきた。
どうやら、森の中に入って狩りをしていたらしい。
「……なんか申し訳ないな。見張りと、食料調達までしてもらうなんて」
ウサギの死体を地面に置いた狼の頭に手を乗せる。相変わらず無愛想だが、なんというか、リースと同じで律儀な奴だなぁと感心してしまった。
狼が持ってきたウサギの死体を捌いて、朝食にした後、荷馬車へ必要なものを乗せた。
地平線から全ての体を露わにした太陽が、こちらを眩く照らし出している。
朝日に陰る森と、金色の波に輝く草木が、遥か先まで続いていた。
出発の準備が整い、俺は荷馬車の座席へと腰を下ろす。
狼は俺たちの姿をじっと見つめたまま、荷馬車の横で座り続けていた。
「少しの間でしたが、これでお別れです。皆の元に帰れると良いですね」
よしよし、と狼の頭を撫でると、ミリアは俺の横に座ってくる。
「まあ、まだ走り回ったりはしないようにな」
じー、とこちらを見つめ続けた狼は、その場から立ち上がると、森へと歩みを進めていく。
草木の中に埋もれていく狼の姿を確認した後、俺は荷馬車を動かした。
クロスリードはもうすぐそこだ。
(『ゼノヴェルト』で旅を続けていくの?)
そこで、魔女から言われた言葉が脳裏を過ぎった。
俺が歩んできた過去の中に、ミリアに言わなければいけないことがまだ残っている。
ミリアに嘘をついていた、ある一つの真実。
言うタイミングがなかったのもあるが、あまり口外していい内容でないのが一番の理由だ。
……しかし、ミリアが自分の重大な秘密を俺に話してくれているのだ。俺もこの少女に自分の全てを話さなくてはいけないだろう。
「……ミリア、少し聞いてほしいことがある」
そう切り出そうとして、自らの口から言葉が発せられる前にその口を閉じた。
どちらにしろ、いずれ分かることだ。今言うべきことではないか。
「アルト……?」
俺の様子を不審に思ったのか、ミリアが話しかけてくる。
「……いや、お前の代わりの名前について、ちょっと考えてるんだ」
「私の名前、ですか?」
「ああ、流石にクライスラはまずいだろ?」
いくらなんでも、クライスラを含む名前で旅を続けていくわけにはいかないだろう。
王都の名を冠する名前を人前で言ったら、どういうことになるか分かったものではない。
「……で、お前の名前なんだけどな……」
「アルトと同じ、ゼノヴェルトですか!?」
「いや、それだと……」
兄妹か何かで通そうかとも思ったが、いくらなんでも似ていない。
……黒髪と銀髪の兄妹なんて、世界中のどこを探してもいないんじゃないか?
「夫婦で商人をやっている、っていうことでいいじゃないですか!」
「ふ……!?いやいやいや、待て」
どうしてそういう発想になる。
「嫌ですか?」
「い、嫌とかそういう問題じゃ……」
あからさまに落ち込むミリアに、俺は冷や汗をかく。
その方が信憑性は増すだろうが、飛躍しすぎでは……。
それに、服装や見た目からみても、全く釣り合っていない。逆に怪しまれそうだ。
俺の様子に落ち込んでいくミリアを見て、心の中がどんどん圧迫されていく。
「……悪いんだが、ゼノヴェルトはやめた方が良い」
「そ、そうですか……」
しょんぼりと肩を落としている。その様子に、俺は頭を掻いた。
「嫌とかじゃないんだ。ただ、ゼノヴェルトだけは……被害を受けるのは、俺だけで十分だしな」
「……え?ど、どういう意味ですか?」
俺はその問いに、無言になることしかできない。
これまで、王都で商人として活動できていたのは、ディモンが何か裏で手を回していたからだろう。
そうでなかったら、俺は今頃……
そのまま口を閉じた俺の様子に何かを感じたのか、ミリアは小さく微笑んだ。
「もし、言いたくないことがあるのなら、無理に言わなくても良いんです。アルトが言える日まで、待ってますから」
「ああ……いつも悪いな」
「いいえ、こちらこそ、いつもありがとうございますっ」
……本当に、いつも助かってるよ。
他者への思いやりや、その優しさに救われているのは俺だ。
「それでだな、お前の名前は……レルクレイン、ってのはどうかって思ってる」
「レルクレイン?どういう意味なんですか?」
「昔この大陸で使われてた言葉なんだ。意味は―――」
と、そこで無意識に選んだ言葉に潜む意味に、俺はたまらず赤面する。
馬の手綱を握ったまま硬直した俺を見て、ミリアは不思議そうに首を傾げていた。
「アルト?どうしたんですか?」
「いや……意味は……どうだっていいだろ」
「え?あの……」
「もうすぐクロスリードが見える。お前は荷物の整理をもう一回しておいてくれ」
「れ、レルクレインってどういう意味なんですか!?もしかして、恥ずかしい言葉なんですか!?」
「い、いいから荷物の整理を……」
「教えてくれてもいいじゃないですかっ!」
「う、うるさい!いいから後ろの荷物をまとめてくれ!」
「~~~~~!!もうっ!!」
俺の様子に怒ったのか、ミリアはそのまま荷馬車の後ろに引き篭もってしまった。
言えるもんじゃない。俺にとって恥ずかしすぎる意味だからだ。
朝日が照らす街道を進みながら、俺はミリアの顔を見られずにずっと赤面したままだった。
……早く、クロスリードに着かないだろうか。
明日も更新予定です。




