2-003
鍋を近くに流れている小川で洗った後、俺は焚き火の前に戻って袋の中から地図を取り出す。
なだらかな丘陵が続く街道を進み続けると、クロスリードが見えるはずだ。真っ直ぐに続く街道は、途中で分かれたりはせずに一本道のはずなので迷うことはないだろう。
ちらりと、俺は荷馬車の上で眠りについているミリアへ視線を向ける。
あれから片付けを手伝うと聞かなかったが、なんとか説得して先に寝るように言っておいた。
今まで王城で軟禁生活を送ってきたというのに、長旅に出ても泣き言を言わずずっと俺の傍で笑顔をむけ続けている。
吸血鬼という存在だから体力の心配もないとは思うが、それでも今まで過ごしてきた環境とは一変しているのだ。精神面で疲れ切ってしまうのは仕方ないことだと思うのだが……。
「タフだよなぁ……」
焚き火の火が小さくなったのが分かって、薪を焚べる。
道を確認した後、俺は地図を懐にしまって、夜空を見上げた。
数多の星々が濃紺の空を彩り、俺を見下ろしている。
と、何かの気配を感じて俺はその方向に視線を向けた。
岩の陰から出てきたのは、俺たちが出会った狼の魔獣だった。
焚き火の前から姿を消していたから森に戻ったと思っていたのだが……。
「どこ行ってたんだ?怪我は大丈夫か?」
狼は吼えたりもせずに、俺の傍らに寄り添うように身を低くした。じっと焚き火の炎を見つめる金色の瞳は、全く俺を見ようとしていない。
「……愛想のない」
お前が言うな、とディモンとエルナからの叱責が飛んできそうな気がしたので、それ以上は言わない。
それにしても、この狼から野生特有の殺気も、俺達に対する敵意も何も感じない。不意打ちで噛みつかれでもしたら大変だろうが、その行動を起こすような気配もない。
「お前、なんでミリアを助けたんだ?仲間同士で争ってたのか?」
あの時に見た狼の死骸。
地面に血を垂れ流す無数の狼の死骸は、おそらくこの狼と争った後のものだろう。
あの場にあった狼の死骸は、目の前にいる狼と違って小さな個体だったが、あの狼たちも『魔獣』の可能性が高い。
俺の質問に、それでも目の前にいる狼は目線を前に向けたままじっとしているだけだった。
「……まあ、狼には狼の事情があるんだよな」
人間にも、この狼にも。
俺はその場から立って、馬車の中へ袋を置く。その中で静かに眠り続けているミリアを確認した後、焚き火の前へとまた戻った。
「お前ももう寝ろよ。早くその怪我を治して、自分の仲間たちの元に戻んなきゃな」
が、狼はその言葉が不服だったのだろうか。
すくっと、その場からいきなり立ち上がった狼に、一瞬身構えてしまった。
しかし、そのまま狼は焚き火を強風から守るように屹立している岩の上へぴょん、と器用に登った。
そして、岩の上で座りながら前方を睨み続けている。
一体何なんだ、と思って、その意味に俺は気付く。
「もしかして、代わりに見張りをしてくれるのか?」
その言葉に、狼は首を俺の方へ微かに向けて、また前に視線を送り続けた。
……プライドの高い狼というかなんというか。
苦笑しながらも、俺は焚き火の前に座りなおす。
「ありがとな。じゃあ、俺も少し眠らせてもらうから、何かあったら起こしてくれ」
一番信頼できる見張りだ。
獣が寄ってくる可能性は低いだろうが、野盗が現れる可能性は大いにある。
いままで俺が見張りをしていて、ミリアに任せることは少なかったが、まさか野生の狼がその見張りをしてくれる日が来ようとは。
後ろにある岩に寄りながら、ゆらゆらと揺らめく焚き火の炎を見つめ続ける。
クロスリードにいるというディモンの知り合いは、どんな人物なのだろうか。
ミリアを元に戻せる手がかりが見つかればよいのだが……
うつらうつらと、徐々に混濁していく意識。
膝に頭を置いて、俺はじっと目を瞑る。
……ミリアの偽名も、考えておかないとな。
暗闇に落ちていく意識と、力が抜けていく四肢の心地よさを感じながら、俺は眠りへと落ちていった。
―――
はっ、と俺は意識が何か違う力で覚醒されたのを感じた。
そして、目の前に広がっている景色を見て、何が起きたのかを理解する。
周囲を埋め尽くす、円形の巨大な本棚の中心に俺はいた。
遥か先まで続く天と地のその中間。螺旋階段が連なるその途中の広い空間。
その空間にある白の椅子に、俺は座っていた。
……間違いない、あの魔女の領域だ。
机も同様に真っ白で、その机の上に、花の模様が入れられたティーセットが置かれている。
カップの中に注がれた琥珀色の紅茶が、白い湯気を立てている。
俺はそのティーカップを見て、向かい側にいる人物へと視線を向ける。
安楽椅子に座って、分厚い本を読み続けている女がいた。
金と銀の混じる髪を、蓮を象った髪飾りで一纏めにした女性だ。その耳は鋭く尖っており、人間ではなくエルフであることを告げている。
「いきなりお呼び出しか。自分勝手にも程があるんじゃないか」
「そうね。もう少し早く呼び出す予定だったのだけど、色々あってね。時間がかかってしまったのよ。アナタたちも随分楽しそうだったし、それに水を指すのは悪いじゃない?」
……この女、やっぱり全部視ていたようだ。
ぱたん、と本を畳むと、その本が空虚な空間に溶けるようにして掻き消えた。
安楽椅子から立ち上がって、魔女は俺と向かい合うように白の椅子に座り直す。
「……俺はいまどういう状態なんだ」
「心配しなくていいわ。アナタの精神体だけを、私が与えた『呪い』をパスとして呼び寄せているだけだから、寝不足になることもないの」
いわゆる、魂みたいな存在のまま、俺をこの魔女の領域に呼び寄せているってことか。
「便利な魔法だな」
「精神エーテルの励起作用の応用よ。アナタも王女様から教わっていたでしょ」
遠回しに、俺が馬鹿であることを言わないで欲しい。
クスクス、と笑う魔女に舌打ちする。
「そう怖い顔しないの。私の下僕にならなかったら、王女様を助けることだってできなかったのよ?嫌われるより、感謝されるべきだと思うのだけど」
魔女と交わした契約。
その中に、魔女の下僕になるという契約があった。
その契約がなければ、俺はミリアの絶対命令に逆らえない状態だった。それを、『上位存在の絶対命令』を優先させることで無効化した。
すなわち、俺に命令するように依頼したのだ。『ミリアを絶対に助けろ』と。
確かに、この魔女に感謝するべきことがたくさんあるが……。
「そうやって自分の思い通りで楽しい、みたいな顔を見るとライツェを思い出してな。アンタも、あの男と同じ存在なんだろ?」
この女も、あの男の仲間の一人かもしれないのだ。
俺の言葉に、うんざりするように魔女は首を振った。
「あの男は、私とは異なる存在よ。世界に積極的に干渉したがる、傲慢に満ちた落第者。私に対する羨望と嫉妬も、全てが愚かしくて仕方ないわ」
「……一体なにをしようとしてたんだ。『人造魔剣』に【朔夜の影絵】、そして『矛盾汚染』。一貫性がなさすぎる」
「『世界』という盤上で、実験をしたいだけよ。世界を歪みに歪ませて何が起こるか、その目で見てみたいんでしょう」
王都。実験場。自分の成果。
そんなことを何度も言っていたが、他者も巻き込んで自分の欲求を満たすなど、正気の沙汰ではない。
「そのまま野放しにしてていいのか?まだ何かするような口ぶりだったぞ」
「どうにかしたいのは山々なんだけど、ライツェの『本』の権限はライツェ自身が持っているの。私には何も干渉できないわ」
魔女はそう言って、机に置かれている紅茶の匂いを堪能しながらこくりと一口飲み込んだ。
俺も習って、目の前に置かれている紅茶に口をつけた。
「ライツェの話はお終いにしましょう。あの男の本が手元にない以上、その居所も観測不可能なのよ」
「……この領域も、なんでもできるって訳じゃないんだな」
「ええ、その通り。ただ識ることができるだけ。それじゃ、アナタの依頼について訊きましょう」
この女は、俺が何を確認したいのかを分かっていてそう言っているのだから、尚更胸糞悪い。
「……ミリアを元に戻す方法を教えてくれ」
「普通の方法なら不可能、と一言で返答することができるのだけど」
「普通の方法なら、だろ。一つだけ可能性があるはずだ」
ふふ、と魔女は俺を見て微笑む。
この他者を見透かすような態度、本当に苛ついて仕方がない。
「そうね、確かにあるにはある。ライツェが王都から盗んでいった【影写しの大鏡】の矛盾を解放すれば、彼女を元に戻せるかもしれない」
ライツェが王城から盗んでいった、適性者の願いを叶える《魔剣》、【影写しの大鏡】。
その力で、ミリアを元に戻せるかもしれない。
「ライツェじゃなく、その《魔剣》を観測することはできないのか?」
「私は『表』の観測者なのよ。私に確認するよりは―――」
そこで、魔女がピタリと言葉を止めた。
なんだと思ってその魔女の様子を見てみると、何か遠くを見るような視線のまま硬直している。
「―――そうね、そうしましょうか」
ポツリと、そう微かに呟いた。
「後でアインに会うと良いわ。あの子なら、何かいい情報を渡してくれるでしょう」
「アインに?あいつもどこにいるか分からないんだが……」
「大丈夫よ。あの子からアナタに話しかけてくるはずだから」
それは、いつアインと会えるのか分からないということなのでは?
魔女は紅茶の二口目を飲みながら、ゆったりと足を組み直す。
……仕方ない、ここで粘ってミリアを元に戻す方法を訊くよりは、俺に友好的なアインに確認したほうが良い情報が得られるかもしれない。
情報屋として契約をしたというのに、魔女よりもアインに頼るのは気が引けるが……。
と、そこで訊きたいことがもう一つあることを思い出して、魔女へ話しかける。
「なあ、吸血鬼の吸血のことなんだが……」
「ああ、いつもあの子に血を啜られて大変そうね」
「……ほんと、他人事だと思ってるなお前」
「だって他人事なんだもの。いいじゃない、あんな可愛い子に血を啜られるなんて、滅多にないわよ」
「そもそも血を啜られることがないだろうが!」
この魔女は……っ!!
「他に血の供給方法はないのか!?瓶で保存しておいた血を飲ませるとかあるだろ!?」
「無理よ。アナタの血と、その血に含まれる魔力を吸って《血の衝動》を抑えてるんだから。瓶で保存した血を呑んでも、血中魔力が霧散してしまうから意味がないの。直接呑むしか方法がないってこと。分かるかしら?」
「そ、それでもなにかあるだろ……これからクロスリードに入るんだ!町の中で《血の衝動》が起こったらどうすればいいんだよ!?」
「それはほら、路地裏とかに隠れてこっそりとやるしかないでしょうね」
「お、お前……っ!!」
俺の慌てように、魔女はにやにやと笑ったままだ。
「それなら、この領域で血の供給をさせてくれ!それなら問題ないだろ!?」
「ああ、残念だけど、それも不可能ね。アナタにはこの領域の入室権限を与えているけど、あの子にはそもそも私とのパスが存在しないし」
「……っ!?」
……どう足掻いても、不可能な様で。
ブルブルと体を震わせている俺の様子を見ながら、魔女はつまらなそうに紅茶を飲み干した。
「はいはい、落ち込まないの。それじゃ、今日はこのぐらいにしましょうか。私からの依頼は、アインから直接伝えるようにするから、また後で」
魔女が椅子から立ち上がって、安楽椅子へと座り直す。
悩みが増えて項垂れている俺の様子を気にせずに、魔女はただ後ろを向いているだけだった。
「あ、そういえば、確認したいことがあったのよ」
「……なんだよ」
魔女の手元に、また分厚い本が現れた。その本を広げながら、魔女は俺に口を開く。
「アナタ、本当に『ゼノヴェルト』で旅を続けていくの?」
びくり、と体が硬直する。
言わんとしている意味が分かり、俺は魔女の背中を睨みつけた。
「アナタが思っている以上に、『ゼノヴェルト』は有名よ。商人という仕事が影の活動だったアナタの父親故にね」
「……」
「今までアナタが有名にならなかったのは、ディモンという男に守られていたから。クロスリードに向かうなら、覚悟しておいたほうが良いわね」
「……それも、干渉じゃなく助言ってことか」
俺の言葉に、魔女はにこりと微笑んだ。
「まあ、私の下僕になっている以上、そんなことを気にしなくてもいいのだけど。あの子の偽名も、ちゃんと考えているのかしら?」
「……余計なお世話だ」
「そう、それなら問題ないわ。忠告は以上よ」
グン!と視界が遠くなる。
魔女の力によって、俺の精神が元の体に戻ろうとしているのだろう。
暗闇に遠のいていく視界と、奇妙な浮遊感。
俺の意識は、闇の中へと落ちていった。
「クロスリード……竜の出現。面白くなりそうね」




